チクロ

靴紐とキス

 

 

 

 

 

 冷蔵庫にある沢山の貰い物…遠い親戚である須賀からのおすそ分けを見せ、明日はこれでサンドイッチにしようと思うのだが、と男は切り出した。

「いいね」

 棚に鎮座するかなり長いソーセージやベーコンの塊を見ながら、桜井僚は目を輝かせた。
 だろう、と神取鷹久は微笑んだ。これらをどうやって消費しようかと考えた時、先週作ってもらったサンドイッチが頭を過ぎったのだ。

「あれが忘れられなくてね」
「ああ、あれ」

 本当に美味かったからねと続ける男に、僚はにやけそうになる顔を慌てて引き締めた。それでもだらしなく緩んでしまう。
 調理実習のおさらいで、中身の味付けも特別な物は何もない。それでも美味いと言ってくれる男に心がどこまでも舞い上がる。あんなものでよければいくらでも作ろう。

「鷹久の作ったスコーンも最高だったよ」

 手が止まらなくて、危うく男の分まで食べてしまうところだった。いささか恥ずかしい記憶をたどり、僚は笑った。

「よければまたの機会に、今度はどっさり作るよ」
「うん……じゃあ大丈夫だな」

 遠慮なく口に運べるなと、僚はおどけた顔で喉を鳴らした。
 無邪気な喜びように男もふと笑う。

「それで、あとパンは?」

 先週と同じものを所望しているなら、厚切りパンもすでに用意されているだろうと、僚はきょろきょろと辺りを見回した。が、傍の棚には見当たらない。冷凍庫に保存しているのだろうか。

「明日の朝、買いに行くつもりなんだ」
「あ、そっか」

 明日の朝、一緒にパンを買いに行って、出来立てのパンでサンドイッチを作る…中身はレタスと色々。ソーセージに卵にベーコンも。好きなのを好きなだけ挟んでかぶりつく。思い浮かべるだけで涎が出そうになった。

「よし、早く寝よう。明日、早く行くから」
「そうだね」

 男は後片付けを手早く済ませ、何時に起床予定と告げてベッドに入った。
 灯りを落とし、おやすみなさいと横になる。

 

 

 

 翌朝、いつもより早めに寝床を抜けて外出の準備をする。窓を少し開けて確かめた外は、十一月も終わりにしては穏やかで、それほど着込まなくても済む陽気だった。

「そういえば、どこまで買いに行くんだ?」

 玄関先で靴を履きながら、僚は尋ねた。
 君のアパートの近く、という答えに思わず目を丸くする。まさかと思いつつ、店名を口にすると、そこに行くよと男は言った。
 何とも奇妙な味わいに僚は曖昧に笑った。
 エレベーターで地下駐車場に向かい、車に乗り込んで件のベーカリーを目指す。
 実際に到着するまで、僚は何故か半信半疑でいた。
 しかし間違いなく男の目的地はそこで、自分もちょくちょく寄っている店に男と二人で入る事に言いようのないむず痒さを感じた。
 嬉しくもあった。
 自分もここのパンは好きで、何度か買いに来ている。男もそこを気に入ってくれてるなんて、むずむずして、何かちょっと嬉しい。

「あ、結構似合う」

 トレイとトングを構えた姿も様になるよとにやにやしながら褒めると、男はそうだろうと少し得意そうに笑った。
 そう広くない店内と、次々やってくる客に遠慮しつつ、欲しいものは逃さず素早くトレイに乗せる。
 これにする、これもいい、こっちも試してみよう。
 棚にずらりと並ぶ様々なパンを見ていると、食パンのサンドイッチだけではもったいない気がした。
 それに、それに。こうして短くも沢山のやり取りをしながら何かを選ぶのはことのほか楽しく、さっさと終わらせてしまうなんてもったいない。一つでも多く言葉を交わそうと、僚は棚の端から端まで目を滑らせた。
 狭いから密着しても不自然じゃないよな、と言い訳を自身にしつつ、肩を寄せ合って選ぶ。
 気が付けば、二人で食べるには結構な量のパンがトレイに乗っていた。
 早起きしたせいか、いつもより空腹を感じた結果だ。
 ちょっと多かったかな。
 いや、食べちゃうだろ。
 そうだね、食べちゃおう。
 朝からたっぷり、そうたっぷり。
 笑い合い、会計を済ませて車に戻る。
 帰りの車内で、神取は何故ここを選んだかを説明した。

「つい先日の事だが、秘書の柏葉君が、昼の買い物でここのパンを買ってきてくれた事があったんだよ」

 ホットドッグかサンドイッチが食べたい、という自分の希望を受けての事だ。

「そっか、近いもんな」

 男の勤め先からも近い。僚は軽く頷いた。
 神取も頷き、パンの美味さに特に惹かれて、いっぺんで気に入ってしまったと続けた。

「それに前後してソーセージやベーコンのもらい物をしたから、サンドイッチを作るならぜひここのパンで、と思ったんだ。ここのパンで作ったらさぞ美味いだろうと思ってね」

 前回のサンドイッチ作りで、パンの耳をつけたままにした方が安定があり、具をたっぷり詰め込んでも崩れてしまわないからいいのだと、彼は説明した。実習でそのように習ったそうだ。その時に使用した食パンの耳は、柔らかめであった。

「あの店のパンは、歯応えが特別しっかりしているだろう」
「そうそう」

 僚は二度三度頷いた。特に食パンの耳が、食べごたえがあるのだ。しっかり噛みしめていると、何とも言えぬ香ばしさが口中に広がる。

「それで、こちらのパンでサンドイッチを作ってみたくなったんだ」
「そうなのか。ああ、腹減ってきた」
「もうしばらくお待ちを」

 空っぽの胃袋を撫でる隣の少年に笑いかけ、神取はアクセルを踏み込んだ。
 じゃあ帰ったら、ソーセージは焼く? 茹で?
 ああ、卵は溶いてささーっと半熟でね。
 そうそう、すこしとろっとしているのが好きだよ。

「鷹久もそっち好きだよな」

 声は嬉しそうだが顔付きは一層険しく僚は言った。
 機嫌が悪いのではない。空腹に堪える会話がつらいのだ。よくわかっている男は、同じように顔をしかめ、それから笑いかけた。
 僚は恥ずかしそうにしながら、笑い返した。
 地下の駐車場からエレベーターに乗り込み、最上階を目指す。
 扉が閉まり、小箱が上昇を始めるとほぼ同時に、神取は口を開いた。
 あ、靴紐が、という言葉を受け、僚は反射的に下を向いた。

「さんきゅ……――!」下を向いてすぐ、騙された事に気付く「……と、やられた」

 この、と笑いながら見上げると同時に、唇にちょんとキスをされる。

「いただき」

 イタズラ大成功と得意げに笑う男に、僚は一瞬遅れてむくれた顔をしてみせる。

「……この」

 しかし表情ほど感情は尖ってはいなかった。むしろ笑いたかった。
 あまりに子供じみたイタズラに調子づく男を、笑いたかった。
 下らなさに、面白さに腹を抱えて笑いたかった。
 胸を突き破りそうなほど激しくなった鼓動に、目がくらくらする。
 怒った振りを装い、僚はそっぽを向いた。
 実際のところは、呼吸までおかしくなるほど胸がどきどきしていた。こんな子供じみた事もする人だって、段々わかってきたけど、第一印象が『なんだこいつ』と良くなかったし、黙っている時の顔がちょっとおっかないと感じた事もあったから、それ以降わかってきて変わった印象とのギャップに頭がくらくらする。

「………」

 こんな些細な、他愛ない事にまで胸がときめいてしまう自分が恥ずかしくてたまらなかった。
 最上階に着き、開いた小箱の中に外の空気がふっと入り込む。
 十一月も終わりの空気は、少し冷たい。頭も程よく冷える。
 途端にむくむくと、仕返しのイタズラ心が湧いてきた。
 僚は、先を行く男に気付かれぬようそっと息を吐いた。気付けば頬が緩んでいた。
 玄関に入り鍵を閉めたところで、さも忘れ物をしたかのように声を上げる。

「……あ」
「どうした」

 先に上がっていた男は、何事かと振り返った。
 待ってましたとばかりに狙い定めてキス。

「いただき。やった」

 お返し成功と、僚はにんまり口端を持ち上げた。
 まいったか、と晴れやかな顔で笑う僚に、参りましたと神取は潔く白旗を上げた。
 まんまとやられた。が、これは。
 これっぽっちではとても足りない。神取は正面で笑う少年を抱き寄せ、より深く唇を重ねた。
 同じ気持ちだった僚は、背中にしっかり腕を回して応えた。
 男の腕にあるパンの袋ががさがさと音を立て、香ばしい匂いがふわふわと漂ってきた。

「腹減ったよ鷹久」

 やがて顔を離し、僚はそう零した。
 その割にはちっとも腕の力を抜かない彼に、神取はそうだねと返した。
 くすくす笑いながらキスを続ける。
 僚はいたずらっ子の顔で笑い返すと、入り込んできた舌に軽く噛み付いた。

「いたいよ」
「だって腹減ったし」

 僚がくすくすと笑う。男も参ったと笑う。

「では、君の腹の虫が怒り出さない内に、取り掛かろうか」
「ああもう、また意地悪する」
「意地悪なんかしないさ」
「したじゃん、今」

 男はするりと腕から抜け出し、笑いながらリビングへの戸を開いた。

「ああ忙しい、早く作らないと私が食べられてしまう」
「こら、ごまかすな」

 僚は早足で追いかけた。
 忙しい忙しい。
 鷹久、もー。
 笑い合いながら、二人はキッチンへ向かった。

 

目次