チクロ

バランス

 

 

 

 

 

 間もなく、高校生活最後の一年が始まる。
 明日で、春休みが終わる。
 そんな日曜日の朝、日の出の頃は昨夜の雨の影響で少し雲が残っていたが、朝食を終える頃にはすっかり行き去って、綺麗な青空が広がっていた。
 それに伴い気温も上がり、昨日とは打って変わって穏やかな気候。
 窓を開けても寒いと感じる事はなく、とても心地良かった。
 ルーフバルコニーに出るガラス戸を開き、外に出ようとしたところで、携帯電話が鳴った。一歩二歩行きかけた足を戻し、神取鷹久はテーブルに置いたそれを取りに行った。
 相手は思った通り彼…桜井僚だった。
 約束の時間、数分前だ。
 出ると、今どこにいるかわかるか、と言ってきた。
 駅に着いたところか、マンションの入り口か。明るい声の調子からして、今日の予定が駄目になったという連絡でないのはわかった。
 さて、では彼は今どこにいるのか。

「どこだい?」
『下を見ろ』

 下という単語ですぐに察する。
 なるほど、そこで楽しんでいるという訳か。思わず頬が緩む。
 神取はすぐに向かった。先ほど行きかけたバルコニーに出て、電話を耳に当てたまま下を覗き込む。
 彼が、去年の秋に見たがっていた風景が、そこに広がっていた。
 柔らかい風が頬を撫でる。
 樹の周りを探すが、どうやら真下に立っているようだ。

『見える? 俺は見えるよ』

 しかしこちらからは、満開の桜の枝が折り重なって上手く姿を見つけられない。
 彼はどこかの隙間から、まっすぐこちらを見上げているのだろう。少々悔しかった。なので、少々仕返しをする。

「残念だ……さて、もう出かける用意は出来ているのですぐに向かうよ、少しそこで待っていてくれるかい」

 すると案の定彼は慌てた声を上げ、五分だけでもいいからお邪魔させてくれと言ってきた。
 もちろん、五分と言わずたっぷりと堪能してくれて構わない。待っているから早くおいで、電話越しに招く。

『すぐ行く。あのさ鷹久、そういう意地悪はよくないよ』

 まったくもう……不満げな唸り声さえ可愛くて、こっそり笑う。済まなかったと詫びて、通話を切る。
 間もなく、チャイムが鳴った。
 恐らくは不満げな顔で立っているだろう恋人を迎える為、男は急ぎ足で玄関に向かった。

 

 

 

 彼の不機嫌は、バルコニーからの眺望ですぐに吹き飛んだ。
 マンションの裏手にある小さな児童公園に植えられた桜は、やや小さいながらも枝ぶりがよく、満開の今は見ごたえ充分で、道行く人の目を楽しませていた。
 そしてここにも一人…二人。
 すごい、いいな。僚は嬉しさを弾けさせた。
 男は、そんな彼の姿を眺めて嬉しさに浸る。
 すると彼は言った。

「鷹久も、見る事出来て良かったな」

 眩しい笑顔を向けられ、男は息も出来なくなる。
 気にかけてくれていた彼の優しさに思わず震えが走る。感激のあまり喉が詰まった。
 僚はまた眼下を望んだ。
 嗚呼…本当に。

「愛してるよ」

 想いのまま告げる。
 今度は僚が喉を詰まらせる番だった。
 真下を眺めたまま、ひどく苦い野菜を口に含んだ時のように顔を歪ませ、僚は何事か云いかけた。彼の性格からして、照れ隠しにぶっきらぼうな言葉を放つと男は予想したが、この時はそうしなかった。そう言いたいのがありありと伺える顔をしながらも、僚は、しばしの沈黙の後「自分も」と言った。
 男は嬉しげに頬を緩めた。

「……ニヤニヤすんなよ」

 やはり真下を見たまま僚は甘い罵声を飛ばした。
 ますます笑みが深まる。

「済まん」
「……別に。いいけど」

 赤い顔と、だらしない顔と。
 二つを並べ、二人はしばし時を過ごした。
 僚は静かに三回ほど瞬きを繰り返した後、向きを変え室内に目をやった。
 男も同じ方へと顔を向け、さりげなく横目で様子を伺う。
 僚の視線は何かを探しているようで、室内のあちこちを小刻みに追っていた。
 やがて僚は口を開いた。

「今頃言うのもなんだけどさ」
「なんだい」
「俺、最初鷹久の事……」

 ちらりと見やり、怒らないでねと付け加えた。
 男は軽く笑って頷いた。

「最初はさ、何だコイツ――って思ったんだ」

 予想通りの印象に思わず笑いが込み上げる。あの出会い方では当然といえば当然だ、彼の気持ちは充分すぎるほどよくわかった。

「どの時にそう思ったのかな」

 穏やかな口調に僚は少しほっとした顔になって、続けた。

「多分……あのリビングでだったと思うんだけど、最初に会ってあそこで傷の手当てしてもらった時に……鷹久が、ああいうのは楽しむ為にあるんだ、とかって言った時。あんなものでどうやって楽しむんだよ、ってなって、何だコイツ――って」

 心底軽蔑し、睨み付けた。ひどく嫌な顔をしていた事だろう。
 思い返して恥じ入る。

「そうだろうね」

 忘れてはいないと男は応えた。

「ほんと……ごめん」
「いやいや。あの頃の君にしてみれば、ああいったものは嫌悪の対象だったと理解出来る。謝る必要などないよ」
「でもごめん、睨まれたら良い気しないし」

 大丈夫だと、男は軽く肩を叩いた。すぐに誤解は解けたのだ。

「最初はそんなで、良い印象じゃなかったんだ。けど鷹久は、絶対嫌な目で俺を見なかった」

 それがたまらなく不思議だった。信じられなかった。時折同情の目を向けられる事はあったが、大抵は蔑みや嫌悪ばかりだった。汚いものを見るように視線をぶつけられ、粗雑に扱われる事がほとんどであった。たまらなく惨めな気持ちになるが自業自得であり、また全ては自ら望んだ事だった。そうやって扱われる事を望んでいたのだ。
 結果ますます侮蔑の眼差しは濃くなり、抱える怒りはますます大きくなっていった。
 そんな自分を、男は、決して斜めに見る事はしなかった。
 蔑みも、嫌悪も、同情もない。ただまっすぐに見てくれた。

「うれ、し…かった」

 その瞬間の感情を言葉に表す。そうだ、嬉しかったのだ。自分は嬉しく思った。かっとなって睨み付けたが、解き明かしてみればそれは嬉しいという感情に他ならなかった。
 男は微笑した。

「私も、いい機会だから言わせてもらおうか」
「うん、言って言って」

 僚は苦笑いで肩をそびやかした。

「ちょうど、同じタイミングだね。睨んでくる君を見て、どうしたのだろうこの子は、と思ったよ。君の事が気になって仕方なかった」
「おかしな奴だったしな」
「まあ、そうだね。だが誓って言うが、嫌な気持ちはまったくなかったよ。とにかくね、驚いた、困った……複雑な感覚で君の事が気になってしようがなかった」

 簡単に言えば、惚れたという事だ。

「………」

 僚の目が、信じられないものを見るように男の全身をくまなく探った。

「……嘘だろ」
「本当だとも。後から思い返してみれば、あの瞬間に君に惹かれていた。君の存在が強烈に私の――」
「うんわかった、ありがと」

 かき消す勢いで僚は言葉を重ねた。
 自分に関することを細かく説明されるのは気恥ずかしい…そう言わんばかりの顔で視線をさまよわせ、ジーンズにしきりに手のひらを擦り付けていた。
 隠し立てできない性質にふと笑いが込み上げる。
 つい、意地悪をしたくなる。
 答えがわかりきっている質問をする。

「信じられないかな?」
「いや違う、うん、だけど……」
「なんだい?」

 そんな上手い話が、と、僚は独り言のように呟いた。今にも笑おうとする戸惑いを顔に浮かべ、男に視線を注ぐ。

「……俺も、そうだったから」

 控えめな声で僚は綴った。
 男は、彼にとって『夢の中の話』を思い出した。身体の芯が少し熱くなる。
 それは彼がこの部屋に初めて泊まった夜の事。知らぬ事とはいえ酒に弱い彼に酒を飲ませて少々しくじり、肝の冷える思いをした。当の本人は心地良く酔っ払い、その勢いのまま想いをぶつけてきた。
 いつ、どんな時に想いを自覚したか、それはどれ程の強さなのか、全てを語って聞かせた。
 しかし翌朝目覚めた彼は、昨夜の出来事を夢の中のものと処理していた。
 いささか残念ではあったが、彼からまったく愛の言葉を贈られていないわけではないので、一つの思い出として胸に残していた。
 その心残りが、今になってようやく晴れた。
 僚は、恥ずかしさからもごもごと呟きを零した。
 自分も同じ瞬間に、男に心惹かれていた。
 でも、そんな上手い話が――。

「そんなうまい話、たまには起こってもいいじゃないか」

 男はまっすぐ受け止めて笑った。
 僚の目がわずかに潤みを帯びる。
 熱心に見つめてくる眼差しに心が締め付けられる思いがした。

「……そっか」

 唐突に僚は破顔した。その、どうにも抑え切れないといった表情の移り変わりが男にはたまらなく愛しかった。瑞々しい心の揺れ動きに触れ、胸が熱くなる。
 楽しげに肩を上下させ、僚は室内へと足を向けた。
 男も後に続く。
 彼は、窓辺で日差しに包まれているベンジャミンの傍で歩みを止めた。
 少し前から元気に新芽を展開させ、季節らしい美しさを見せていた。
 偉いよなあ、植物って。
 じっくり眺めた後、僚は顔を上げた。

「時期が来るとこうしてちゃんと動き出す。すごいよな」
「そうだね」

 彼の感動には追い付かないだろうが、男も精一杯心を込めて共感した。

「君がよく気にかけているから、応えたのもあるだろうね」

 出張等で長く不在にしてしまう時、僚は代わりに世話役を買って出てくれた。
 僚は小刻みに首を振った。発端は下らない気まぐれ、イメージの押し付けであった。

「俺がムリに買わせたようなものだし」
「そんな事はないさ、君の提案はとても良かった、正解だったよ。部屋にこうして緑があるのは、とても心が和らぐよ」

 朝目覚めたとき、夜遅くに帰宅した時、緑の存在は思った以上に心の慰めとなった。

「君のお陰で良い買い物ができた。改めて礼を言うよ」
「……そう言ってもらえると、俺もほっとする」

 僚は小さく笑った。
 もうこうして何度、見習うべき男の態度を目にした事だろう。過剰に持ち上げるのではなく人を称賛する言葉遣いや、ふるまい、心がけ…尊敬してやまない。

「……じゃ、行こっか」
「ああ。君の来るべき時期の為に」

 男は肩に手を添えた。
 僚がにっこりと笑う。

 

 

 

 向かったのは、学問の神様を祀るよく名の知れた神社。
 シーズンともなると大勢の参拝客で賑わうそこに行こうと言い出したのは僚で、一緒に行ってくれないかと誘いが来たのだ。
 四月に入ってすぐの事だ。
 男は快諾した。
 神頼みなんて笑われるかと思った…ほっとした顔でそう言う彼にとんでもないと首を振る。折々に気持ちを新たに決意表明するのは自分もよくやる事で、決して笑うことではない。
 そうなのかと、今度は意外そうな顔になる。
 一体彼の中で自分は、どんな像に仕上がっているのだろう。機会があったら是非一度覗いてみたいものだ。
 チェロの練習を終えて彼をアパートに送った帰り、そういえば一年前の今日、夜の交差点で彼と出会ったのだった。
 そんな事を思い出した。続けて色んな事を思い出した。これまでの事を、出来る限りたくさん思い返した。どの瞬間を切り取っても心を和ませ興奮させ、その日の夜は遅くまで寝付けなかった。
 鳥居をくぐり、手水舎に向かう。
 道中の車内では、昼はどこで何を食べよう、帰ったらもう一度バルコニーからの桜を見たい、そのあとチェロの練習をしよう、いつものように僚はお喋りをしたが、鳥居をくぐったところから口数は減り、手を洗い清める頃にはかなり引き締まった顔になった。
 ちらりと横目で伺う。美しく整った顔をしているだけに独特の雰囲気があった。
 今はシーズンではないが、週末という事もあり人は多かった。
 少し並んで、お参りを済ませる。
 ようやく、強張っていた顔に笑顔が戻った。

「絵馬は書かないのかい」
「ああ、うん。今日のは合格祈願じゃないから」

 初詣の時に合格祈願を兼ねてまた来る予定で、絵馬はその時に書くつもりだと僚は言った。

「今日は、明日からの毎日、生活も勉強もチェロも……愛情も、バランス良く繋がってゆきますように――って」

 一部やや声が震えた。
 とてもいいねと神取は微笑んだ。
 僚の目が忙しなく揺れる。
 先ほどまでの、近寄りがたい雰囲気を纏った少年はどこへやら…年相応の可愛らしさに頬が緩んで仕方ない。

「……だからニヤニヤすんなって」

 やや不機嫌になった少年に、朝と同じように謝った後、神取はあるものを差し出した。

「より、気持ちが高まると思うよ」

 学業守だ。
 いつの間にと目を丸くして男を見やり、僚は有り難く受け取った。
 不機嫌さは吹き飛び、弾けんばかりの笑顔が広がる。
 たまらなく愛おしい。男は眩しさに目を細めた。
 車に乗り込み、シートベルトをしながら確認する。

「では、昼は先ほど言ったところでいいかい」
「いい? やった」

 僚はうきうきとした声で応えた。
 そして帰ったらもう一度バルコニーからの桜を見て、チェロの練習をして、と、今日の予定を再確認する。

「お参り、付き合ってくれてありがとう」

 お安い御用だと笑顔を返し、神取は「ちょっと失礼」と手を伸ばした。
 髪に触れようとする手に僚ははっと目を見開き、大慌てで言った。

「また……!」

 赤い顔ですぐさま髪をすく。
 案の定、おりてきた男の手には桜の花びらがあった。駐車場を取り囲むように植えられた桜から、舞い降りたものだろう。

「……ちょっとこれ、縁起悪くないか?」

 桜散る…なんて。
 困惑する僚に神取は首を振る。

「いやいや、これは吉兆だよ。去年も、これから君は好い方へ向かっていったからね。むしろとても縁起が良いよ」
「……ああ!」

 そういえばそうだと僚は顔を輝かせた。
 縁起を担いで、去年と同じようにしてみたら、気分的にも晴れ晴れとしていいだろう。
 物事がもっとうまく行くように。
 神取は提案する。

「うん、そうする」

 僚はポケットからティッシュを取り出すと、広げ、丁寧に包んでしまった。去年した事は覚えている。明日の朝、学校に行く前に同じようにしよう。
 納得のいった横顔を確かめ、神取は静かに車を走らせた。
 僚は上機嫌で、後方へと流れてゆく車窓からの桜を楽しんだ。

 

 

 

 それから二日後、始業式の後教室に戻った僚は、携帯電話に一通のメールを見つけた。

――一年間本当にありがとう、今後ともよろしく

 短い、彼らしいメッセージ。
 気を抜くと今にもにやにやと緩んでしまいそうな顔をどうにか引き締め、返信に取りかかる。
 悩みに悩んで文面を決め、返事を送ったところで、去年の丁度今日に、職員室の前で男と再会した場面がふっと脳裏を過ぎった。
 それを皮切りに、今日までの二人の様々な出来事が鮮明に蘇ってきた。声や感情や感覚が、たった今起きた事のようにくっきりと。
 今後は一体どんな良い事が起こるのだろうか。昨日花壇に散らした花弁は、どんな良い事をもたらしてくれるだろうか。
 想像するとたちまち胸が苦しくなり頬が熱くなり、脳天が、甘い痺れで一杯になった。

「桜さん、具合でも悪いの?」

 背後から心配そうな声がした。
 どうにか堪え、声音だけは何ともない風を装えた僚だが、それからしばらくの間俯けた顔を上げる事が出来なかった。
 嗚呼、早くもバランスが崩れてしまいそうだ。

 

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