チクロ

帰り道

 

 

 

 

 

 ホームに向かう階段を下っていると、タイミングよく電車がやってきた。
 心持ち早足になって、自分が降りる駅で丁度いい場所に向かう。
 足を止めるとほぼ同時にドアが開いた。数人の後について電車に乗り込む。
 正面のドア横が空いていたのでそこにまっすぐ向かい、持っていた紙袋を足に挟み手すりに寄りかかるようにして落ち着く。
 何気なく見やった先に、ぼんやりと自分の姿が浮かび上がっていた。不安げな顔がそこにあった。そんな気持はまるでなかったから、ぎょっとして唇を引き締める。
 それでも表情はあまり変わらない。光の加減でそう見えるだけだと切り捨て、誰もいない向かいの手すりを曖昧に眺める。
 先月最後の日曜日、妹の誕生日を祝う為に実家に帰った。それから約一ヶ月後の今日、自分の誕生日が巡ってきて、月に一度の帰宅も含めて実家に帰った。
 妹の誕生日の際、彼女のリクエストに応えいくつか料理を作ったからか、今日は彼女からお返しにと手作りのケーキが振る舞われた。
 白い生クリームのホールケーキに、イチゴがこれでもかと飾り付けされていた。
 上に乗せるだけでなく側面にもイチゴを貼り付けたのは、生クリームを綺麗に塗る事が出来なかったごまかしからであると最初にネタ晴らしをされた。
 が、白と赤の組み合わせは見た目も豪華、華やかでとても楽しい気持ちにさせてくれた。
 出来ないなら出来るようになるまでする、と考える自分には、別方向でカバーするやり方を選んだ彼女になるほどと感心した。
 味は文句なし、最高だった。クリームの甘さが酸味の強いイチゴによく合い、食べる端からもっと頬張りたくなるほどだった。何度美味いと口にしたかわからない。己の兄バカぶりがおかしかった。
 料理を食べてケーキを頬張って、お開きまでの二時間弱があっという間であった。
 実家に向かう時は少々億劫で…帰る事自体は嫌ではないのだが、自分の誕生日を祝う為というのがどうしても気恥ずかしく感じられ、いささかうんざりした気持ちを抱いていた。
 去年も同じようにうんざりしたのを思い出す。あの頃は本当の意味で実家に帰るのが嫌であった。
 ただ事務的に、月に一度くらいはしょうがないと、アパートを出る時から憂鬱であった。とはいえ彼らにそのまま見せる事はなかった。上手く隠して嘘を吐く、本音は奥に隠して喜ぶふりをした。
 そうすれば向こうも嬉しいだろうと演技をした。
 自分だって、嬉しいと思う気持ちが全くなかったわけではない。全部をわかったとは言わないが、彼らには彼らのどうにもしようがない事情があって、その結果の現在であると受け入れようという気持ちはある。
 受け入れなければというのではなく、受け入れていい、受け入れたい自分と、まだまだ反発したい自分とがいて、ぐらぐらと揺れていた。
 いつまでも憎んでも仕方ない、疲れるだけで何も良い事はないといい加減踏ん切りをつけたい自分と、傷付いた自分を引っ込めたくない気持ちとがせめぎ合っていた。
 そして一年が過ぎて、また自分の誕生日がやってきた。離れて暮らしているのだから、せめてこうした節目は一緒に過ごそうと心を砕いてくれる彼らに、感謝や、申し訳なさが胸いっぱいに込み上げた。
 素直に嬉しいと思うようになった。
 実際に過ごした二時間弱は、本当に楽しい時間であった。迎える前や、終わった後の今はこうしてもやもやとぶり返すものがあるが、真っ最中はすっかり忘れて家族で過ごす時間を無邪気に楽しんだ。
 開始の合図にとクラッカーの紙テープをこれでもかと浴びた瞬間から、一気に気分は盛り上がった。嘘や演技ではなく、ありのままの自分で過ごした。
 おかげで少しくたびれたが、嘘や演技で塗り固めて疲れたのとは違う充足感で一杯で、気分は良かった。
 だというのに、何故ここには不安げな顔が映っているのだろう。
 いつの間にかまた元に戻っていた顔から目を逸らし、意識して口を引き結ぶ。
 いくつも駅を越え、やっと自分の降りる駅に到着した。乗った時は結構な人数の乗客がいたが、ここまでくるとちらほらと人影が見えるだけだ。
 足元に置いていた紙袋…家族からの贈り物が詰まったやや大きめの袋をしっかり手に持ち、ホームに降り立つ。
 もっと昔、一人暮らしをする前の、いつも何かに苛々していた自分を思い出した。何から何まで気に障って、常に鬱憤を溜め込んでいた。今思い返すと、何にそこまで苛立ちを覚えたのか、さっぱり思い出せないのだ。
 生活していて、あれが嫌だったのかこれが嫌だったのかと追究してみるのだが、どれもこれもぴんとこない。それでも自分はいつも何かしらに腹を立て、ぴりぴりしていた。
 そのせいで本当に取り返しのつかない事になってしまうのが嫌で、家族から離れ、一人で暮らす選択をした。
 後悔はない。心底ほっとした。物理的な距離感に救われた。思い描いていた規則正しい生活と、独り身の気楽さに安堵するのはそれから一年以上してから…最近になってようやくだ。
 なんでも完璧に出来るなんて思っちゃいないが、それでもある程度自信はあった。家事はひと通り覚えた、何にどれだけ金がかかり、どんな手間がかかるのかしっかり頭に叩き込んだ。一日の流れも思い浮かべた。想像する限りでは十分余裕があり、そう難しい事にはならないと、楽観的に構えていた。
 振り返ってみれば本当に滅茶苦茶だった。最中は、何をやっているのだろうと省みる余裕すらなかった。
 ごみ溜めの中で這いずり回ってたようなものだ。
 じっくり見返すようになったのは、ここ最近の事だ。
 落ち着いて、腰を据えて自分を見る事が出来るようになったのは、全て男のお陰だ。
 男のあの目が、自分を見てくれたから、自分は己がわかったのだ。
 わかろうとするようになったのだ。
 そりゃ最初はひどく反発して睨み返したり、汚い言葉を投げかけたり…思い出す度唸りたくなるような事をした。
 それでも男は何一つ変えなかった。斜めに見るなんて決してしなかった。
 一直線に向かってくるあの目があったから、それまであちこちに投げやっていた色々なものを集めてまた持とうと思ったのだ。
 それで、だから…楽しい時間を素直に楽しいと思うようになり、終わった事に、寂しいと感じるのだ。
 賑やかな実家から、静かなアパートへ。
 一人は気楽でいいが、一人はそんなに。
 嗚呼、厄介だな。麻痺したままならよかったのに。なまじ取り戻したりするから、つまらない顔が窓に映ったりするのだ。
 街灯を頼りにアパートまでの道のりを急ぐ。表通りから入った、静かな住宅街の中の、静かなひと部屋。
 玄関先で荷物を下ろし、ふうとひと息つく。しんと静まり返った空気のせいか、耳の奥から賑やかな喋り声が聞こえてくるような気がした。
 明日は月曜日、さっさと支度を済ませて早く寝てしまおう。またきっとつまらない顔をしているだろうが、気分が良い内に眠りにつこう。
 雨戸を閉めて、窓を閉めて、鍵を閉めて。カーテンを引こうとした時、携帯電話の着信音が鳴った。発信者に心持ち目を見開く。
 まるで見計らったかのようにタイミングが良い。応答した声は自分でもおかしく思うほど弾んでいた。きっと、実家で調子づいたのがまだ完全に消えていなかったのだろう。
 確認する男に大丈夫だと応える。丁度今アパートに戻ったところだ。自分も今、かけようかと思ったところだ。
 それはよかったと続ける男に、冗談を投げかける。

「どっかで見張ってんだろ」

 屋根裏か、床下に潜んでいるに違いないと言うと、男は調子を合わせばれてしまったか、と笑った。
 なんて男だろう。聞きたいと思った時に聞きたい声をそのまま届けてくれる。
 暗い夜道を帰ってきて、暗い部屋に入って、灯りをつけた時よりも、周りが眩しく見えた。
 そして少しにじんで見えた。 
 他愛ない話で盛り上がる少年の横顔を、壁に掛けられた四角い鏡が映していた。
 屈託なく笑う顔がそこにあった。

 

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