チクロ

めまい

 

 

 

 

 

 エレベーターに乗り込んだところで、神取鷹久は胸ポケットの懐中時計を確かめた。支社長室を出る際も壁の時計を見やったが、頭に入っていなかったようだ。ここでようやく、深夜の時間帯に突入していた事に気付いた。
 小さく、細く長く息をつく。
 静かにドアが閉まり、小箱が降下を始める。頭の中で渦巻いていた、明日以降の予定やら組み立てやらが次第にぼやけて、代わりに別の物が浮かび上がってくる。
 真っ先に明確になったのは、夕闇迫る頃に届けられた一通のメール。
 夕飯の献立を知らせるだけの、短く他愛もない内容。けれど今の男にとってそれは、どんな重要な報せよりも貴重な物だった。
 いや、どちらも、どれも大事だが、種類が全く違う。
 発信者は、彼…桜井僚。
 ここ最近になってようやく、連絡事項以外でメールを交わすようになった。
 これまでは自分が送った文章に短い返事が来るだけだったが、今は彼からも積極的に送ってくるようになった。
 始めはとても慎重で遠慮がちな文面だった。こんなつまらない事を伝えていいものかと、恐る恐るといった風だった。だから少しでも距離が縮まるように、自分からも他愛ない内容のメールを送るようにした。
 どんな内容のものが欲しいかを示した。
 今日の昼は何々を食べた、君は?
 今日は午前も午後も会議で肩が凝る、そっちはどうだい?
 今日は寒いね、暖かいね…
 彼が何をしているのか気になるから、自分が思っている事している事を伝えた。
 彼はすぐに緊張を解いて、のびのびとメールを送ってくるようになった。
 中間考査が終わった、大変だった…冬服に変わったけど今日は暑いね…修学旅行の班決めした…学生のささやかな日常のひとこまが楽しい、楽しくて仕方ない。
 気を抜くとすぐに頬が緩んでしまい、元に戻すのもひと苦労だ。そんな己が恥ずかしく、自分らしくないと叱責して集中するせいか、今のところ切り替えは上手くいっている。
 辛うじて、だが、
 浮かれて舞い上がり、これではいけないと我に返る端から、また舞い上がる。
 ふわふわとおぼつかないそんな自分を、楽しんでもいた。そう、楽しくて仕方ない。
 叶うなら八月の頃に遡って、すっかり悲嘆に暮れていた自分に教えてやりたい。チェロ仲間でいられればそれでいいのだとうじうじと足踏みして、どうせ上手くはいかぬと決め付けて諦めていた自分の背中を、力一杯叩いてやりたい。
 これまでの生活に一つ加わったこの彼とのやりとり…メールを読み、返事を考え、送信する、そのほんの十数秒の出来事が、何より心を潤してくれた。
 そして今日、今のところ最新のメール、夕飯の献立を教える内容を、神取はじっくり反芻した。
 親元を離れ、学園から程近くのアパートに一人暮らしている彼の今日の夕飯は、先日冷凍保存したものを使った肉と野菜がたっぷりのスープだそうだ。
 これから作るとのことだったので、頑張れと応援した。
 自分はそれから一時間ほど遅れて、似たような食事をとった。メールを見た時から喉が鳴って仕方がなく、絶対に同じようなものを食べようと思っていたのだ。
 更に数時間、今日、昨日、ようやく帰宅時間を迎えた。
 身体がゆっくりと地上に向かって下りてゆく。それにつれて意識も明確になり、デスクに向かっていた時とは違うもので頭の中が満たされてゆく。
 デスクに貼り付いて、彼からのメールに応えた時とは違う向きに変わる。
 エレベーターを降り、駐車場に出れば、更に鮮やかになる。あと少し、もう少し。彼の事で頭を一杯にしていい時間まであとわずか。
 表示が一階に移る寸前、男はほんの一瞬微笑んだ。
 そんな自分に軽い目眩に見舞われる。
 どんなに抑えても、嬉しさは後から込み上げてきて身体中を一杯にした。
 硬いベル音がして、すうっとドアが開いた。
 神取はひと息吸い込み、足を踏み出した。

 

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