チクロ
夜の底の魔法使い
一学期の期末考査が終わり、それまでの少しぴりぴりとした空気がようやく抜けて、結果が返ってくるのを待っている最中。 授業は午前中のみとなり、終業式、夏休み開始までもう間もなくのいくらか間延びした期間。 帰宅後、いつものように細々とした家事を済ませ、夕飯の支度を終えて、机に向かった桜井僚は、画面を見るわけではないが無音の寂しさを紛らす為に時々テレビをつけては消してを繰り返し、順調にノートを埋めていった。 夕暮れが迫り、腹が一度鳴った。それからしばらくしてもう一度短く鳴った時、時計を見る。きりのよいところまで終えてから夕飯に移る。 毎日毎度ではないが、腹が鳴ると以前男に言われた事を思い出す。恥ずかしい思いを味わった瞬間が蘇る。こうして思い返すから、多分、一生忘れる事はないだろう。 少しだけ開けた小窓の隙間から、すうっと風が入り込んだ。段々と蒸し暑くなっていく季節、昼間は堪えたが、日が暮れた今は中々涼しい。 テレビは、ニュースからアニメ番組に移った。食休みを兼ねて二十分後、エンディングに差し掛かったところで後片付けに取り掛かる。ほぼ毎週見ているからか、洗い物の最中歌が口をついて出た。一部歌詞を覚えきれていないので、そこは鼻歌でごまかす。誰も聞いちゃいないのだが、自然と苦笑いが零れた。 食器をしまい、冷蔵庫を確かめ、明日の準備や雑事を済ませる。 風呂掃除も兼ねてシャワーを浴び、後はいつもの時間に寝るだけ。 ひと通り片付いて気が楽になる。 さっぱりした身体で再び机に向かう。 テレビの画面から、にぎやかな笑い声が聞こえてきた。バラエティ番組の時間だ。丁度集中の波が途切れたので、椅子に寄りかかるようにして仰け反り、しばらく一緒になって笑う。 コマーシャルに切り替わったところでまたノートに向かうが、上手く乗れなかった。調子は戻ってこなかった。といってテレビを見たいわけでもなく、ちらりと目の端に映ったゲーム機にも引かれず、漫画本に手が伸びるでもない。気もそぞろになる。 大きく伸び上がり、顔を覆う。 光を遮った暗い中で小さく唸り、しばし考え込む。 何が原因かは分からないが、ぞくぞくと悪寒に似たざわめきが腹の底で蠢いてどうも落ち着かない。 風邪を引きかけているのかと心配するが、それとも違う。身体はどこも痛くない、動きもおかしくない。 ただ気持ちだけが、何かに焦っているようにそわそわと落ち着かないのだ。 背後のテーブルに置いた携帯電話を、ふと思い出す。 いや、だめだめ。 「ああ……」 時計を見る。秒針をしばし目で追い、今はどこで何をしているだろうかと思いを巡らす。 「よし」 立ち上がる。 戸締りをして、財布と携帯電話を手にアパートを出る。 足は、地下鉄の駅近くにある書店へと向いた。 三階建てで、漫画から専門書から文房具に雑貨まで売っていて便利なのだ。 毎週買う漫画雑誌、単行本、新刊。参考書、ペンの芯、なんでもそこで揃う。 以前、例のアルバイトをしていた頃、よくここを利用した。主に夜。駅に近いので、いついっても人がおり、なんとなくざわついていて、それがかえって落ち着くのだ。 くっきりとした明かりに満ちた空間。夜はそれがより感じられる。街灯が頼りの暗い夜道を歩き、眩しいほどの光が溢れる空間にたどり着く。どの通路にも人がいて、さざ波のようなざわめきが漂っていて、とても明るい。何とも言えずほっとするのだ。 天井まで届く棚に隙間なくぎっしり収められた沢山の本、本、本。 今は特に欲しい本はない。平積みされた本を、気の向くまま手に取り、戻すついでに近くの棚のハードカバーを引き出す。 そんな事をしながら、奥へ進む。 さながら密林である。本の合間を縫ってあてどもなく歩くと、道に迷った錯覚に見舞われる。 左右の棚が自分の方にたわんで、本がばらばらと落ちてくる錯覚に見舞われる。 曖昧な、夢うつつがぼやけた感覚が気持ちいい。 本は後から後から落ちてきて、胸まで、首まで本に埋もれてしまうのだ。それでもなお本はばらばらと降り注ぎ、頭まで一杯になって、自分は本の大海原に投げ出されるのだ。しばらくは泳いで抵抗を試みるのだが、やがて溺れて沈んでしまう。 そんなとりとめのない空想を、以前はよくしていた。 いつの間にやら…男と出会ったのをきっかけに、夜の書店をうろつく事はなくなった。 だが今夜、ふっと思い出し、発作的にアパートを飛び出した。 やるべき事が多く、やってもやっても追い付かなくて、やればやるほど覚えるべき事が多いと思い知らされ、遠大な道のりに呆然としている。 チェロを習い始めてしばらく経った頃にも、似たような感覚に見舞われた。けれどあの時はもう少しおぼろげで薄く、今ほど絶望――そう、絶望感もなかった。 どうして今はこんなに、弱っちいのだろう。 所詮大した事ない人間だからか。 それが中途半端にわかるから、こんなに愚図ってしまうのだ。 自分の知らない事は多い。この書店の、入口の本の数冊程度。書店の奥はずっと遠く、何千冊何万冊と連なっている。でも自分が知っているのはほんのこれっぽっち。 上にも、奥にも、まだまだ本は連なり重なっている。 あの男は、どの辺にいるのだろうか。自分では辿っても辿っても行き着けない場所で、タイトルも分からない本を読んでいる事だろう。 自分の事を、男は、強いと言ってくれた。心が強い、生きる力に溢れてる…そう言ってくれた。 そんな訳はない。 この体たらくを見てくれ。 不意に息苦しさを感じた。落ち込む気分に合わせて、無意識に呼吸を止めていたようだ。深く吸って吐き出し、あてもなく突き当りを目指す。 深呼吸したら少し落ち着いた。じめじめと考えるのも終わりの頃合いのようだ。元々、いつまでもうじうじ考えるのは性に合わない。すぐに面倒に感じられ、やっぱり気楽にやるのがいいと浮上する。 後から思い出すと恥ずかしくなるが、たまには浸りたい時もある。これで上手くいっている。時々は必要な物なのだ。たとえ後でどんなに身悶えようと。 絵本のコーナーに差し掛かった。自分も昔読んだ事のあるなじみ深い表紙が、ところどころに見えた。ふと過ぎった懐かしさは、猛烈に込み上げてくる寂しさに追いやられ、押し潰されそうになる。 見るんじゃなかった。 思い出すんじゃなかった。 自然唇が歪む。 ああ、どうして今日はこんなに安っぽい悲しみが込み上げてくるのだろう。 うじうじするのは嫌いなのに。本当に嫌だ。 早足で通り過ぎようとした時、目の端に綺麗な青色が映った。勢い良く引っ張られ、顔を向ける。 海の底の魔法使い。 タイトルを読み取る。なるほどだから青色なのか。薄いのから濃いのから、明るく、暗く、ありとあらゆる青色の色鉛筆で丁寧に表現された海の底は、不思議とあたたかみを感じられた。 目の奥から、じわりと熱いものが滲む。 四角い表紙から目が離せない。切り取られた海の底がどこまでも広がってゆく。本屋を飲み込み自分を飲み込み、あたたかい海の底に心地良く溺れる。 ぼんやり眺めていると、いつの間にか憂鬱な気分は綺麗さっぱり消え失せていた。むしろすっきりとして、前よりも目が開いた感じだ。 絵本を手に取る。この歳で絵本を買うのは何とも恥ずかしく、気が引けた。子供用の、足で蹴って進むおもちゃの車にまたがったような気分に見舞われ、一旦は本を置く。 しかしそのまま去るのもまた難しかった。 もう一度手に取り、ぱらぱらとめくる。 後悔した。 どのページにもあたたかい海が溢れ、ますます欲しくなってしまったのだ。 値段を確かめる。決して安くはないが、べらぼうに高い訳ではない。 それがまた悩ましかった。 でも。さて。どうしたらよいだろうか。 本を置いて考え込む。 「失礼」 その時横から静かな声がした。 同時に手が伸び、自分が見ていた本を取ろうとした。反射的にすみませんと場を譲る。 長身の男だった。 思いがけない遭遇に目を見開く。 全身が一気に熱くなった。 「……なに」 なに、してんの。 言葉は途中で詰まった。 目に映っているのは間違いなく彼だが、こんなところで出会うはずがないと頭が混乱して、声が出なくなってしまった。 こんなところにいるはずがない、人違いだ、間違えて声をかけるのは失礼だ…いや、どう見ても彼だ。 よく知っている声。よく知っている匂い。間違いない。 「こんな遅い時間に未成年が出歩くなんて、感心しないな」 どこかからかうような口調で男は笑った。 慌てて腕時計を見る。ほんの三十分ほどの感覚だが、実は何時間もうろついてしまっていたのだろうか。 顔がほてって仕方ない。 確かめた時刻は、ほぼ思った通りで、やられたと自然唇が尖る。 「とても綺麗な絵本だね」 睨み付けると同時に耳に馴染んだ低音が心地良く響き、跳ね上がった感情は不思議なほどあっさりと溶けてなくなった。 「ああ、うん」 ほんとにね。 男は絵本を手にしたまま、背後を軽く指差した。 まっすぐ伸びる通路の先に、書店の入り口が見えた。 「上で買い物をして帰ろうとした時、君の後ろ姿が見えたんだ」 他に買う物はあるかと尋ねられ、首を振る。 何か面白いものはあるかなと思ってちょっと寄っただけだ。特定の目的はない。 「では行こうか」 本を手に行こうとするので、慌てて引き止める。 「これは、違ったかい?」 「いや、あの…高校生が絵本とか、みっともないだろ」 「いや。私はそうは思わない」 この色使い、見ているととても気分が落ち着く。青色の効果だね。大変な時期だから、こういった本があると心が落ち着くよ。 そう語る男の穏やかな声だけでもう、落ち着く。そして興奮する。 波立つ内心を悟られまいと必死に平静を装う。 「そしてこれは、本棚にしまうのではなく、壁に立てかけて飾るようにしてはどうだろうか」 こんな風に、と、表紙がよく見えるよう立てかけてディスプレイされている絵本の棚に、手にした一冊を置いた。 とてもいいじゃないかと笑う声を聞きながら想像する。 立てかける場所で思い浮かぶのが、本棚のどれかの段か、テレビ台のところだ。狭いひと部屋だから、部屋にいたら、いつでも目が向く。そこにこの絵本が飾ってあったら――。 想像すると、たちまち欲しい方へ大きく傾いた。心がどこまでも膨らんでいくようだった。 するとそれを見透かしたかのように、では決まりだと男はレジに向かった。 慌てて後を追う。悪いからいいよ、口ではそんな事を言いつつ、嬉しくてたまらなかった。申し訳ないと思う気持ちは間違いなくあるが、顔がだらしなく緩んでしようがない。 書店を出たところで、店名が印刷された袋に入った絵本を渡される。 「ありがとう」 余計な金を使わせてごめん。 「余計だなんて、そんな寂しい事を言ってくれるな」 これが少しでも君の励みになれば、嬉しく思うよ。 自分こそ嬉しくて、笑った途端頬がぎゅっと痛くなった。 「ほんとにありがとう」 「どういたしまして」 男の懐の大きさに心から感謝する。 アパートまで送るよと申し出に胸がじわりと熱くなる。あまりの熱さに痛みすら感じる。 帰ったらさっそく飾ろう。一ページずつ丁寧に眺め、読んで、溺れて、十二分に楽しもう。 「鷹久は、何買ったんだ?」 買い物とか、老舗のデパートでするのかと思ってた。それも、外商の人が来て、外には一歩も出ない。家の中丸ごと全部お任せセットなんだ。 典型的なイメージを口にすると、男はたちまち肩を震わせた。 「よく一緒に出掛けているじゃないか」 わかっていて、あえて言ったのだ。にやにやと頬を緩める。 自宅で使う文房具の予備をいくつか購入したのだと、男は袋をかざした。 ボールペンの芯や、メモ帳の類だ。 いささか複雑な気分になる。 自分がよく行く本屋で会うというのが、何とも言えず不思議な感覚なのだ。 「私も、まさかと思ったよ。似ている別人かと思ったが、ちょっとした仕草で君だとわかったよ。後ろ姿でも、わかるものだね」 嬉しそうな声だ。自分も同じ。思いがけない遭遇に喜び、舞い上がっている。気を付けてもつい早口になってしまう。きっと全部筒抜けになっているだろう自分が恥ずかしいが、抑えておけない。 路地を曲がれば、もうすぐアパートだ。嗚呼、歩くのがつらい。 たどり着いてしまったのがつらい。 どうにか隠して向き合う。 「ほんとありがと。鷹久も気を付けて」 「ああ。ではお休み」 軽く持ち上げられた手が下ろされる前に、あのさ、と詰まった声を出す。 行きかけた身体を戻し、男は目で尋ねた。 実はさ、あの時、……というか今日、鷹久に会いたいなーって思ってたんだ。 「明後日の金曜日会えるけど、なんかすごい寂しくなっちゃってさ」 救いの神だよ、ほんと。 時々、心読んだみたいにぴったりの事をする。不思議で、嬉しい。 「魔法使いみたいだな」 抱えた絵本にちなんでそんな事を言う。幼稚さをごまかす為、笑ってみる。 少し目を丸くして男も笑う。嫌な笑い方ではなかった。馬鹿にするのではなく、楽しんでいるのが見受けられ、ほっと嬉しくなる。 「そうだね。一人は気ままで楽だが、一人はそんなに」 男は静かに言った。 恐らく共有できているだろうあの感覚に、笑う代わりにぎゅっと唇を引き結ぶ。 「そんな時は電話をかけておいで」 「え、それは駄目だよ、迷惑だろ」 「いいや、君からならいつでも出るよ」 メールならば、すぐに返事をする。 でも。そんな。そんな事を言われたら、今日から甘えて電話しっぱなしだ。今だって、下らない他愛ないメールをちょくちょく送っている。今日起きたちょっとした事を、送ってしまっている。 それでいいよと男は笑った。 「声を聞くと気持ちが落ち着く。私も同じだ」 君の声が聞けたら嬉しい、だからいつでも声を、気持ちを届けるといい。 でも勉強はさぼらないように、と微笑んで釘をさす。 「わかってるよ」 そっちこそ、仕事サボるなよ。 わざと低い声で返し、睨みながら笑う。 「魔法使いからもう一つ。今夜はよく眠れるよ」 お休み。 笑いかけ、今度こそ男は背を向けた。 歩き去る後ろ姿を、曲がり角の向こうに消えるまでじっと見送る。途中何度も、駆け寄っていきたい衝動が込み上げた。駆け寄って引き止めて、力一杯抱きしめて、唇に触れたい。深いところに触れたい。 今にも足が動き出しそうで、一歩も動けなかった。 角を曲がる寸前、男は振り返った。軽く手を振り、そして見えなくなる。 反射的に上げた手を、いつまでも下ろせなかった。 それから寝床に着くまで身体がほてり、とても眠れそうになかった。 買ってもらった絵本を見るといくらか鎮まるのだが、その一方で腹がむずむずと疼いてしまい、結局その日は表紙を眺めるだけで終わった。 青色の効果は、半分ほど。 何がよく眠れるだ、嘘吐きめ。笑いながら悪態をつく。目を閉じると途端に顔が浮かんできて、寝るどころではない。 まったく憎たらしい奴だと布団に潜り込んで、ものの五分で眠りにつく。 朝、目覚めて、昨日はなんて良い夢を見たのだろうと大きく伸びをする。 その時目の端に青色がかすめ、夢でなく昨夜は本当に男に会ったのだと思い出すと同時に、いつにもましてぐっすり眠れた事に気付いて、魔法は本当だったと笑いが込み上げてきた。 心行くまでじっくり絵本の表紙を眺めた後、お礼をする為に携帯電話に手を伸ばした。 迷って迷ってメールを送る。これまでもそうだった事を改めて思い出しながら、すぐにやってきた返信に全身でにやける。 |