チクロ

コーヒー

 

 

 

 

 

 お疲れさまでしたと声をかけ、桜井僚は外に出た。
 携帯電話を取り出し、歩きながらメールを送信する。ポケットにしまって間もなく、返信が来る。お疲れ様、待っているよ…たったそれだけのものだが、頬が緩んで仕方がない。
 昼間は、四月並の暖かさと気象予報士が言っていた通りだったが、すっかり夜の時間になった今は『春』とは言い難く、暖房の効いた店内との落差もあっていささか震えが走った。
 見越して、厚手のコートを着てきて正解だった。その上マフラーもある。問題なく暖かい。心まで。
 久々の接客で少し疲れ、少し空腹だが、気分はいい。
 僚はマンションへの道程を急いだ。
 道中、素知らぬ顔で客に混じっていた男の顔が思い浮かぶ。笑いが込み上げて仕方がない。
 マンションについたら何と言ってやろうか。
 頭の中であれこれ思い浮かべる。
 臨時のアルバイトも、たまにはしてみるものだ。

 

 

 

「ごちそうさまでした」

 手を合わせ満足げな顔の僚に頬を緩め、神取鷹久はお粗末さまでしたと返した。
 相変わらず彼は礼儀が良い。といっていつも四角四面の窮屈さはなく砕けている部分も大いにあるが、ふとした場面に今のように改めて思わせてくれる。そういった些細なところを見つける度、ますます彼が好きになる。

「足りたかい?」
「うん、もう充分。隙間なく詰まってる感じ」

 満腹だ、最高だと僚は笑いながら腹をさすった。
 それは何よりだと、男は微笑み返す。実を言うと、余るだろうと予想していた。その分は冷凍して後日に回せばいいと見越して作ったのだが、思った以上に旺盛な彼の食欲に圧倒され、鍋も釜も綺麗に空になった。びっくりしたが、嬉しい方だ。
 余計な事なので、彼には言わない。

「本当に美味しかった」

 にこにこと満足しきった顔で言われ、男も心底満足する。これがあるから、彼にご馳走するのをやめられない。

「久しぶりにレジに立ったから、疲れたろう」
「うん、まあ、あの時間て特に混むからさ、さすがにちょっと足にきた」

 高校一年の頃、短期間ではあるが同じコンビニエンスストアでアルバイトをした事があった。そのよしみで、穴埋めの為の臨時を頼まれたのだ。丁度休みに入り身体は空いていたので引き受けた。接客は嫌いではない。店長の人柄は相変わらず良くて、あっという間の数時間だった。

「そうそう、途中でヘンな客来たよ」

 いつ、どうやって切り出そうかタイミングをはかっていた僚は、ここぞとばかりに口を開いた。空腹も満たされた、今がチャンスだ。
 すぐに察した男は、わずかに顎を引き調子を合わせる。

「おや、どんな客だい」

 うん、それがさ…僚は殊更に深刻な声を出した。面白おかしく滑稽に語られる自分の挙動に肩を揺すり、神取は声を上げて笑った。彼の語りは相変わらず巧みで、好ましいと思うタイミングが自分と似通っているのもあり、大いに笑えた。
 僚も同じく腹を抱えた。こんな馬鹿馬鹿しい話にも楽しく付き合ってくれる男がたまらなく愛しい。

「なあ、笑っちゃうだろ」
「ああ、それは大変だったね」

 二人はしばし、声を揃えて笑った。
 嗚呼、彼といると本当に楽しい。
 嬉しい。
 他愛ない事を共有出来るのが、本当に幸せだ。

「あ、片付け、俺も手伝う」
「君はアルバイトで疲れているだろう。すぐに済むから休んでいなさい」
「平気平気、二人でやればもっと早く済むし。夕飯ご馳走になったし、お返し」

 当然とばかりに食器を運ぶ僚に口端を緩める。

「やっぱり君は、良い子だね」

 たちまち僚は唇をひん曲げ、何を、そんな、ともごもごと呟いた。照れ隠しの苦笑いさえ、男には愛しかった。
 手分けして後片付けを進める合間、男は冷蔵庫を指さした。

「ところで、さっき君が言った、ヘンな客が買った缶コーヒーがあるんだが、飲むかい」

 飲みたい、と僚は声を上げた。では風呂上りにどうぞと勧められ、更に目を輝かせる。

「冷やしてあるから、ゆっくり温まっておいで」
「ありがと。じゃあとで。あのメーカーの、一番美味いんだよな。甘さとか丁度良くてさ。さすが鷹久、わかってる」
「初詣の時君が奢ってくれたのと同じものを選んだんだよ。合っていてよかった」
「うん、あれ美味しいよ」
「同感だ。ところで僚、缶コーヒーを買ったのはヘンな客じゃなかったのかい」

 しまったと僚は口籠り、すぐに気を取り直して続けた。

「鷹久はヘンな奴だから、ヘンな客でいいんだよ。合ってるだろ」

 男は声を抑えて笑った。少しむきになった顔がたまらなく可愛い。

 

 

 

 やった、いただきます、と満面の笑みで缶コーヒーを受け取った僚だが、すぐには開けず、テーブルに置いた。
 久々の接客について、語り足りない部分があるようで、僚はお喋りを始めた。
 目まぐるしく表情を変え、時々声を作り、どんな数時間だったかを彼は語った。何度も笑いが零れた。自然に引き出してくれる彼の話術が、男は好きだった。
 熱心に耳を傾け、何度も頷き、促しながら、男は、この向こうにある本当に話したい事が出てくる瞬間を待った。
 出会って間もない頃は、会話を続けるのに少々苦労した。それは当然の事で、お互い相手について伺う期間だったからだ。
 距離が縮まりわかってみると、僚は黙っているよりはお喋りが好きで、共有するのが好きで、今のように些細な事でも伝えたがった。
 独り善がりに喋り続ける身勝手さはなく、むしろ伝える為の工夫を色々こらしているので、彼とのお喋りの時間はいつでも好きだった。いつまでも聞いていたいくらいだ。
 そうやって聞いていると癖も掴めるもので、ちょっとした違いもわかるようになる。
 以前もあった事だが、本当に話したい事が話しにくい時、彼は少し早口になる。沈黙を寄せ付けない。
 本当にささやかな違いだが、よく耳を傾けていればわからない事はない。
 神取は本題を待った。
 今回はどういった悩みを抱えているのだろうか。そういえば彼は間もなく進級する。となるとやはり、その先の事だろうか。
 唐突に言葉が途切れた。
 思わず緊張が走る。
 僚は缶コーヒーに手を伸ばすと、ややせっかちに振った。すぐに開けて傾ければより美味しく味わえるだろう。
 だが彼はそうはせず、手を止め、やや置いて「あのさ」と切り出した。
 男は静かに頷く。

「ただ知ってて欲しいんだけど」
「なんだい」

 僚は小さく息を吸い込んでから口を開いた。
 語られたのは、少なからず動揺を誘うものだった。

「実はさ、初めてだったんだ」
「……何がだい?」
「セックス。鷹久とするのが、初めて」

 男は小さく目を見開いた。
 以前勤めていた店は、過激な行為も許容していた違法ぎりぎりの店だが、それだけは禁止されていた。道具で遊ぶのは自由なので、数えきれないほど使われたが、生身を受け入れたのは男が初めてだった。
 先ほどまでとは打って変わって、僚は淡々とした様子で語った。

「それで……本当は、するまで本当に怖かったんだけど、それほどでもなかった」

 そりゃ始めはちょっとは苦しかったけど、思ってたような痛みとかは全然なかった。

「もう、なんていうか……目がくらくらするような気持ち良さばかりで、こんななんだ――って。鷹久だからだな」

 どの瞬間思い出しても、手が、優しくて気持ち良かったってばかり。

「名前を呼べた時は、一番……」

 感情の無い人のようにぴくりとも動かなかった顔が、そこでふと、うっとりとした微笑みに変わる。
 男は思わず見とれた。少しの苦しさを味わいながら、必死にあの時の自分を思い出す。行為はとっくに経験済みだと思っていた。だからといって乱暴に扱うつもりはなかった。
 あの時自分は、彼の誤解を解くのに最大限心を砕いた。
 好ましくない行為に耽っていたせいで、汚いと思われ、だから触れてももらえないのだと打ちひしがれてしまった彼の思い込みを溶かす為、一つ一つ丁寧にたどった。
 だがそれは、初めての人間に対する気遣いとはまた違う。
 しばし沈黙が続いた。
 不意に僚は声を張り上げた。

「でもさ、あんなバイトしてた人間の言う事なんて、アテになんないじゃん。それにやってないからなんだっていうよね」

 笑って肩を竦める。
 それ以外はどんな事でも受け入れた。どんな事でもしてみせた。そこに大した違いはない。汚い事に変わりはない。
 僚の顔から段々と笑みがはがれ落ちてゆく。

「だけど、だから……知ってるだけでいい。俺はそうだった、そう思った」

 鷹久とするのは怖くなかった、気持ち良かった。
 大事な言葉を扱うように、控えめに、囁きで言葉を綴った。
 熱い祈りを捧げるように。
 何故始めにそう言わなかったのかと、疑問と、少々の怒りが込み上げる。だが彼にしてみれば、信じてほしいが言ったところで通じないだろう、こんな自分の言う事など信用してもらえないだろうと諦めを抱いていたのだ。あの頃の彼を思えばその心情は理解出来るもので、胸が痛んだ。
 信じたい、信じる気持ちは充分あるが、口に出してしまうと途端に嘘になってしまいそうで怖かった。
 当然、責める気などない。
 男はじっと目を見つめ返した。

「わかった。聞かせてくれてありがとう。よく、心に刻んでおくよ」

 僚は小さく頷いた。

「ついでだから、こういう話してもいい?」

 目線で促す。

「いちいち比べてる」

 やってる事は同じだから、そこで、あの時はこうだった、でも鷹久は違う…あの時はこうされた、でも鷹久は違う。一つひとつ、比べてしまう。

「比べようとしてやってるわけじゃないよ。でも、頭に浮かぶ。忘れるわけ……忘れられないから」
「それで、そういう時、君はどう思うんだい?」
「一番に思うのは、鷹久に会えて良かったって事。じゃなかったら、今頃もっとひどい顔付きしてたと思う。こう、見るからに卑しい目付きになっててさ」

 両の人差し指で目の端を吊り上げる。
 こんな顔になって、生きているのに、死んだような生活をしていた事だろう。

「……もしかしたら本当に、死んでたかもしれないし」

 今考えたら、よくやってられたよ、あんな事。
 痛くて眠れない日が何度もあった。仰向けになれないから、布団被ってうずくまって、ひと晩じゅう痛い痛いと耐えた。
 痛くて他の事が考えられない。そんな状態が、あの頃の自分は欲しかった。
 本当に、よく死ななかったものだ。

「それで、こんな話も、よく出来るもんだなって自分でもちょっとヘンな感じ」

 そんな自分に、下ばかり向いてなくていいと言ってくれた。前を目指して進む権利があると教えてくれた。
 だから決断する事が出来た。
 鷹久には、本当に感謝してる。

「私の方こそ。君に会えたのは最高の幸運だ」

 僚は肩を竦め、始めは遠慮がちに、そして幸せそうに笑った。
 それから彼は、自分がこの先どうするのか…どのような進路を選ぶのか、その為にどうするべきと考えているかを語った。
 男は一切口を挟まず、最低限の相槌を打つだけにとどめた。
 無理かどうかはわからない。
 出来るかどうかもわからない。
 決めるのは全て、彼自身なのだ。

「親にはもう、伝えた。というか……一年の時の進路調査で、決めてた」

 決めていたというのは少し語弊があるが、結果的にはその時点で決定していた。

「俺は、あの家にいるのが嫌になって……嫌になりたくないから、高校から一人で暮らすって事にした」

 それについては、以前説明された通りだ。離れて暮らし、適度に距離を保つ方が上手くいく事もある。

「反対はされなかったけど、色々心配された。当り前だよな。でもあの頃はそれらが本当に煩わしくてさ……何もかもが。だからどうすれば黙らせる事が出来るか考えて、親を納得させるにはどうすればいいか、一つひとつ書き出してみたんだ」

 黙らせる、というおこがましさを恥じ、悔いて、僚は殊更に顔を歪ませた。

「でそこに、学校から、進路調査があって。そうだこれを決めてその通りにやれば、文句はないだろうって思ったんだ」

 適当に進学をでっち上げた。なんで、どうしてと聞かれた時の為に、かなり躍起になって細かく組み立てた。その時知り得る範囲内で分かるだけ調べ尽くし、作り上げた架空の自分に見合う進路をでっち上げた。

「それで、一年の時はこう、二年になったらこう……って計画表みたいなのを作ったんだ」

 自分でも馬鹿みたいだと笑ったが、一日の時間割も書いて壁に貼った。

「鷹久も見た事あるだろ。机のとこに貼ってあるから」

 男は小さく頷いた。

「一人暮らし始めたばかりの頃は全然思ったようにいかなくてさ、まあ当り前だけど、それで何度もやり直して……とにかく、やるしかなくて。そしたら、その内なんとか出来るようになった」

 何度も失敗を繰り返してどうにか、最初に計画した通りに進められるようになった。

「その適当にでっち上げた進路が、今は自分の大事な目標になってる。……面白いよね」

 笑いかけてくる僚に微笑み、男は肩を抱き寄せた。
 僚は肩口に頭を預け、小さく息を吐いた。
 男は抱いた肩を優しくさすった。
 彼の中に明確なビジョンが浮かんだのは、単なる偶然ではなく、本当に見えたからかもしれない。
 時として人に起こる事。自分のなるべき姿、実際の未来を、見るという事。
 ならば彼は、確実に望む自分になれる。
 男は震えが湧くのを感じた。

「で……」

 問いかけるように僚は言った。

「鷹久は、どう思う?」

 恐る恐る伺うように見やってくるのは、感想と、無謀さを笑っていないか確認する為だ。実力に見合わない大それた事を言っていると、男が心の中で笑ってないか、知りたいのだ。

「君がそこを目指すのは、少なからず自信があるからだ。その自信はどこから来るんだい?」

 自信を支えている基は何か、男は尋ねた。
 僚はさっと立ち上がるやショルダーバッグを取りに行き、中から何やら取り出した。
 差し出されたのは、彼の現在の学力を数値化したものだ。
 大したものだと男は目を見張る。普段の生活でも、彼は物事を処理する手際が良い。それも格段に。根はとても真面目だが、一方で楽天さを持ち合わせている。それがいいのだろう。
 あれもこれもといっぺんに抱え込み全てこなそうとするのではなく、適度に力を抜き、一つずつ確実に解決する。その際何を一番目に据えるべきか、見分ける目を持っている。

「今日、話をしようと思って、持ってきたんだ」

 紙面から僚へと目を移し、男は頷いた。これならば誰も文句は言うまい。もちろん自分も。
 そして本人も。
 神取は肩をそびやかした。

「参ったな」
「何か足りないか?」

 そうではない。
 強張った顔で身を乗り出してきた彼をやんわりと押し返し笑いかける。

「本気を出した君がどこまで行けるか想像を超えているから、思わず震えが走ったんだ」
「……なんだよ」

 僚はいくらか不機嫌そうに唸った。
 無論男は茶化した訳ではない。ふざけて言っているのではない。

「本心から思っているよ。君は、君の思う通りの人生を歩める。それがまったくスムーズにいくかは保証できないが、君が止めようと思わない限り、君のほしいものは必ず手に入る」

 それは約束する。だから、しっかりと、行きたいところを見ていなさい。
 僚は心持ち目を見開き、男をしっかと見据えた。

「……なんだい」
「いや、鷹久が言ったから。欲しいもの見ろって。だから見てる」

 言葉と同時に少しおどけた顔付きになって、僚は視線をぶつけた。
 こらえきれず男は笑った。彼も中々の演技派だ。伸ばした手で頭を撫でる。
 僚も笑って、それから少し寂しそうな顔で言った。

「あのさ、鷹久……俺、きちんと出来るってところを親に見せたいって思ってる。まずそこを目指したい。もちろんそれだけで大学いく訳じゃなく、自分が一番にやりたい事だからだけど、親への証明にもしたいんだ」

 後々変わるかもしれないが、今のところは、あの家に帰り一緒に暮らす自分というものが思い浮かべられない。折々に帰って数日過ごす事は出来ても、あの家で日常を送る事は難しいだろう。
 親不孝者である。
 そんな自分が精一杯考えて思い付いたのが、これだ。
 今はまだ親の金、人の金に頼っているが、いずれは自分で稼ぎ自分の暮らしを確立する、その為の一歩として、進学し、その先を目指して、親を安心させたい。

「けど、こういうのって……甘いかな」
「いや。素晴らしい心がけだと思う」

 丁度良い距離というのは、家族それぞれ違う。ひと塊でいるのが良いもの、時々交わるのが良いもの、様々だ。
 離れていても、思いやる気持ちがあるならばそれでいいのだ。

「一つ、余計な口出しをさせてもらえるなら」

 僚は少しむっとした顔で小さく首を振った。今まで男の言う事に無駄や余分があったためしがない。そんな事を言うな。どうぞ、自分の稚拙な考えを修正してほしい。

「いい機会に、彼らと話をする事、自分の意思を告げる事をしてほしい。最後は君の決断が全てだが、話し合うのは、無駄にはならない。だからどうか、思い付いた時に、話をするといい」

 しっかり飲み込むように、僚はゆっくり頷いた。

「聞いてくれてありがとう。いつも、ほんと」

 ありがとう。
 心から感謝する。こんな話、他の誰にも親にさえ出来なかった。親にも言えない事をしでかした自分を受け止め、受け入れてくれる存在のなんと有り難い事か。

「人間というのは、時々馬鹿をやらかすものだ。そこで、馬鹿者のまま終わるか、もう一度歩き出すかはその人次第。君はもう一度歩き出す事を選んだ。私は、そんな君の隣で一緒に歩いて行きたい」
「……鷹久に会えて、ほんとよかった」

 僚はじっくりと顔を眺めた後、呟くように言った。
 男は再び、彼の少し癖のある黒髪をそっと撫でた。それからテーブルに置いた缶コーヒーを手に取り、軽くさし向ける。
 乾杯しようという意向をくみ取り、僚はにっこり笑った。ところが自分の缶を手に持った途端、何の前触れもなく涙が込み上げてきた。目の奥がずしんと痛くなる。抑える間もなく溢れて零れる涙にひどくうろたえ、僚は顔を背けた。
 男はそれをやや強引に自分の側に引き寄せ、抱きしめた。
 一度は抵抗した僚だが、すぐに力を抜き、力任せに男に抱き付き、泣き声を上げた。
 みっともない、恥ずかしい、じれったさを訴える声で僚は唸った。
 男は黙したままでいた。
 ああ、くそ、と震える声がもれる。
 僚はそれほど長くは泣かなかった。涙自体はすぐに引っ込み、泣きたい気持ちも収まったのだが、恥ずかしさから中々顔を上げられず、結果男の服にいつまでもしがみ付く羽目になった。
 息遣いや身体の震えの違いから、男も僚の変化は感じ取っていた。泣き顔を見せるのが嫌で、いつまでもうずくまったままでいるのもわかっていた。顔を洗ってきたらどうかと提案が喉元まで込み上げるが、そうやって声をかけられるのも屈辱だろう。彼が決断するまで、声をかけるのも、身動ぎ一つ、抑えて、じっと待ち続けた。同じ姿勢で固まっているのが少々つらいだけで、待つのは何の苦でもない。むしろ嬉しかった…彼には申し訳ないが。
 更に一段心を開いて、見せてくれた事が、たまらなく嬉しかった。
 恐る恐る、背中を撫でる。泣いたからか、随分熱い。男はゆっくり背中を撫で続けた。

「服……ごめん」

 やがて小さな声がした。くぐもっていてすぐには理解出来ず、返事が遅れる。
 部屋着の一枚や二枚、汚れたところでなんだというのだ。洗えば済む。

「でもごめん」

 気にするなと、男は二つばかり背中を軽く叩いた。
 それを合図に僚はのっそりと顔を上げた。鼻の辺りが少し赤い。無性に可愛かった。
 僚は鼻を啜ると、缶コーヒーを再び手に持った。
 男もそれに続いた。
 気まずさに、最初は目を逸らしていた僚だが、やがておずおずと目を見合わせると、目配せで合図した。
 二人の指がほぼ同意に動いた。
 ぱきりと小気味よい音が弾ける。
 男はおもむろに口を開いた。

「では……君の輝かしい未来に」

 僚は一瞬目を見開き、たちまち笑い転げた。
 眦にまだ涙を光らせながら、楽しげに笑う僚を見て、よかったと男は胸を撫で下ろす。

「こういう時はね、思い切り浸った方がいいんだ」
「そうなの?」
「そうとも」
「じゃあ、ええと――俺たちの光り輝く未来に乾杯」

 大笑いしながら、僚は元気よく缶を掲げた。
 何の変哲もない、少し甘い缶コーヒーの味は、生涯忘れられぬものとなって二人の記憶に刻み込まれた。

 

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