チクロ

長袖

 

 

 

 

 

 

 出がけに、いつもの習慣である今一度の家中の戸締りを確認した桜井僚は、背中に乗せるようにしてバッグを肩にかけアパートを出た。
 空気はひやりと冷たいが今日も天気は良く、眩しいほどの陽光が降り注いでいた。
 アパートの前の路地から表通りに出て、信号を二つ渡り住宅街の中を進むのが、いつもの通学路。
 時々、その途中にあるコンビニエンスストアに寄って、缶コーヒーや小さなパック飲料を一つ買ってから学校に行く事もある。
 ほぼ毎度と言った方がより正確か。
 同じ制服を着た人間が次々吸い込まれてゆくものだから、ついつい自分も波に乗って店内に踏み込んでしまうのだ。
 また、時間帯が同じなのか、店内でクラスメイトに会う事もしばしばあった。
 見知った顔を探して、今日も僚は自動ドアを潜り抜けた。
 駅に近く、出勤前の社会人や学生が寄りやすい位置にある為、店内はそれらの人間でごった返していた。しかしほとんどが、一つ二つ物を買うくらいなので、並んでも待つ時間はそれほど長くはない。
 人を一人避け二人避けしながら飲料コーナーに向かうまでに、今日は何にしようかとあれこれ思い浮かべる。その横を、手を組み合わせて繋いだカップリが通り過ぎる。
 ヨーグルト買う?
 牛乳は?
 あれにしようか、これにしようか、食べなきゃだめだよ。
 だって。
 いいから。
 くすくす。
 むず痒くなる、よくある二人の会話。
 よくある事、これまでも何度もこんな風に仲の良い二人とすれ違った事がある。今までは何も思わず聞き流してきたが、今日は何故だかやたら耳に残って、奥の方で繰り返し響いた。
 今日は紅茶にしようか珈琲にしようか迷っていた頭が、二人の会話に引きずられ気付けばいつしか自分と彼とで想像してしまっていた。
 自分たちだったらどんな風に会話が転がってゆくのかを頭に巡らす。
 目の奥がじわっと熱くなるのを感じた。
 始めは大人しかった思考は、あっという間にあらぬ方へと転がってゆく。
 二人の密な朝食の時間へ。甘い甘い妄想へ。
 今度は首筋の辺りがかっと熱くなる。
 妄想ではない。実際過ごした数日前の朝を思い出す。初めて男と「コミュニケーション」を取った翌朝の、身悶えるようなやり取りがくっきりと蘇ってきた。
 こんなところで何をやっているのかと恥じ入る気持ちは、呆気なく奥に押しやられた。
 甘い甘い朝のひと時に耽り、その場に立ち尽くす。
 カップルは、すぐ後ろの棚から一つ二つ商品を手にして、レジへと向かっていった。
 二人が遠ざかるのと入れ替わりに、聞き覚えのある声がしてきた。
 はっと我に返る。
 クラスメイトの、稲葉と上杉の声だ。今しがた聞いたカップルのやりとりを、飲料コーナーの隅っこに寄って、再現しているようだ。
 といってもいつものごとく、調子づく上杉と、ぞんざいにあしらう稲葉の、高低の組み合わせだ。
 始めは彼女役だった上杉が、徐々に世話焼きな「母ちゃん」に代わってゆく。
 稲葉がそう呼ばれるのを嫌うのを知っていてわざと「まーくん」と呼びかけ、あれ食べなさいこれ食べなさい、好き嫌いするんじゃないよと、上杉の舌はなめらかに動いた。
 彼らに比べて自分はなんという…猛烈な勢いで込み上げる羞恥心に自然と顔が下を向く。
 やがてそれも、二人の妙な掛け合いを聞く内に鎮まっていった。
 ようやく話しかけられる。

「二人はそういう仲だったか」

 心底びっくりしたと声を作り、割って入った。
 二人はほぼ同時に顔を向けた。

「あ、さくらさん、いやーまずいとこ見られちゃったなあ」
「てめーのせいだろ上杉」

 得意げな上杉と、苦い顔の稲葉にそれぞれ笑いかけ、少し頭を冷やそうとブラックの缶コーヒーに手を伸ばす。

「あ、今日はそれ? んじゃあオレ様はー」

 続いて二人もそれぞれ手に取った。
 会計を終えて外に出たところで、上杉がおお寒いと声を上げた。稲葉も、言葉こそ出さないものの両手をポケットに突っ込み肩を竦めていた。
 先ほどの甘い妄想の残り火か、寒さはまるで感じない。更にはマフラーもしている。男が買ってくれたマフラーをしっかり身に着けている。暖かいに決まっている。頬がほてる程に。

「今って何時?」

 少し歩いたところで、上杉が聞いてきた。コートの袖に少し苦労してまくり時刻を確認する。
 早くもないが、遅いというでもない時間。
 答えた時は何とも思わなかったが、袖を戻そうとしてふっと過ぎるものがあった。
 今日の自分は、男からの贈り物を二つも身に着けているのだと、改めて思ったのだ。その途端、鎮まったはずの動悸がまたぶり返してきた。
 まずい、顔が一気に熱くなってきた。処置に困っていると上杉が口を開いた。

「ねえ、二人にお願いあるんだけどさ」
「あんだよ」
「アラヤ神社寄ってくんない?」
「はあ? なんでだよ」
「今日の小テスト、良い点数取れますようにってお願いしに行きたいの」

 だから一緒にいってほしいのだと続ける上杉を、稲葉は心底呆れた顔で一蹴した。

「いーじゃん、さくらさんも、ねえ、お願い!」
「おら、オマエがあんまり頭あったかい事言うから、桜井先行っちまったじゃねーか」

 本当のところは赤くなったであろう顔を隠す為の早足なのだが、稲葉は上手い具合に解釈してくれた。
 心中で感謝し、パス一の姿勢を貫く。

「えー、二人とも冷たい、あまりに冷たすぎる」

 オレ様泣いちゃう、と上杉は目尻を拭う仕草をしてみせた。

「行きたきゃ一人で行けよ」
「もー、まーくんもさくらさんもひどい!」
「神頼みするより、実際に教科書見る方が効果あるよ、上杉」

 ようやく落ち着きを取り戻し、それだけ言える余裕が出てきた。
 口を思いきりへの字に曲げた上杉に笑いかけ、そう言って促す。

「そーだよ、おらさっさと行くぞ」
「わかったよ……やりますよーだ」

 踏ん切りがついたのか、少し駆け足で近付いてきた。
 いくらか慰めになれば…そして密かな自慢を込めて、コートの袖をまくって時刻を見せる。

「ほら、まだ少し時間に余裕があるから、頑張れ上杉」
「てかさくらさん、オレ様の絶体絶命楽しんでない?」
「何が絶対絶命だ、ばーか」

 どきりとすると同時に稲葉が声を上げ、またも救われる。
 上杉の『ピンチ』を楽しんでいる訳では決してないのだが、そんなにはしゃいだ声を出してしまったのだ。
 横に並んだ二人に見えない位置で、長袖の上からこっそり時計を撫でる。

 

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