チクロ
晩秋
たっぷりの湯船に身体を沈め、桜井僚は思い切り息を吐き出した。 少しぬるめの湯船が本当に気持ち良い。寄りかかって窓の外に目をやる。 住宅街の中にある低層マンションの最上階、周りには高い建物はなく、見えるのは朝日を浴びた家々の屋根。こうして見渡すとみな個性的で、色も様々に連なっていた。 向きの関係でこちらに日が差し込む事はないが、日を浴びた朝の街並みを高くから見渡せるのは実に気持ち良かった。 休日…振替休日とはいえ朝からこんなにのんびり景色を眺めながら風呂に浸かるなど、たまらない贅沢だと僚は心から満喫した。 日に日に寒さが増してゆくこの季節、シャワーで済ませて風邪を引いたらいけないと、すぐに風呂の用意をしてくれた男に感謝する。 一度は断った。引き止めようとした。しかし男はそれより早くてきぱきと、入浴の準備を進めた。 『体調を崩してしんどい思いをしたら、嫌だろう』 自分も嫌だと続けて、バスルームに消えた。 男は時々物事を早くに決めてしまうきらいがあった。しかしせっかちで強引という印象はなく、力強い手で肩を包まれるような安心感があった。肩に置かれた手は、乱暴に自分を押しやるのではなくしっかりと引き寄せる為のもの。任せておけば大丈夫だという気分にさせた。 着替えと洗面用具を揃える内に湯が沸き、さあ行っておいでと笑顔で見送られた。申し訳ないな、まったく強引だな、という気持ちは、ふわふわと湯気を立てる湯船に浸かった瞬間溶けてなくなった。 「……はぁ」 僚は手にすくった湯で顔を拭った。嗚呼なんて気持ちいいのだろう。 身体の芯まで熱が沁み込んでゆくようだ。熱すぎない湯温が絶妙で、負担なく浸かっていられる。 とはいえあまりのんびりしてもいられない。 今日はこれから、ドライブを兼ねてフルーツ狩りに出かける予定なのだ。イメージを頭に巡らすと自然にやにやと頬が緩んできた。 僚はまた、今度は少し乱暴に顔を拭った。 小春日和という言葉がよく似合う、暖かい日差しの今日、都心から程近くの果樹園に向かう。 決めたのは昨日の夕食の時で、明日はどこに行こうかとの話し合いの中で提案したものだ。 もし、先程言ったランチのレストランに予約を入れていないなら、行きたいところがあると。 その果樹園は個人ならば予約は不要で、明日は営業しており、今の時期何が旬かの確認もしてある。 リンゴ、柿、そしてミカン。一番甘いものを選ぶ能力にかけてはちょっと自信があり、それを使い男に美味い物を味わってほしくて提案した。 そいつはいいと快諾し、さっそく男はルートの検索をした。順調に走れば車で一時間もせず到着できる距離と分かり、気分は高まった。 明日の予定は決まり、早々に寝床についた。 そして今朝、僚は男にすすめられ贅沢な朝風呂をいただいた。 身体の芯まで温めた後、念入りに身体を洗う。といって昨夜横着した訳ではないむしろ隅々まで洗って眠りについたが、今日もバスルームに置いてある石鹸を使いたかった。 僚は洗い場にしゃがむと、男の愛用する固形石鹸を手に取った。どこのドラッグストアでも買えるものだ。よく目にする、言ってしまうと昔からある古臭い石鹸。それを一杯に泡立て手のひらで身体を撫でる。 顎の下も耳の後ろも足の指の間も忘れず擦り、洗う順番を真似てみる。手の動きをなぞってみる。馬鹿馬鹿しくてむず痒いが、こんな事まで幸せに感じる。生きててよかった。決して大げさではない。 シャワーで洗い流すと、程よく甘い、さっぱりとした石鹸の匂いがバスルームを一杯に満たした。 男がこの石鹸を使うようになったのは、留学間もなくの頃だそうだ。 ある日の風呂上り、腕の内側にぽつぽつと赤い腫れが出来ているのに気付いた。しばらくすると消えてなくなるのでさして気にせず原因も追究せずにいたが、それから少しして使っている石鹸のせいだとわかった。 その事を、よく連絡を散り合う悪友のはとこにぽろっと漏らしたところ、いつ悪化するかわからないから放置するのは危険だ、刺激の少ない石鹸をいくつか見繕って送るからそっちを使えとおせっかいを焼かれ、その中の一つがこの石鹸であった。 環境が大きく変わり、知らず疲れていたせいもあったのだろう。 少し痒く感じるくらいで不自由はしていなかったが、心配事は一つでも少ない方がいい。現に、赤い小さな腫れが無くなった事で朝起きた時に確認する癖が消え、煩わしさが消え、懐かしさを感じる匂いのせいか心も落ち着き、色々と良い方へ向かうようになった。 それ以来ずっと愛用しているのだそうだ。 …という訳で実はデリケートなんだよ、と照れたように笑った男の顔を思い出しながら、僚はバスルームを出た。洗面所にも、熱気と共に石鹸のさわやかな香りが広がる。 一瞬、自分のアパートにいる錯覚を起こす。 というのも、話を聞いて以来自分も同じ石鹸を使うようになり、風呂上りによくこうして匂いが充満する事があるからだ。 男に聞かれた時の為にいくつか言い訳を用意している。自分も肌にトラブルが起きたから。近所で安売りしてたから…など使わず、同じ匂いになりたいから共有したいからと正直に言ったとしても男はただ嬉しがってくれるだろうが、自分が恥ずかしいので、言い訳を用意している。 腕を近付けると、ほんのりと優しい匂いが鼻孔をくすぐった。自然頬が緩む。 にやけた面のまま僚は髪を乾かし、後片付けをしてリビングに向かった。_ 「風呂、ありがとう。最高に気持ち良かった」 待っていた男に力一杯抱き付き、感謝を表す。 そいつは良かったと男も抱き返し、共有する匂いが一つになる。 「こちらも、後はパンを焼くだけだ。すぐにできるよ」 「さんきゅ、じゃ待ってる」 テーブルに並ぶ朝食の皿に目を輝かせ、僚は座った。 ほどなく準備が整い、二人は揃って手を合わせた。 |
戸締り、火の始末を確認し、玄関に向かう。 外に出ると、ふわりとした風が頬を撫でた。冷たく沁みる事はなく、意外と穏やかだ。見上げる空はきりっと澄み切って清々しい。 「今日はほんとあったかくて良かった」 「ああ、天気もいい。君の日頃の行いが良いせいだね」 「ええ、また」 僚は笑いながら男の身体を肘で軽く小突いた。 男も笑いながら肩を竦め、鍵をかけた。軽く引いて施錠を確かめる。 「さあ、では行こうか」 「うん」 肩にかかる手をちらりと見やってから男を見上げ、僚は頷いた。 連休の最終日、思ったより道は空いていた。お陰で予想したより早く到着し、たっぷり楽しめると喜んだ。 果樹園の入り口には目を引く色とりどりののぼりがいくつもたち、ゆっくり風にたなびいている。 エンジンを切って静かになった車内、僚は男を振り返った。 目はきらきらと輝き、唇には抑えきれない笑みが上っている。ドアを開けた途端、ものすごい勢いで飛んでいきそうだと男は微笑んだ。 入園を済ませ、さっそくリンゴ園に向かう。時間の制限はなく、試食はいくらでもいいそうだ。沢山試し、自分が最高に気に入ったものを持ち帰れるのは嬉しい限りだ。 僚は一つ鼻を啜った。気付けばいつもより少し早足になっている。慌てて歩調を戻すが、高鳴った胸は中々元に戻らない。ここは腕の見せ所。説明が難しいが、より甘い、美味しい果物を見分ける能力についてはちょっと自信がある。この特技で、少しでも男を悦ばせたい。張り切って前を向く。 爽やかな晩秋の風に乗って、リンゴの甘い匂いがしてくるように思えた。 陽光を受け、収穫期を迎えた赤い実は更に輝きを増して樹を彩っていた。 受付でもらった籠を腕にぶら下げ、男は従者よろしく僚の傍に控えた。 頭上の赤い連なりを見上げていた僚は、男を振り返り笑った。 「いい天気で良かった、暑いくらいだね」 「ああ、本当に」 「鷹久はこういうの来た事ある?」 「学校行事で体験したくらいかな」 「そっか、俺も同じで、学校以外ではこういうのは初めてだからすっごい楽しい」 いっぱい美味いの食べような。 言葉の通り、笑顔が光り輝いている。日差しに負けぬ眩しい笑顔を心に焼き付け、来てよかったと男はしみじみ噛みしめた。 「さて、どれからいくかね」 「うん」 僚は小さく頷き、一つひとつ目で追った。 甘い果物、よく熟したものを見分ける目印はいくるかある、どの部分の色を見る、どの位置から取る、果物それぞれ特徴がある。そして自分は、その中から更に一つを見抜く事が出来る。 理屈では上手く説明出来ないが、出来るのだ。 「なるほど」 男は頷いた。人は様々な特技を持ち、彼もそれを身に着けているのだ。原理の分からぬもので、無条件に信じるには今一つ心もとないが、近くの休憩ベンチで彼の選んだリンゴにかぶりついて、身をもって納得する。受付で借りた包丁で、すいすいと手早くリンゴの皮むきを済ます彼の慣れた手つきに感心しながら、渡された一切れを口に放り込んだ。ちょっとは上等なものを口にしてきた自分だが、こんなに甘く沁み込むように美味いリンゴは食べた事がない。 「やっぱり取れ立てって美味いよな」 ほっぺたが落ちそうだとリンゴを絶賛する彼の笑顔に、男はますます惚れ込んだ。 あっという間に二つ平らげる。そんなに勢いよく手を伸ばしていたのかと自分自身驚くほどだ。 「美味い物食べる時って、こうだよな」 まだあと一つ二つ残ってるつもりでいたと、僚も照れ笑いで肩を竦めた。 お見逸れしましたと男は大げさに頭を下げて笑った。 リンゴで腹が膨れたと思ったが、柿園に移り、枝がしなる程たわわに実った柿を見た途端、また喉が鳴った。今度はどんな甘い柿を教えてくれるのかと期待が高まった。 まさに狩人の眼差しで進む僚について、しばし進む。 「あ、あれがいい」 惜しくも手が届かない僚に代わり、男はハサミを構えた。 枝が二股に分かれた先の、そうそこから二つ隣の、その窪みがはっきりしてる柿を。 誘導によってたどり着いた一つを収穫し、僚に手渡す。 リンゴと違い芳香はないが、僚には何かを嗅ぎ取れるのだろう。極上の笑みが顔一杯に広がっていた。 「はいこれ、鷹久の」 内心にやにやと見惚れていると、まっすぐに柿を差し出された。 「え、いいのかい」 「うん、もっとたくさん見つける」 任せてくれと頼もしい眼差しに男は感動すら覚えた。手渡された柿はつやつやと色もよく、四方向に伸びたヘタの内の一つの先端が小さく欠けていた。目に焼き付けるように見つめた後、そっと籠に入れる。 時々、他のグループとすれ違った。混雑する中を苦労して縫って行くわけではなく、かといって誰の姿も見ないわけでもない。同じように味覚狩りを楽しんでいる彼らの笑い声が、時折あちらからこちらから聞こえてきた。 ひと時、見知らぬ彼らと楽しさを共有する奇妙な心地良さに酔う。 「次はあれ、頼める?」 「お安い御用だ」 次第に籠は重くなっていった。 ミカン園の方に来ると、僚の目が殊更に輝きを増した。特殊な光が見える眼鏡を使ったら、きっと目から光線が出ているのが確認出来るに違いない。そんな事を想像し、一人こっそり笑う。 僚は、生っているミカンよりも樹木そのものを上から下からじっくりと眺めた。枝ぶりや、葉の一枚一枚を丹念に確認している。 何を頭に叩き込んでいるのか気になり、男は問いかけた。 「うん……俺ね」 俺ね、小さい頃、ミカン農家になろうかなって思った事があるんだ。少し恥ずかしそうにしながら、僚は昔話を始めた。 田舎の家の庭は広く、色んな果樹が植わっているのだそうだ。柿、栗、イチジクにブドウ、そしてミカン。 祖父が丁寧に世話をしているからか、毎年季節になるとそれぞれ立派に実を付けた。小学生の頃、ある正月、出されたミカンがそれはもうほっぺたがとろけそうに甘く、痺れるような感動を味わった。 ミカンに取りつかれた瞬間だ。 食べながら思った。 家にミカンの木を一杯植えれば、毎日とろけるミカンが食べられる、そんな子供らしい夢を見た。 大げさな身振り手振りを加えて僚は語った。 子供心に抱いた野望を、男は微笑ましく聞いた。 「夢が叶ったら、私は君の家の隣に引っ越すよ。そうすれば毎日甘いミカンをご馳走になりに行けるからね」 バカげた夢も茶化さず聞いてくれる男に、僚は笑顔を見せた。 「まあそんな訳で、ちょっとじっくり見たってわけなんだ」 「なるほど。では、野望は潰えてない訳だ」 「うん…いつか、うんと甘くて、沢山生って、病気にも強い品種が作れたらなあってのは思ってる」 できたら、一番に鷹久にご馳走するよ。 応援してくれたお礼だと僚は笑った。 「いつになるかわかんないけどな」 「待ってるよ」 「とりあえず今日は、じゃあこのミカンで」 僚は男の手を取ると、ぽんとミカンを一つのせた。そして、少し行った先の休憩スペースを指し、休もうと誘った。 座る前から、唾が込み上げて仕方なかった。 美味いと口を開くのももどかしい。口一杯に広がる甘酸っぱい味わいに心行くまで浸っていて神取は、先日彼が、デザートの柿の菓子を同じように無言で頬張っていたのを思い出した。 向かい側には、同じようにミカンを頬張りにこにこしている僚の姿があった。 お互い口は開かず、目配せで美味い、美味いと言い合う。 優しく穏やかな風が、二人の間を吹き抜けた。 |
火曜日の朝、いつもの時間に目覚めた神取は、昨日と同じく澄み渡る空を窓から見上げた後、どことなく感じる物足りなさを後ろに引き連れ身支度を整えた。 一人で済ませた朝食の後片付けをしながら、傍の籐かごに盛った果物を見やる。 リンゴ、柿、そしてミカン。 つやつやと、ぴかぴかと鮮やかな色合いを見ていると、昨日味わったそれぞれの甘さが口の中に蘇ってきた。 至福のひと時を思い返しながら、男はしばし籐かごを見つめた。 両方とも、昨日果樹園で彼に買ってもらったものだ。生成りの籐かごを見やったまま、昨日の事を思い出す。 果樹園から帰る際、一つもめ事が起きた、といって声を荒げて言い争いをしたのではない。彼の生真面目で頑固な一面をあらためて思い知った、再確認したのだ。 沢山食べて満足して、選びに選んで持ち帰る分を決めた。三種類をそれぞれ一キロずつおみやげにし、後で分ける事にした。二人で分けると丁度良い個数になるからだ。 その料金を、彼は全部持つと言って聞かなかった。 平等に半分出すと言っても、決して受け取ろうとはしなかった。頑として跳ねのけた。 ここに誘ったのは自分だから、自分が持つというのだ。 笑顔ではあったが、少し目付きが険しくなった。 未成年の彼に全部負わせるのは納得しがたかったが、彼にも思うところがあるのは充分理解出来た。 せっかくなら、一日最後まで楽しく過ごしたい。気持ち良く終わりたい。 受け入れ、ありがたく頂戴した。 特別な物は、更に特別になった。 果物をまとめておくのに具合がいいからと、追加で彼は小ぶりの藤かごをプレゼントしてくれた。 邪魔なら自分が持って帰るが、よかったらどうかと差し出され、頑丈なつくりにひと目で気に入り貰う事にした。 ありがとうと笑顔を向けると、どういたしましてと、まるで花が咲いたような極上の笑みが顔一杯に広がった。 別れ際、彼は一つ約束をした。 沢山取ったリンゴはジャムにしてみる、楽しみにしててと約束を取り付けた。 今から待ち遠しい。どうやって食べたら、一番美味しいだろうか。来た時に聞いてみよう。 神取はかごの柿に手を伸ばした。 へたが一ヶ所欠けていて、より記憶に残っている。これは間違いなく彼に選んでもらったもの。彼が自信たっぷりに寄越したもの。瞼の裏に鮮明に残っている。 秘書の柏葉が迎えに来るまで、まだ少し時間がある。柿を一つ食べるだけの余裕はある。 男は迷わず柿をむいた。四つ切にしてから皮をむき、立ったまま頬張る。 一人の時はいつもそうやって食べるんだ、行儀悪いのはわかってるけど、指までしゃぶるようにして食べるのが一番美味しく感じるから…彼から伝授された方法を試す。 ひと口かぶりついたところで思わず顔中に笑みが広がる。それほど、彼の選んだ柿は甘かった。 歯応えも絶妙で、自分の好みにぴったり合っていた。噛みしめるのが何とも言えず気持ち良かった。 もっと味わって食べたいのだが、どうにも手が止まらない。あっという間に一つ平らげてしまった。 そんな自分にしばし呆然とする。はっと我に返り手を洗っていると、チャイムが鳴った。 心の中で彼に感謝を一つ述べた後、男はソファーの背にかけてあったコートを手に柏葉の待つ玄関へと向かった。 |