チクロ

待ち合わせ時間

 

 

 

 

 

 食べ終えたオレンジの皮を片付け、桜井僚はリビングに戻りソファーに深くもたれた。まだうっすらと手に残るオレンジの匂いににやけていると、隣に座った男が口を開いた。

「手を嗅がなくても、私はいい匂いがするよ」

 そう言って神取は少し鼻先を上向け、すんすんと鳴らした。

「君のお陰でね」

 にやりと笑う男に僚はいたずらっ子の笑みを向けた。

「じゃあ次もやってあげるよ」
「おっと、今度は私がしてあげよう」

 言いながら男は見えないオレンジの皮をむき、僚の鼻先に近付けた。
 迫ってくる手に、僚は慌てて仰け反った。

「えー、だめだめ」
「とてもいい匂いだよ」
「ごめんてば」

 そもそもあれは、鷹久が恥ずかしいカッコさせたそのお返しなんだから。
 だから自分の番をしたいと言うなら。

「俺の希望する格好するか?」

 男の動きがぴたりと止まる。

「しろと言うなら、従うが、本当に見たいかね」

 真向の不敵な笑みに僚はうっと喉を詰まらせた。しかしこのまま黙ってしまうのはあまりに悔しい。何とか声を絞り出す。

「……見たいよ」
「そうか。では、どんなのがお好みかな」

 さあ、具体的にどうぞと促され、いよいよ白旗に追いつめられる。

「……くそ」

 渋々負けを認め、せめてもの抵抗に僚は指先で男の鼻をつついた。それでも余裕たっぷりの笑顔を崩さない男が憎い。
 思い切り口端を歪め、そっぽを向く。
 少し置いて、神取は声をかけた。彼はぴくりとも反応しなかった。窓の方を向き、完全に固まっている。試しに手を持ち上げ、頭を撫でてみた。

「触んなよ」

 振り払いこそしないものの、何とも刺々しい声が聞こえてきた。といって心底不機嫌なものではなく、わざとぶっているのは明白だった。
 神取は楽しげに口端を緩め、もう一度髪を撫でた。少し癖のある、艶々とした手触りの良い黒髪をゆっくり慈しむ。

「触んなってば」

 何ともおっかない声が聞こえてきた。作っているのが一発で分かる野太い声。
 ますます愉快な気持ちになる。

「いいじゃないか。触りたいんだ」
「触んな」
「そう意地悪言わずに」
「うるさい触んな」

 声に笑いが混じり始めた。
 男もいよいよ堪えきれなくなり、声を潜めて肩を揺すった。手は繰り返し髪を撫でる。触れる度僚は駄目だ、触るなと低い声を出した。

「どうしても駄目かい」
「絶対駄目だ」
「そこをなんとか」
「駄目だと言ったら駄目だ」

 ふふふ、へへへと間の抜けた声を出しながら、意地っ張りごっこを楽しむ。
 やがて僚は振り返って男に向き合うと、笑いながら肩を叩いた。

「もう、鷹久が笑うから」
「先に笑ったのは君の方だろう」

 違うよ、違わないと、他愛ないやり取りをしてまた笑い合う。
 気付けば僚は男の腕に収まり、もたれて、くつろいでいた。
 男の手は相変わらず髪を撫でていた。
 僚はお返しにと似たような動きで男の膝の辺りを撫でた。少し身じろいで尻の位置を定め、丁度いい角度に膝を曲げる。

「どこか痛むのか」

 先の行為で無理をさせたかと心配する響きに、僚は小刻みに首を振った。

「違う違う、鷹久がより重たく感じる場所探してただけ」

 足がしびれるくらい、と付け足して、わざと力一杯男に寄りかかる。
 神取はふと笑い、降参だと調子を合わせた。

「大丈夫かい」
「うん、平気」

 痛むところなど一つもない。直後は少し膝がふらついたが、風呂に入って全部流れていった。叩かれてぴりぴりしていた尻も、今はなんともない。熱くも痛くもない。
 最中はあんなに痛みを与えてきたのに、今、髪を撫でる手と同じだなんて、本当に不思議だ。

「すごく気持ちいい」

 言ってから急に恥ずかしくなり、ごまかしに ごしごしと擦るようにして男の膝を撫でる。
 それは良かったと男が囁く。
 恥ずかしいから何も言うなと心の中で反発し、少しして素直に受け入れる。
 座り心地の良いソファーに包まれて、本当にいい気分だ。この上ない贅沢をしているようでたまらない。
 ソファーだけではない。この部屋は、数こそ多くないものの置かれた家具の一つひとつが独特の雰囲気を纏っている。
 モデルルームのような、ドラマで見るような整った部屋だが、あれらよりもずっと上品で良質だ。
 何も置かれていない空間の間隔が絶妙なのだ。まだ置けるからと、詰め込んでしまったら、たちまち台無しになる。この部屋はこれで完成しているのだ。もし何か加えたいなら、慎重に考えなければいけない。
 センスがいい。こういうのは持って生まれたものだろうか。あちこちにゆっくり視線を移しながら、そんな事をぼんやり考える。
 大きな窓からたっぷり入る日差しを見ていて、ふと思い浮かぶものがあった。
 窓は二つ並んでおり、間に少し幅があった。その分の日陰が帯のように部屋に伸びている。あの幅の狭い壁のところに、ちょっと大きめの観葉植物を置いたらいいんじゃないかと頭に浮かんだのだ。
 僚は思い付くまま男に言って聞かせた。
 せっかく良い家具が揃ってる部屋だから、緑が一つあるともっと良くなるんじゃないか。そう思っての事だ。

「なるほどそれはいい考えだ」
「ね、いいと思うよ」

 賛同してもらえたのが嬉しくて、僚は声を弾ませた。この部屋はこれで完成しているが、自分の背丈くらいの、あまり葉の広がらないすっきりした鉢植えがあったら、更に良くなる気がする。

「ちょっと失礼」

 男は立ち上がると、寝室に入っていった。
 何かあてがあるのか、見本になるような写真でも持ってくるのかと、僚は窓から外を眺めながら待った。
 五分もせず男は戻ってきた。

「僚は明日の午前中、空いているかい」
「……は?」

 思いがけない質問に目を瞬く。明日は…明日は日曜日だ。いつものように家の事をして、学校の準備をして、それくらいか。食料品や日用雑貨の買い出しがあるが、丸一日かかるわけではない。
 空いていると言えば、充分空いている。

「そうか。買うなら早い方がいいと思ってね、明日の午前中、一緒に見に行かないか」
「……うん」

 返事に詰まったのは、都合が悪いからではない。 相変わらず決断の早い男にちょっと面食らったのだ。

「大丈夫かい」
「うん、平気」

 急だから少し驚いただけだ。不都合など何もない。
 自分自身、己の性格をわかっている男は、軽く肩を竦めて笑った。

「済まないね。午後には別の予定が入っているので、ランチの後解散になってしまうのだが、それでも良ければ」
「うん、行きたい。行こう」

 一緒に行って見てくれないかとの誘いに、僚は喜びの声をあげた。
 たとえ午前中だけでも、男と過ごせるのは嬉しい。

「じゃあ、何時に来ればいい?」
「いや、私が迎えに行くよ」

 僚は軽く眉根を寄せた。
 迎えに行く、いや自分が赴く、意見がぶつかる。お互い、自分が相手のところに迎えに行きたい。譲れない。

「ひと駅だし、早いよ」
「車の方が早いね」

 僚はぐっと息を詰めた。確かに、駅まで歩き電車に乗りまたここまで歩くよりは断然早い。
 何故だか反発したくてたまらなかった。

「へーだ、そうやって車ばっか乗って、電車乗れなくなればいいんだ」
 切符の買い方も分からなくなって!

 自分でも何を言っているのかと呆れるような言葉を繰り出す。
「その時は、君に教わるから大丈夫さ」
「え、もう」
「おや、教えてくれないのかい」

 そうか、駄目か…男はしょんぼりと、わざとらしく肩を落とした。
 迫真の演技に僚はひと息吹き出し、笑いながら怒った。

「そんな事するわけないだろ」
「ああ良かった」

 ぱっと顔を輝かせる。その落差がおかしくて笑いが止まらない。

「では明日は、こちらが君の所に迎えに行くというのでいいね」
「うん、わかった。いつもありがと」

 待っているのも、楽しい。
 待ち合わせの時間を決める。
 十時までにアパートに着くようマンションを出る予定で、出る時に連絡をする。

「わかった、了解」

 頷き、僚は窓辺を見やった。
 約束した瞬間から、その時間が待ち遠しくてたまらなくなる。今、一緒にいる時間をじっくり楽しみたいのに、早く明日にならないか、とも思ってしまう。
 じれったさに内心そわそわしながら、男に寄りかかる。肩にかかる手を握りしめ、僚は深く息を吸い込んだ。明日、上手く探し物が見つかるといいと、頭に思い浮かべる緑の形を窓辺に映して願う。

 

 

 

 夜が白けてきた頃、静かに雨は降り出した。しとしとと音もなく降りしきり、一旦止むのだがまたしばらくすると灰色の雲から降り落ちた。
 目覚めて外を確認した男は、雨模様の空に口端をわずかに歪めた。
 予報では、曇りだったが。
 降ってしまったものは仕方ない。昨日の内に、雨天でも出かける約束はしていたが、確実にする為彼に連絡を入れる。
 不安そうな声が、行くという言葉にはつらつとした響きに変わる。
 出る時にまた連絡をすると告げ、一旦切る。
 参ったと男は顔を押さえた。彼の元気な声に引っ張られて、どうにも頬が緩んでしまうのだ。
 嗚呼、彼の声は本当に力が出る。
 朝食の後、明日の準備やら雑事を済ませたところで、丁度出発の時間となった。
 身支度を整え、車に乗り込んだところで携帯電話を取り出す。
 待ち構えていたのが手に取るようにわかるほど、即座に繋がった。
 男は小さく笑いながら、これから向かう旨を告げた。

『わかった、じゃあ、アパートの階段のとこで待ってる』
「いや、中で待っていてくれ。迎えにいくよ」
『そんなに時間かからないだろ、階段の下のとこにいるから』
「寒いから中で待っておいで。雨も降っている」
『大丈夫だって。マフラーしてるから』

 安心だと張りのある声で言われ、どういうわけか目の奥が熱くなった。
 マフラーとは、先月彼に贈ったあのマフラーだ。

「わかった。すぐに行くから、暖かくして待っていなさい」

 声の震えを抑えるのに苦労する。ぼろが出ない内に通話を切り、男は頬に触れた。少し熱い気がする。おそらく、目に見えて赤くなっているだろう。
 携帯電話をコートのポケットにしまい、僚はもう一度戸締りを確かめてから玄関を出た。
 風はなく、雨は今にも止みそうに弱い降りだった。止めばいいのに…雨は一日降ったり止んだりでしょう、との朝の天気予報を思い出しながら、僚は空を仰ぎ見た。
 どんよりと曇って、見るからに寒そうな色をしていた。けれど全く寒くない。マフラーのお陰だ。本当に暖かくて柔らかくて、気持ちが良い。
 さて、どんなのが見つかるだろうか。良いのが見つかればいい。男はどんなのを選ぶのだろうか。意見を聞かれたらどうしようか。少しなら知識はあるが、きっと男の方がずっと物知り。誇らしい。
 敷地の入り口にある小さな花壇にふと目を向ける。最近、冬の花に植え替えられたばかりだ。これから大きく茂ってゆくのを見越して、少し間隔をあけてオレンジや白のパンジーが植えられている。
 しばし眺めた後、顔を上げる。まだ、もう少しだな。
 それから何度か花壇と通りとを行ったり来たりさせていると、やがて聞き慣れたエンジン音が近付いてきた。耳の奥が一瞬きんと詰まり、すぐに感覚が鋭敏になる。
 僚は全身が熱くなるのを感じた。
 後続がいないからか、車は歩く速さでゆっくりやってきた。
 互いに顔が確認できるほどゆっくりと、男の車が通り過ぎる。
 男は車中から身振り手振りで、表の通りまで来てくれと伝えてきた。
 僚は笑顔で頷くと、車を追い越す勢いで通りを目指した。
 そして本当に追い越していった僚に、神取は笑いながら速度を上げた。丁度いいところで停め、ドアを開けて迎え入れる。
 満面の笑みで乗り込んできた僚は、シートベルトを締めた後、だめか、と聞いていた。

「なんだい?」

 何についてダメと聞いているのか、男は頭を巡らす。さて、今日の外出で何か禁止したものがあっただろうか。

「どうしてもだめ?」

 さあ、なんだ。
 手ごわい謎に男は降参する。

「じゃあこれで我慢する」

 僚は人差し指と中指を揃えて自分の唇に押し付けると、その手を男の頬に差し伸べた。

「!…」

 まさか、人目を忍んで堂々とキスをするとは。思いもよらない答えに神取は目を瞬かせた。上手くいったと、楽しげに笑っている彼が愛しくてたまらない。
 嗚呼また、顔が熱くなってきた。
 静かに深呼吸してから、男は車を走らせた。
 出発してすぐ、今日向かう場所を説明する。と僚の口から、そこ知ってると声が上がった。

「行った事はないけど、結構有名な場所だよ」

 小さな草花から果樹、庭木まで扱い、造園も請け負っているところだと僚は説明した。
 先日のフルーツ狩りでもそうだったが、植物について話す時の生き生きとした少年の声に、神取はさすがと称賛を贈った。
 たちまち僚は顔をしかめ、まだまだだと恐縮した。そんな顔も可愛らしかった。

「まずはそこを当たってみようと思う」
「そっか。良いの見つかるといいね」
「ああ。出来れば、しばらく手がかけられなくても大丈夫なものがあると、いいのだが」

 それほど長期にはならぬが、不定期に、頻繁に出張がある身としては、しばらく水やりが出来なくてもへこたれないものが希望だと神取は言った。
 留守にする際の鉢への水やりの仕方はいくつか知っているが、それよりもと僚は口を開いた。

「もしよければ、その時は俺が代わりに見るよ」
「そうだった、君がいてくれた」

 鍵を持っている彼が、自分に代わって見てくれる。それならば安心だと神取は頷いた。

「一緒に育てていこう」

 横目でちらりと目配せする男に、僚は笑顔で頷いた。

 

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