チクロ
合鍵
十月も後半に入った金曜日。 いつもありがとうございますと柏葉に頭を下げ、桜井僚は車に乗り込んできた。 神取鷹久はお疲れさまと迎え入れ、運転席に軽く目線を向けた。 僚は挨拶もそこそこに、鞄を探った。 「忘れたわけじゃないんだよ」 取り出したのは財布だった。はて、彼と金銭のやり取りで何か忘れた事があったかな。 せっかち気味に財布を開く彼を見て思い出す。 果たして、一本の鍵が取り出された。 「ちゃんと前に作ってたんだよ。作るのは忘れてなかったよ、ただ渡すのを忘れただけ」 忘れた事に変わりはないが、彼にとっては大きな違いなのだ。 わかったと、神取は微笑んだ。 「ああ……」 僚はため息交じりに唸った。 修学旅行で浮かれて、土産の品探すので浮かれて、渡して浮かれて、初めて泊まるので舞い上がって、酒飲んで失敗して…色々ありすぎて頭から吹っ飛んじゃったんだ。 作る事は作ったが、渡すのをすっかり忘れていた。 男から合鍵を貰った翌日、張り切って作りに行った。せっかく、行ったのに。渡すのがこんなに遅れてしまった。 しくじったと僚は顔を歪めた。 失くしてしまわぬよう、普段は使っていないファスナーのついた内ポケットに入れていたのも失敗の原因だった。 紛失の心配はなくなったが、代わりに渡し忘れるといううっかりミスが発生した。 色々あって、頭から綺麗に抜け落ちてしまったのだ。 「でもこれで渡した、間違いなく」 鍵の跡をつけようかという力強さで僚は手のひらに押し付けた。 「間違いなく、受け取ったよ」 神取は一度鍵を掲げ、それからしっかりとしまった。 これでほっとしたと肩を落とす僚に微笑する。 |
食欲の秋、という言葉がぴったり合うほど、僚は旺盛な食欲を見せた。行儀よくしながらも思い切りよく飯を頬張る様は、見ていて気持ち良かった。 忘れていた合鍵を渡せて、ほっとしたのもあるだろう。 何を食べても美味いと輝く顔に自然と頬が緩んだ。 すると、僚本人も自覚があるのだろう、がつがつしてごめんと恥ずかしそうに謝ってきた。 とんでもないと首を振る。 「もう、どれ食べても美味しくて、箸が止まらなくて」 「それは良かった。遠慮などいらないよ」 その為の個室でもあるのだ。 笑いかけると僚は苦笑いで応えた。ほんの一瞬だけ、ためらいの間だけ箸が止まるが、すぐにまた勢いを取り戻す。 器が、盛り付けが綺麗で、そういった見た目の美しさも食欲を刺激するみたいだ、僚は付け足した。 「家だと、とりあえず食べるって感じで食器は全然気にしてなかったから」 内容にはそれなりに気を付けるが、後片付けをなるべく楽に済ます為、出来るだけ少ない器、簡単な器を使っている。 「だから、こういったいかにもって秋の盛り付け見ると、楽しくて止まらなくなっちゃってさ」 器の隅にそっと乗った紅葉を指差し、僚は軽く肩を竦めた。 それに。 「鷹久と食べると、もっと楽しい」 ただ腹を膨らすだけじゃない食事は、こんなに心が弾む。 男はそっと目を細めた。 「実は私も、君と一緒だと何を食べても美味く感じて、楽しい」 僚は探るように男を見つめた。 半信半疑の微笑に本当だと返す。 「俺ががっついてるの見るのが、楽しいって?」 「ああ、楽しい。一緒に食事をするのが嬉しいというのが見て取れて、本当に楽しいよ」 僚は笑いながら大げさに首を竦めてみせた。男の言葉が胸に沁みて、嬉しさに頬がむずむずする。 嗚呼本当に、この男に会えて良かった。 |
献立が進みすっかり腹も膨れた頃、運ばれた水菓子に僚は目を輝かせた。 その様子に男はふと笑みを浮かべた。渋い色の角皿に乗った、たった一つの柿の実にこんなに歓喜する高校生など、そういないのではないか。 色合いは綺麗だ。控えめな色の器に、よく熟した柿はとても映える。考えられた組み合わせだ。しかし、彩り豊かな洋菓子と比べればとても質素だ。とても日本的な、ささやかな食後のデザート。 だが、果物には目の無い僚にとっては、これこそまさに最高、至上の締めくくりだろう。 心なしか目が潤んでさえいた。 綺麗に平らげるまで、彼は食べる以外で口を開かなかった。だが感想は聞くまでもない。いささか火照ったつややかな頬を見れば、光り輝く眼を見れば、それで充分だ。 やがて僚は静かに手を合わせ、しずしずと頭を下げた。 ごちそうさまでした。 重々しい響き。 心からの感謝だが、もう我慢出来ず、男は肩を震わせた。 案の定、彼は少し不貞腐れたように唇を尖らせた。怪訝そうに眉を顰める。きちんと礼をしたのに何故笑われなければいけないのかと目が語っている。もっともだ、本当に済まなく思う。 「君の食べっぷりが、気持ち良かったんだよ」 「笑うなよ」 「まったくだ、済まん」 「別に変な食べ方じゃなかっただろ」 男は大きく頷く。 僚はまだぶつぶつと不満を零したが、単なる照れ隠しでもあった。気取らなくてもいい男の前だからと、遠慮なくいつもの自分を出した自覚はあるのだ。 「本当に、好きなんだね」 「うん、鷹久より好きかも」 どこか挑発的な物言いに神取は目を丸くして笑い、肩を竦めた。 いたずらっ子の顔で僚は笑い返した。 少しして、あのさ、と声が上がる。 男は目線で聞き返した。 笑いの余韻が、どことなく強張って見えた。 「もしよかったら、今度アパート寄らない?」 何もないし狭いけど、お茶とひと口ようかんあるから、いつでも…と、僚は続けた。 「それは嬉しいな」 思ってもいなかった誘いに、神取は頬を緩めた。そして察する。本当は今日誘いたいのではないか。心持ち早口で綴られた誘いの言葉に、感じるものがあった。 今日お邪魔してはまずいかなと水を向ける。果たして彼は咳き込むようにどもり、そっちがいいなら大丈夫、と、嬉しそうに口端を持ち上げた。 「では、今日の反省会は君のアパートでする事にしよう。いいかい」 「うん、でもほんと狭いから、そこは覚悟しといて」 わかったと笑顔で応える。 |
送り迎えで、外観はよく目にしていた。二階建ての、ごくありふれたタイプのアパート。 階段や通路の手すりは淡いグリーンで、真っ白な外壁によく映えた。 敷地に入ってすぐのところに、小さなスペースだがきちんと手入れされている花壇があり、その向こうは屋根付きの自転車置き場になっていた。 外階段がある方とは反対側、一階通路の突き当りの角部屋に、案内される。 入ってすぐ横手のドアはトイレ、向こうは洗面所、と一つずつ指で示されるのを目で追いながら、先を行く僚について奥の部屋に足を踏み入れる。 「ここが君の城か」 男は部屋の入口に立ち、ぐるり室内を見渡した。正面と、東側に窓があり、今はカーテンが引かれている。正面の窓の向こうは確か小さな駐車場、日当たりは良さそうだ。 よかったらと差し出されたハンガーを、ありがとうと受け取る。何ともむず痒いやり取り。いや、緊張している。久々の感覚に我ながら驚く。 「すぐに用意するから、そこのテーブルのとこ座ってて」 さっと踵を返す僚を追って、肩越しに振り返る。 キッチンには、カップが二つ用意されていた。片方は彼の愛用の品だろう。傍に四角い小さな蓋つきの缶が置いてある。中身は恐らくティーバッグ。 きっと今朝、ここにセットしたのだろう。どんな気持ちで揃えたのだろうか。誘う時、どんな気持ちだったろうか。想像すると微笑ましい。思った通りだ。気付けて良かった。 神取は指示通りテーブルを前に座り、自然目に入る棚や勉強机を見やった。どこも綺麗に整頓されていた。 食器棚には、一人分のそう多くない食器がきちんと収められていた。 テレビ台の、ガラス戸の向こうに、ビデオデッキと家庭用ゲーム機が見えた。 本棚の本の並び、種類、それらから、暮らしている人間の人となりが窺えた。 実を言うと、もっと荒んだ部屋を塑像していた。何もかもが雑然と積み上がりひどく散らかっている典型的な空間か、あるいは片付いてはいるがどことなく暗い空気が漂っている冷たい部屋。そんなものを思い浮かべていた。 早すぎる一人暮らしの選択…親や家族からそこまでして離れたい理由、過去にしていた『アルバイト』の事、それらが、彼の心を歪ませ、部屋に反映されているのではないか。そう思っていた。 実際は違った。 物はそれぞれきちんと収まり、それでいて窮屈でない空気。ここで暮らしている人間は、程よく自分を締め、そしてゆったりくつろいでいる。この部屋は快適で、それはつまり充実した生活を送っているからに他ならず、彼がもう、彼を縛る悩みから解放された事を意味している。 勿論日々生きる上で悩みは尽きないが、少なくとも自分の身体を無意味に傷付けるほどに追いつめられてはいない、という事だ。 本棚に並ぶ漫画本を読み、ゲームをして過ごす、ごく当たり前の年齢相応の生活を楽しんでいる。それらが伝わってくるからか、自分にとってもこの部屋は居心地の良い空間だった。先ほどの緊張感も、すっかり薄らいでいた。もしかしたらあれは、彼のものが伝播しての事だったのかもしれない。 「来てもらえて嬉しいけど、すごい恥ずかしい」 持ってきたマグカップと茶菓子を並べながら、僚は苦い顔で笑った。 どうぞの声に、いただきますと口に運ぶ。 「よくやっているじゃないか、感心するよ」 「恥ずかしいからあんまり見るな」 「という事は、あの辺りに君の恥ずかしいものがあるわけか」 「ないよ」 怪しいな、と男はおどけた目付きをしてみせ、にやりと笑った。 僚も併せて笑いながら肩を軽く小突き、バッグから楽譜と筆記用具を取り出した。それから器の菓子を摘まみ、ひと口齧った。 「いつでもいいよ」 反省会の準備が出来たと告げる。 神取は緑茶を一口啜ると、今日の練習で感じた事をいくつか述べた。前回の反省点がよく生かされて、格段に音が伸びやかになっている、弓の運びが安定してきている、この調子で感覚を掴んでゆけばよい…今日は褒めるところばかりだと称賛した。 「君自身で、気になったところは?」 質問に僚は譜面を一段ずつ目で追い、そう、ここ、と指差した。聞く上では大好きな箇所だが、弾くとなると中々思ったように左手が動かず、気が付けば弓の運びも怪しくなってしまう、もどかしく感じてしまう箇所。 「ひたすら、練習あるのみだね」 「……だな」 それが一番の、確実な道。男の言葉に僚は小さく唸った。 ふと目を上げると、男は左右を見回していた。 「だから、あんま見るなって」 「これは済まない」 悪いとは思うが、限られた空間で物をしまう工夫の数々に感心して、つい見惚れてしまうのだと男は謝った。 「いつもこんなに綺麗かい?」 向けられた眼差しに笑いながら口をへの字に曲げ、正直に白状する。 一人暮らしを始めてしばらくは、まともだった。しかしすぐに混乱する。自分のやり方とペースを見つけるまで随分かかり、工夫して、組み合わせて、最近ようやくましになった。 「時々は面倒だって思う事もあるけど、ごちゃごちゃしてるのはもっと嫌いだから、さっさと済ますようにしてる」 「働き者だね君は。本当に偉いね」 穏やかな微笑に、そんな事…と僚はもごもごと口を動かし、やがて小さく礼を言った。 照れた顔で俯く僚にそっと笑い、神取は目を上げた。 机の前に時間割を見つける。彼が発見した、自分が一番動きやすい工程表。 さて、自分は彼の頃こんなにきちんと出来ていただろうか。すっかり成人した今も、彼ほどこなせてはいない。時間がない…と言い訳し、外の手に頼っている。 食器棚に弁当箱を見つける。包む為の巾着袋と一緒にしまわれていた。三食きちんととっている証。どんな風に生活しているかがぼんやりとだが見えたよう。 低めの食器棚の上には炊飯器が置かれ、その横には、彼の大の好物であるオレンジが一つ二つ並んでいた。まばゆいほどの輝きに目を細める。 ふと興味が湧き、普段はどんなものを食べているのか、作っているのか、尋ねる。 大したものじゃないけどと前置きして僚は続けた。 「作り置きと、朝昼一緒のおかず詰めてる。たまにおにぎり」 おにぎりは三種類くらい中身詰めて、でっかいの二つ作るんだ。 このくらいの、と両手で大きさを示す。 「それは美味そうだ」 「うん、結構美味いよ。昼には海苔がちょうどよくなじんで、いい匂いでさ」かぶりつくとふわーって口の中に広がるのが最高「それとあとは、調理実習で習うのが結構役に立ってる」 先日の授業で作ったものを、僚は一つずつ説明した。 彼の語りは絶妙で、男は喉が鳴るのを止められなかった。 機会があったら食べてみたいと欲求がむくむく膨れ上がる。 「今度ご馳走になってもいいかい。もちろん、手間賃は持つよ」 「そんな、そんなのいいよ、そんなのは大丈夫だよ。でも俺のは、ごくありふれた料理だし。大した事ないよ」 「とんでもない、では約束だ。今度、ぜひ」 僚は慌てて首を振るが、本当に楽しみにしていると期待する目の輝きに圧倒される。食べたいと言ってもらえるのは嬉しい、くすぐったい。しかし。 本当に自分の作ったものでいいのだろうか。よし。ではこの前覚えたメニューを披露してみよう。 「でも本当に、ちょっとしたものだからあんま期待はするなよ」 もう一度念を押す。微笑み頷く男に照れくさくなり、ごまかしに僚はもっとどうぞと茶菓子をすすめた。自分ももう一つつまみ、こっそり男と同じタイミングで口に運び茶を啜る。 こんなにささやかなものでも嬉しそうに頬張る男を見ながら、同じものを食べる。 嗚呼本当に、一緒に食べるとどんなものでも美味い。 「君があんまり言うから、どんなに窮屈な部屋かと覚悟していたが、充分広いじゃないか」 「うん、まあ…でもほら、鷹久んとこと比べたらさ」 「あそこは、音楽室目当てだったからね。少々無理をした」 ふうん、と僚は軽く笑った。 それからしばらく、他愛ない話に花を咲かせる。 買い物はどこでするのかといった生活の事や、掃除は大変でないかといった疑問、一人暮らしでのちょっとした愚痴など。 神取は純粋な興味から、日々の生活について尋ねた。ここでどんな風に暮らしているのか、知りたくなったのだ。 このアパートの住人は皆規則正しい生活を送っているようで、日をまたいで騒々しくするといった事はまず起こらず、自分も気を付けているので、お互い苦情が出た事は一度もない、と僚は答えた。 また、駅から近く商店街のある大通りもすぐ傍だが、一本路地を入ったところにあるお陰か、人や車の騒音に悩まされる事もない。 「そうだね。……確かに、ここはとても静かでいいね」 神取はしばし耳を澄ませ、頷いた。 そうだろ、と僚は嬉しげに微笑んだ。 「部屋も綺麗にしているし、充分広い。これなら、友達を招いても問題ないね」 「うん、……そうだね」 不自然に声が詰まってしまったのを、僚はしまったという思いで飲み込んだ。男の様子を伺う。のんびりとカップを傾けていた。そのように見えた。 男はいつでも、読み取るのが上手い。わずかな違いも見分けがつき、決して無遠慮に踏み込んだりしない。そんな聞き上手である男に何度も甘えてきた。 この時も、そうやって避けようとした。 「お茶のおかわり、いる?」 自分のと一緒に入れてくるからと僚はカップを掲げた。 「では、お願いしようか」 「うん。それ、全部鷹久のだから、全部食べていいから」 そいつは嬉しいなという声を聞きながら、二杯目を振る舞う。 元の位置に座り口を開くが、上手く声が出せなかった。気を取り直して振り絞る。 「誰も、呼んだ事ない」 招く友達がいないわけじゃないよ それは理解していると、男は静かに頷いた。 僚はまた少ししてから口を開いた。 一人暮らしをしていると知った時、彼らはここに来たいと熱望した。 その度、笑ってごまかした。 部屋汚いから。 狭いから。 声とか隣に筒抜けになって、あんまり騒げないしつまらないよ。 ごめんねー、駄目なんだ。 やんわりと遮断する。 誰か来るのが嫌だからではない。億劫だからではない。来たら、帰るのが、堪らなくつらいのだ。 「帰るとこを想像するのさえ、嫌なんだ」 何を言う事も出来ず、男は口を噤んでいた。 しばし沈黙が続いた。無音はぼってりと重く身体に圧し掛かり、息苦しささえ感じられた。 「でも」 ささやかな僚の声が、それを切り裂く。 「鷹久は特別な。鍵も渡したし」 「ああ。確かに預かったよ」 僚は首を傾けるようにして見やり、ふふと肩を竦めた。 「なんか、ヘンな感じ。すごく不思議な――なんというか……ほっとしてる」 「どうしてだろうね」 「なんだろうな、これ。俺がいる時に鷹久来るのって、絶対無理だろ、けどさ、鷹久が鍵を持ってるってのが、それが……それだけでいいんだ。上手く説明できないけど、言葉にするとほっとした感じ」 そうか、よかったと、男は微笑んだ。 もうちょっと言ってもいいかと僚は尋ねた。 男はささやかな声で応え促した。 これまで考えるのを避け、曖昧なままにして逃げてきた自分自身を探り、言葉にした事で、つかえていたものが取れた気分だ。どうしようかと迷い、話さない方がいいのではないかと飲み込むつもりでいたが、言葉に出来たのをきっかけに洗いざらい話す事にする。 「実はこの部屋、ちょっと前まで酷かったんだ」 正直に言うと、ゴミだらけだった。どうしてだか上手く片付けられなかったのだ。足の踏み場もないほど溜め込んで、ある時突然発狂したみたいに全部片付けて、なのに気が付くとまたゴミだらけになってて、発作的に片付けて。何ヶ月かそんな事の繰り返し。あの頃は本当におかしかった。 だからクラスメイトに言った断りの文句もその場しのぎの嘘ではなく、事実からであった。嘘を言ってはいないから『しょうがない』と納得したかったが、別の理由で、胸が軋んで仕方なかった。 でも、多分…鷹久に会って少しした時からだと思うけど、毎日身体が動くようになったんだ。それまではだるくて、面倒で、何かするにも凄く億劫に感じられたんだけど、嘘みたいに軽くなって、面倒じゃなくなった。 スイッチが切り替わったみたいだった、と僚は表現した。 毎日そうやって出来るから無駄にゴミは溜まらないし、部屋も綺麗なまま保てるし、ペースも掴めた。毎日やるから、毎日かかる時間はちょっとで済む。気持ちが楽になった。細々した事も、楽しむ余裕が出てきた。 「それで、こうやって出来るようになったってとこ、鷹久に見せたくなって」 鷹久が好きになった人間は、きちんと出来る奴だという事を、知ってもらいたくなった。 よくやっているねと、声をかけてもらいたくなった。 けど。 「おかしい時の事知らないのに、わかる訳ないよな。けど、それでもやっぱり言っときたくて」 誰も知らない事を、男には知っておいてもらいたい。出来る人間であると知ってもらいたい。 「大変な時期を、よく乗り越えられたね」 尊敬すると続いた言葉に僚は大げさに顔をしかめた。何かしら称える言葉を欲していたが、いざ耳にすると自分にはふさわしくないと思えた。尊敬するなど、そんな事を言われる人間ではない。 大慌てで首を振る。 こんな話、するべきではなかった。 「ごめん、ちょっと思い上がったかも……!」 恥ずかしさのあまり身震いが走った。両手を左右に振って追い払う。と、男の手が肩にかかり、何を思う間もなく抱き寄せられ息を詰める。 慌てて離れようとするが、抱きしめる力は思いの外強く、僚はすぐに抵抗をやめた。 ほんの少し、力が弱まる。 僚は、恐る恐る抱き返した。しっくりと、ぴったりと吸い付くようにおさまりが良い。 「これ……なにこれ」 「うん? 頑張った君にあやかろうと思ってね」 「俺、何も…全然……頑張ってない」 当たり前の事が出来るようになっただけだ。 「それが一番難しいのだよ。自分にとって当たり前の事を当たり前にこなすのが、一番難しいんだ」 だから、それが出来た君は本当によく頑張った。 そんな事、と思いつつ、自然頬が緩んだ。 互いに相手の肩に頭を預ける形で抱き合う。 力を入れて緊張している少し窮屈な姿勢なのに、心はゆったりと落ち着いていた。 ややおいて、神取は口を開いた。 「一人暮らしを始めたのはいつからか、聞いてもいいかい」 「うん……高校に入った時から」 「そうか。一人で暮らそうと思い立ったのはいつ?」 思い出す為の沈黙がしばし続く。 「中学の時にはもう、ほぼ完全に固まってた。親が毎日何をやってるかノートに書き留めたり、自分で出来るかやってみたり……料理もその頃、覚えた」 掃除の仕方、組み合わせ方、効率の良いやり方を、自分なりに追求した。そうやって準備期間をしっかり積み重ねたが、実際は先程言ったように思うようにはいかなかった。あの時期は、普通に生活をするのさえ困難だった。 「そう……それでも君は、ここまで来た。本当に尊敬する」 本心から思っていると神取は告げた。すると耳元で微かに吐息が乱れた。身体の震えから、泣きたいのを堪えているのだと悟る。 それ以上は口を噤み、彼が落ち着くのを待つ。 実を言うと、もう一歩彼に踏み込みたい気持ちがあった。 何故、一人で暮らそうと思ったのか。 そこまでして家族から離れたいのは何故か。 思えば、彼の口から家族の話が出た事は一度もなかった。 四つ離れた妹がいる事、今の父親は再婚相手である事…最低限の家族構成を語るだけにとどめた。 これまで彼が話してきたのは主にチェロの事、そして時々学校での生活だ。 教室ではこんな風に過ごしている、周りにはこんな人間がいる、彼らとどこそこへ遊びに行った…といった具合に、色んな人間と交流し楽しく過ごしている風景は語るが、家族については何も語ろうとしなかった。 こちらから聞く事は決してしない。 自分も抱えるものがあるように、彼もまたおいそれと人に言えぬ事情に悩まされている。誰もそうだ。充分理解しているから、無遠慮に踏み込む真似だけはすまいと心がけてきた。 己が、一番それを嫌うからだ。 それに以前約束した。 言いたくない事は言わなくていい。 自分は彼が、嘘を吐いていたのも良くない事をしていたのも知っている。隠し事があるのも許容した。 それでも彼が好きだ。 だから彼は安心して、隠し事を持っていられる。 無理に暴くような真似は決してしない人間だと、こちらを信頼している。 だから自分は、その通り…今まで通りでいるのだ。 やがて息遣いも落ち着いた頃、すごいもんだろ、と幾分得意げな声がもれた。 愛しさのあまり頬が緩んで仕方ない。 「ああ。本当に」 「……だろ」 出来るだけ何ともない風に聞こえるよう声に気を付け、僚は応えた。 ようやく引っ込んだ涙が、またじわりと滲んだ。 ああ、この人の声は本当にいいとしみじみ噛みしめる。 「話してくれてありがとう」 また一歩君に近付けて、嬉しく思う。 穏やかな響きが身体の隅々まで行き渡り骨にまで沁み込んでくる。これ以上堪えるのが難しい。いっそ無様な泣き顔を晒してしまおうかと、やけっぱちな気分になる。それだけは御免だと抵抗し、今の間に引っ込めてしまえばいいのだと躍起になる。 もうちょっと、あと少し、と急いていると、また身体に男の声が響いた。 口に出されたのは、来週の、自分の誕生日についてだった。 頭が切り替わり、自然涙も引っ込む。 金曜日だが、実家に帰る予定でいるのだろうと言われ、家族が揃う日曜日にずらしてあると答える。 気付けばすっかり元に戻っていた。身体を離して向き合う。 「では、来週の金曜日も、いつもと同じく君を迎えに行って、構わないね」 「うん、大丈夫。お願いします」 「さて、どんな贈り物をしようか」 選び甲斐があると笑って悩む男に、慌てて首を振る。 「え、いいよ。ついこの前マフラー買ってもらったばかりだし」 「あれは詫び賃だよ。また別のものだ。気にせず使ってくれ」 それでは申し訳ないと顔をしかめるが、男は微笑でもって封じてきた。大好きで、苦手な表情。穏やかな笑みで見つめられると、それ以上言葉を継げなくなってしまう。 「君の役に立ちそうなもの、好みに合いそうなものを、探しておくよ」 でもあまり期待しないで待っていてくれ。 本当は贈り物が嬉しいから、気持ちが嬉しいから、僚は否定をやめて頷いた。 「……わかった、楽しみにしとく」 笑顔で応える。 男も微笑んだ。 「では、そろそろお暇するよ」 美味しいもてなしをありがとう、と言葉が続き、構えていたもののやはり心がぎゅっと軋んだ。動きづらい身体で何とか立ち上がり、ハンガーにかけた上着を渡す。 その瞬間からもう、来週に会う日が待ち遠しく感じてたまらなくなった。心なしか息が苦しい。足元が冷え冷えする。悟られまいと笑顔で玄関先まで送る。 ドアを開けると、いつの間にか雨が降り出していた。静かに降っていたので気付かなかった。 「あ……」 「おっと」 空を見上げ、男は立ち止まった。僚はすぐに玄関脇の下駄箱を探り、傘を一本取り出した。 「これ、持ってって」 普段使っている大きめの頑丈な傘で、しまいっぱなしの古びたものではない。男に差し出す。 「だが、それでは君が困るだろう」 辞退する男に大丈夫と首を振る。ビニール傘と、折り畳みが一本ずつある、自分はそれで充分。ここから学校までは近いからこれで事足りる。しかしここから男のマンションまではかなり距離があり、大きな方の傘でないとしのげない。 「だから鷹久はこっち使ってよ」 神取はひとまず傘を受け取った。黒一色に思えたが、よく見るとストライプ模様になっていた。こういう柄は結構好みだ。 「来週返してもらえばいいからさ」 「では、遠慮なく」 男は手にした傘を軽く掲げた。 雨に感謝するのもここまで。今日のやり取りが少し長引いた雨に感謝するのも、これで終わり。 男は玄関を出て、傘を差し、家に帰る。 どれだけ特別であってもそれは変わらない。やはり…寂しい。 上手く隠して顔を上げる。 しかし男は、一旦ドアを閉めた。 何か忘れものだろうかと訝る間もなく、肩を抱かれ引き寄せられる。 熱い唇が触れてきてしばらくは、何をされているのか理解出来なかった。ようやくして、ああキスをされているのだと少し間抜けに頷く。 ゆっくりと男が離れる。目と、唇とに視線が向けられ、少し伏し目がちになった表情にどきりと胸が高鳴った。 寂しくて。 再び目を見つめられた時、そんな囁きが零れた。 「早く君に会える日にならないかと、毎日思っている」 いつもの余裕のある微笑ではない、真剣な表情。眼差しは強く迫ってくるようだった。胸の高鳴りが痛いほど体内で渦巻いた。 引き寄せられるようにして、僚は唇を寄せた。 またしばし一つに重なる。 背中に回された男の腕を喜びながら抱き返す。 「鍵持ってるんだから、大丈夫だよ」 自分にも言い聞かせるように、唇の上で囁く。 いつでも自由に、互いの部屋に行き来できる。実際に使わなくても、持っているだけで心強いもの。 それがお互いの手の中にあるのだ。 「そうだね」 ありがとう。 男は安心したように微笑んだ。 「また、遊びに来てもいいかい」 「うん、来てよ」 こんなとこで良かったら、いつでも。 声が弾んでしまうのを恥ずかしく思いながらも、僚は何度も頷いた。次は別の好物を用意しようと、あれこれ思い浮かべる。 「ではまた近い内に。君がきちんとやっているかどうか、確認しにくるよ」 「うわ、意地悪だな」 からかうような笑みで斜めに見てくる男の肩を、笑いながら軽く叩く。口ではそう言うが、内心嬉しくてたまらなかった。 「寒いから、ここまででいい」 雨が降ったせいか思いの外空気が冷たい、風邪を引くといけないと玄関先までで制される。 「ではお休み」 「……お休みなさい。気を付けてね」 気遣いは嬉しくも寂しく、僚は姿が見えなくなるまで見送り、その後もしばらくは立ち尽くしていた。 部屋に戻り、二つのカップを片付けていてふと考える。帰り際に男がもらした弱音は、本当は自分を慰め労わる心尽くしだったかもしれないと。 だとしたら自分は…少々身の竦む恥ずかしさに見舞われ悶えるが、一方で気分が良かった。 自分の思い上がりがあったかもしれないし、正しかったかもしれない、どちらにせよ男の深い部分に触れたのだ。良い気分なのは間違いない。 交互に襲ってくる照れ臭さと嬉しさにぐるぐると踊りながら、寝床につく。 気のせいかもしれないが、部屋に残る男の匂いは、とても幸せな気持ちにさせた。 優しく胸に抱かれているように感じられ、自然と頬が緩んだ。 包み込むような安心感の中、僚は眠りについた。 |