チクロ

届く手

 

 

 

 

 

 金曜日夕刻、約束した時間に余裕を持って到着した神取鷹久は、車を寄せて停めると、もう間もなくあの路地からやってくるだろう恋人…桜井僚を待った。
 昼ごろ、ひと段落ついたところで、今日の予定の確認の為一度彼に連絡した。
 まず始めに、昨日無理に押しかけた詫びをする。完全にこちらが悪いのだが、僚は、参ってしまうほど謝って謝って、それから、恥ずかしそうにしつつも嬉しかったと続けた。そう言ったら怒らせてしまうのではないかと、恐る恐る言ってきたので、神取はそう思ってもらえてこちらこそ嬉しく思うと、彼が納得してくれるよう願いながら口にした。
 続けて、貰った修学旅行の面白い土産物の礼をする。帰宅後、早速楽しんだと告げると、実はあまり触っていないので、今日、やってみたいと彼は言った。
 では一緒に練習しようと約束し、迎えに行く時間の確認をすると、僚はまた言葉を詰まらせながら、明日何か予定はあるかと聞いてきた。すぐにぴんとくる。泊まっていいかと聞いてきたのだ。旅行で疲れているのではないかと少し心配になる。もし、彼が、こちらが彼に甘えたいと思うように、彼もこちらに甘えたいと思っているなら、隣にいる方が安らぐと思ってくれているなら、嬉しい…もちろん答えはイエスだ。
 ありがとうの言葉一つから、彼の表情が手に取るようにわかった。
 思い浮かべていると、目を向けた先に、とうとう彼が現れた。
 車を見つけるやぱっと顔を輝かせ、僚は早足になって近付いてきた。
 荷物を後ろに積み、いつものように食事に向かう。
 ようやく土産話が披露出来ると、僚は途切れなくお喋りを続けた。
 余韻に輝く横顔を時折確認しながら、神取は耳を傾けた。
 中には下らない、高校生ならではの馬鹿馬鹿しいエピソードもあったが、それがむしろいいのだ。彼らが大真面目に取り組んだ馬鹿げた事に、神取は声を出して笑った。
 今思うと本当に恥ずかしい、あの時はどうかしてたと僚は首を竦めるが、楽しさは充分に伝わってきた。
 食事の最中も、僚のお喋りは止まらなかった。
 神取も、いつまでも聞いていたいと思うほど、愉快な時間だった。
 丁度良く腹が膨れ、デザートを楽しむ頃になって、僚は一旦口を閉じた。
 さすがに喋り疲れたか、あるいは彼の好物だというかんきつ類を使ったシャーベットなので、それでじっくり味わっているのだろうと神取は思った。
 実は違った。
 半分ほど口に運んだところで、僚は目を上げた。
 何か云いたげな目線に軽い頷きで応え、神取は言葉を待った。
 僚は静かに語り始めた。
 以前は、修学旅行に参加するつもりはなかった。出来ないと思っていた。理由は例の『アルバイト』だ。以前は止めるつもりもなかったし、止める事すら思い付いていなかった。だから、そういう事をしているとわかってしまう危険を多く含む修学旅行には、とてもではないが参加出来ない。
 行きたい気持ちはあった。クラスでそれなりに話の合う人間はいるし、一緒に過ごしていて楽しいと思う気持ちもあり、行けるなら、出来るなら、いいなとも思った。
 でも、無理だと諦めていた。

「でも、行けた。それは全部、鷹久のお陰」

 器の中で少しずつシャーベットが溶けてゆく。僚はスプーンの先にすくい、口に運んだ。
 神取はゆっくり首を振った。選択と決断をしたのはほかならぬ僚自身だ。

「君を救ったのは君だ。君は、偉いよ」

 僚はいくらか顔をしかめ、残りのシャーベットをつついた。

「鷹久が言ってくれたから、出来たんだ」

 どこか誇らしげに僚は言った。

 

 

 

 旅行の疲れもなんのその、僚は張り切ってチェロの練習にとりかかった。帰りの時間を気にしなくていい余裕からか、いつにも増して音色が広く響き渡る。その一方で、走りがちになる部分もあった。
 初めて一緒に夜を過ごす…その事に自分と同じく浮かれているせいかもしれないと、神取はそっと笑った。
 いつもの終了時刻より少し食い込んだところで切り上げ、反省会を兼ねたティータイムに入る。
 神取は個包装されたチョコレート菓子をつまみながら、次の練習の際生かすべき点をいくつか挙げた。それらを楽譜に熱心に書きとめ、考え込む僚の横顔を、じっくりと眺める。真剣さゆえに少しおっかなく、それがまた可愛らしかった。こっそり笑う。
 やがて納得がいったのか、僚は楽譜をしまった。
 神取は、僚から貰った土産の品を持ってきた。左手は少し練習がいると回してみせ、僚に渡す。
 実際自分で繰ってみると納得だと、僚は落としそうになる健身球に笑いながらこつんこつんと手の中で回した。
 しばらく、お互いに交代で楽しむ。部屋のあちこちにいい音色が広がったところで、神取は箱をしまった。
 顔を上げた僚と目が合い、視線を絡める。
 さて。
 食事も終わり、練習も済んだ。
 秋の夜長。夜は始まったばかり。
 しんと静まり返る部屋で、二人、何も言わず目を見合わせる。触れたい欲求が込み上げてくるが、こうしてただ目を合わせているだけもまた、楽しかった。
 神取はそっと微笑んだ。カップの傍にある僚の手に静かに触れ、握り返してくる彼と、指を組み合わせる。
 僚は照れたように微笑んだ。
 やがてどちらからともなく顔を近付ける。

 

 

 

 ソファーにぐったりともたれた僚の身体に毛布をかけてやりながら、神取は注意深く様子を見守った。
 彼の口から、ごめんなさいと弱々しい声が零れる。
 気にしなくていいと穏やかに返し、水の入ったグラスを差し出す。
 グラスを持つ手も、飲み込む動きも、特に問題はないように見えた。
 しかし、頬から眦から、首元まで見事なほど真っ赤になってしまった…酔ってしまった状態、油断は禁物だ。
 といって、彼が口にしたアルコールはごく少ない。
 当然だ、未成年に飲酒を勧めるなんて非道な事はしない。他の事でいささか道を外れているが、命を危険にさらす真似などするはずもない。
 十分前の、浅はかな自分に嫌気がさす。
 彼とベッドの中で充分に楽しんだ後、二度目のシャワーを簡単に済ませ、リビングのソファーにくつろいだ。僚も隣にやってきた。彼には冷たいグレープジュースを、そして自分に、いつものように酒を用意し、就寝までのんびり過ごそうとグラスに注いだ。
 その時彼が言い出した申し出を、もっときちんと止めていれば、こうはならなかったのだ、
 後悔しても今更遅い。
 あの時自分は、ちょっと付き合うと言い出した彼に、表面上渋りながらも、そう言われて嬉しいのを巧妙に隠しつつ、舐める程度でとグラスを差し出した。
 度数が高いから、本当に、舐めるだけにしておきなさい。
 そう付け足す。
 彼はまず匂いを確かめ、何かわかった顔…神妙な顔付きになって、恐る恐るグラスを傾けた。
 唇まで近付いたブランデーにほんの舌先を浸す程度の、飲酒どころか試飲ですらない些細なものだが、彼にはそれさえも禁物だったのだ。ここまで弱いなら、もしかしたら匂いだけですでに効いていたかもしれない。
 親の晩酌に付き合い、ビールのひと口くらい飲んだ事はあっただろうと軽く考えていた自分の失敗だ。
 彼はぶるりと震えたかと思うと、見る間に顔を赤く染めていった。一気に肝が冷えた。
 すぐさま衣服を緩め、水を飲ませ、濡れタオルで首筋を冷やす。同時に、身体が冷えぬよう毛布を用意した。
 彼は心底申し訳なさそうに謝ってきた。
 謝るべきはこちらの方だ。気にしなくていいと返す。
 吐きそうかと尋ねると、彼は首を振った。
 具合が悪いところはないかと尋ねると、また首を振った。

「身体がぼーっと、するだけ」

 いくらか浅い呼吸でそう答える。
 口もとにはうっすらと笑みが浮かんでいた。
 どうやら、酔うと気分が良くなるタイプらしい。楽しげに緩んだ口元が可愛くて思わず笑いそうになり、すぐさま引き締める。笑っている場合ではないのだ。
 こちらを見る目は赤く充血していたが、焦点が怪しいところはなかった。
 しばらく横になって休んでいれば、じき回復するだろう。
 神取は持ってきたクッションを置くと、寝るよう促した。

「もし気持ちが悪くなったら、我慢せず出すといい」

 万一に備え横向きに寝かせる。
 横になった後、彼はもう一度ごめんなさいと呟いた。

「いいや、こちらこそ済まなかった。私はここにいるから、心配せずゆっくり身体を休めなさい」

 そっと頭を撫でる。

「……ありがとう」

 僚は目を瞑った。
 耳を澄ますと、規則正しい呼吸が聞こえてきた。
 神取はもう一度、静かに頭を撫でた。目を閉じ、しばしそのまま過ごす。
 半時間ほど経った頃、僚が控えめに身じろいだ。
 目を開けて見やると、ソファーの端に座るこちらの膝に頭をすり寄せ、しがみつくようにして抱き付いてきた。
 甘える仕草に思わず頬が緩む。しかし、自分の硬い脚で膝枕は、具合が悪いのではないだろうか。
 そんな事を心配しながら見守っていると、僚が勢いよく見上げてきた。ぶつけられる目はまだ赤く潤んでいたが、視線ははっきりしていた。ほっとする。

「どうかしたかい?」

 尋ねても、僚はただじっと見上げてくるばかりだった。
 戻しそうな兆候がないのに安心する。
 と、僚は右手を持ち上げ、顔へと伸ばしてきた。
 触りたいのだろうかと、顔を傾ける。
 僚はもう片方の手も上げ、両手で頬に触れてきた。
 その瞬間、驚きと喜びが混じった、何とも言えぬ表情になった。

「届いた、届いた」

 まるで子供のように無邪気に喜ぶ様に、嬉しさが胸一杯に広がる。そういう遊びなのだろうか。あるいは酔っ払いの戯れか。少々心配ではあったが、可愛さに目尻が下がる。

「大丈夫かい?」

 同じように片手で僚の頬に触れ、そっとさする。火照っているせいで、当然ながら随分と熱かった。
 すると僚は自分の手を男のそれに重ね、また、届いたと嬉しそうな声を上げた。
 もしかしたら彼は、今のうたた寝の間に何か恐ろしい夢を見てしまい、それで安心する為に手を伸ばしてきたのではないか。頭の片隅でそんな推測を巡らせる。

「ああ。私はここにいるよ」

 ならば安心させてやらねばと、静かに応える。その途端、彼は小さく顔を歪ませた。今にも泣きそうに眉を潜めた僚に、どきりとなる。
 遅れて吐き気がやってきたのだろう。先ほど用意しておいた袋に目をやる。

「たかひさ」

 名前を呼ばれ、反射的に目を戻す。とても真剣な、重い響きに思わずどきりとする。
 内心の動揺をどうにか飲み込んでいると、僚の手が、慈しむ動きで頬を撫でてきた。優しく愛でる手のひらにまた胸が熱くなる。心地良さにしばし浸る。

「鷹久の目は、いつも優しい」

 囁くような声が耳に滑り込んできた。
 何か云おうと口を動かすが、声が出なかった。彼の気持ちを否定するのは気が引ける。曖昧に笑って、ありがとうと返す。
 僚はにっこりと笑みを浮かべた。

「そうやって見てくれる目も」

 頬に触れている男の手を片手に掴み、軽く口付ける。

「この手も」

 夢見心地の声が、好きだと続ける。
 三度心臓が跳ね上がる。

「私もだ、僚」

 何とか声を絞り出す。声が出にくいのは偽りだからではない。想いを告げられ、応える状況に酷く緊張してしまっているからだ。
 嗚呼どうして、彼の言葉はこんなにも自分をかき乱すのだろう。
 いつもはもっと簡単に、嘘ではない言葉を口に乗せる事が出来ていたはずだ。けれど彼を前にすると、言葉一つの重みがしようもなく気になって、言う事も、言われる事も、ひどく大変になった。
 しかも彼とは、まだぎこちない部分がある。積み重ねていっている途中だ。お互い、相手の出方を慎重に伺い、好きな事嫌いなものを見定めている最中なのだ。
 だからどうしても、臆病になってしまう部分がある。
 神取は今一度、想いを言葉に乗せた。

「君が、好きだよ」
「どんな風に? 鷹久はどんな風に俺を好きになった?」

 すると僚は矢継ぎ早に質問してきた。
 言葉に詰まる。息が止まる。
 せっかちに追及され、神取は返答に窮した。返す言葉がないからではない。その逆だ。自分は沢山の瞬間、彼への想いを積み重ねた。
 あの時や、あの時…一つひとつ鮮明に思い浮かぶ光景を瞼の裏に過ぎらせる。
 嗚呼、うまく言葉に出来ない。
 すると僚はそれより先に口を開いた。

「俺は、ひと目惚れだったと思う」

 興奮して息が上がっているのか、まだ酒が抜け切らぬせいで息苦しいのか、僚は大きく喘ぎながら言葉を続けた。

「俺を見る目付きがさ、他の人と全然違ったんだ」

 そう語る僚の眼差しは、ここではないどこかを見ていた。
 男に顔を向けながら、見ているものは、少し前の自分。 軽蔑されるようなアルバイトで己の身を傷付け、己を粗末に扱っていた頃の自分。
 やや遅れてそれを掴んだ男は、ごく小さく頷いて先を促した。

「あんな事する奴、普通見下すだろ。そっちだって似たようなもんだけど、こっち側は特にバカにされる。当り前だよ」

 それが当たり前だった。それでいい、むしろそうされるのを望んでいたと思う。

「今思うと、ほんとバカみたいだけど…何か浸ってたんだよ。うん、俺は最低の人間だ…って、自分に言い聞かせてた感じ」

 僚は大きく息を吸い込んだ。苦しげな息遣いに男は小さく眉を潜めた。少しでも楽になるようにと頬をさすってやる。
 また、僚の顔が気持ちよさそうに緩んだ。大好きな、笑った顔。小憎らしいほど愛くるしい笑みに、つられて男も微笑む。

「でも鷹久は違ったんだ。俺があんな事してるってわかっても……俺が知ってる限り、あんな風な視線をぶつけてきた人間は、いなかったよ」

 お返しというように僚は男の頬を撫でた。
 人に顔を撫でられるのは思いの他気持ち良いものだと、今更ながら男は知った。
 これは、他の誰でも駄目だろう。
 彼だから、こんなにも心地良く感じるのだろう。
 そして今だから彼の言葉があるから、こんなにも胸があたたかくなるのだろう。
 神取は必死に、あの時どんな風に彼を見たか思い出そうとした。

「馬鹿にして見下すんじゃなくて、なんていうのかな……ああいう事を、認めてるっていうか…いや、俺がしてた間違いの方じゃなくてさ。上手く言えないんだけど、とにかく鷹久は、俺の事をまっすぐに見てくれたんだ」

 そういう僚こそ、まっすぐに見上げてくる。嬉しそうに頬を緩め、目を輝かせ、尊敬の眼差しで見上げてくる。
 自分はそれほどの人間ではないといささか心苦しくなり、男は気付かれぬよう喉の奥で唸った。
 僚はいくらか硬い顔付きになって続けた。

「鷹久が立ってるのは、すごく高いところ――俺の手の届かない場所ね。そんなすごい高いところに、堂々と自信たっぷりに立ってるんだ。で、そこから、俺一人をまっすぐ見てくれたんだ。その時に、ああ俺、この人の傍にいたいなって思ったんだよ。すごく、強く。隣でなくていいから、ずっと見てもらいたいって思った」

 まっすぐぶつかってくる彼の想いはひどく熱く、男はいよいよ息が苦しくなる。頭がのぼせて、上手くものが考えられない。何と言ってよいやらわからない。
 気付けば頬が熱くなっていた。
 彼は酔ったせいで顔が赤く、自分は、彼の言葉に酔い、頭が熱い。
 どうにかして鎮めようとしたが、続く言葉でとどめを刺される。

「そのくらい強く好きになった。好き。すごく好き。鷹久の為なら、なんでもできるよ」

 真剣な顔で誓う僚に、神取は瞬きも忘れて見入った。
 尊敬や崇拝を向けられたことはあった。ある程度は慣れっこになっていた。当然だと思う部分もあった。それだけの道のりを歩いてきたのだ、当然だ…少々のおごりが混じるが、それも無理からぬ事。
 しかしこれは、受け止めるのが難しい。こんなにも強い愛情を向けられる、相応しい人間ではないからだ。
 僚はこちらを、命の恩人として崇めていた。
 実際のところはそんな大げさな事は何一つしておらず、むしろ逆に印象の悪い言葉を投げかけただけだった。しかし当時、そういった話が出来る相手がなく、自分がしているものがどういった事か教えてくれるものもなく、間違った道にはまり込んでいたとさえ、認識出来ていなかった彼にとって、印象の悪い言葉は大きな影響を与えた。
 彼はようやく己と向き合い、考え、どういう道を進むべきか選択した。
 彼は『奴隷でもいいから』傍にいたいと望んだ。
 自分は、下に置く者など望んでいなかったので、彼の申し出を一旦は断った。
 途端に彼は感情をむき出しにして、己をむき出しにして、ぶつかってきた。
 ちょうど今のように、ありのまままっすぐに向かってきた。
 同じ願い…お互い傍にいたいと望んでいた事は、たまらなく嬉しい。
 けれどどうしてかうろたえる。
 彼の想いの激しさに圧倒される。
 彼は、愛慕を通り越して、まるで何を思うような――。
 頭の中が真っ白になる。そう、白だ。若く瑞々しい白さに触れて、激しさに翻弄され、何も考えられなくなる。
 神取は何度も喘いだ末に、どうにか言葉を紡ぎ出した。

「……ありがとう、僚」
 愛してるよ

 たちまち僚は幸せに満ちた微笑みを浮かべ、うっとりと目を閉じた。男の頬をひと撫でし、ぱたりと手を落とす。
 どうしたのかと様子を見守っていると、静かな寝息が聞こえてきた。
 見れば頬の赤みも大分取れていた、もう心配はいらないだろう。
 神取は安堵に肩を落とした。同時にどっと疲れが押し寄せる。思いの他酒に弱い彼の介抱だけなら、こんなに疲れる事はなかっただろう。
 だが嫌な思いはこれっぽっちもなかった。
 後片付けも億劫になるほどくたびれていたが、心はどこまでも軽やかだった。
 寝床を整え、僚を運び、自分も早々に眠りにつく。
 並んで横になると、隣から、くうくうと微かないびきが聞こえてきた。
 一人好い心持ちで寝ている酔っ払いに、思わず肩を揺する。
 起こさぬよう吐息だけでお休みと告げ、目を閉じる。

 

 

 

 

 翌朝目覚めた僚は、昨日の出来事を夢で見たものと思い込んでいた。
 男に付き合い、酒をひと舐めした途端酔っ払って寝てしまい、その中で見た夢。
 朝の支度をしている最中、様子がおかしい事に気付いて尋ねると、ひどく言いにくそうにしながらそう告げてきた。
 すごく恥ずかしいけど、良い夢を見たんだ、とはにかみながら答える少年に、神取はいくらかの落胆と幸いとを噛み締める。
 彼は続けて、迷惑かけてごめんなさいと、昨日の失態を詫びてきた。
 心底済まなそうな、がっくりと落ちた肩に思わず笑いが込み上げる。
 確かに肝は冷えたが、学生時代、もっとひどく酔い潰れた人間の介抱をした事もある。それに比べれば楽なものだ。
 酒はすっかり抜けたようで、頭痛やだるさといった症状は無いと言ってきた。そこは安心する。

「何か、手伝う事があったら」

 何でも言い付けてくれとキッチンにやってきた僚に、丁度いいと神取はシンクを指差した。

「君の好物だというので、オレンジを用意しておいた。食べ方の好みがあるだろうから、好きに切って、その皿に盛るといい」
「ありがとう」

 お気に入りの一つを目にして、途端に僚の目がきらりと光った。
 朝によく似合う輝く笑顔が、男の胸に強く迫る。
 下の棚から包丁を取り出すと、どこかわくわくした顔で僚はカットに取りかかった。
 その横顔に思わず見とれる。と、それまで頬に浮かんでいたうきうきとした表情がふっと消え、どうしたのかと見守る先で、僚は何とも嬉しそうなとろける笑みを浮かべた。
 見ているこちらにまで甘い幸せが伝わってきそうな、そんな微笑みだった。
 僚は、自分の両手を見下ろして、ほっとささやかにため息をついた。
 その瞬間、昨日彼が届くと言った意味と喜んだ理由がわかった。
 途端に頬が燃えるように熱くなる。
 神取は片手で顔を押さえると、そっと足音を忍ばせて僚の傍に立った。

 

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