チクロ

フロスト

 

 

 

 

 

 日も沈み、夕食時にちらちらと舞い始めた雪は音もなく降り続き、窓越しに外を覗く少年をワクワクとした気持ちにさせた。

「明日には、積もってるかも」

 口元をほころばせ、桜井僚は男を振り返った。

「それは楽しみだ」

 静かなクラシックと酒を愉しんでいた神取鷹久は、目を上げ、報告に大きく頷いた。
 男の表情に、僚は照れた顔で口を引き結んだ。
 積もるほどの雪は滅多にないので、ついはしゃいだ声を上げてしまった。それが少し恥ずかしかった。
 男が嬉しそうに頷いたのも。
 どんな些細な言葉も逃さず受け取ってくれるから、余計に。
 まあいいかと肩をそびやかし、僚はもう一度外を見た。
 夜闇の中静かに舞い降りる雪が、広いテラスの中央にあるまるいテーブルに椅子に、ひとひらまたひとひらと降り積もっていく。
 目の前で、少しずつ少しずつ積み重なっていく結晶を眺めていると、胸の奥がどきどきと疼いて止まらなかった。
 今にも雪の中に飛び出して、駆け回りたくなる。
 と、不意に肩を抱く手に、僚は小さく驚いて振り返った。
 いつの間にか隣に並んだ男を見上げ、にこりと笑う。

「大きいのを、一つ作ろうか。それとも、小さいのをたくさん作ろうか」

 ガラス越しに外を眺めながら、男は言った。
 同じ方向に目をやり、僚は小首を傾げた。

「何を?」
「雪だるまさ」
「ああ――」嬉しそうに目を見開き、続ける「大きいのを一つ作って、小さいのも作る。たくさん」

 もう一度振り返り、にっと笑う。

「鷹久も、そういう事考えたりするんだ」

 感心したように何度も頷く少年に、男は笑ってまあねと返した。

「なんか、不思議な感じ」

 窓硝子に映る男の顔をまじまじと見つめながら、僚は呟いた。雪だるまを作って遊ぶ場面が、全く浮かんで来ない。 そもそもそんな事をするという発想自体、ないのではないか。
 そんな風に思っていた。
 決め付けだったか。
 それとも今の発言は、自分に合わせての事か。

「子供の頃に、ちゃんと遊んでいなかったからね。今になって遊びたくなるのは、ある種の反動かな」

 不思議そうに見つめる僚にそう説明し、神取はにこりと笑った。

「遊べるうちは、うんと遊んだ方がいい。今しか出来ない事をするのは、とても大切だよ」

 僚はこくりと頷いた。

「いくつ作れるかな。雪だるま」

 肩に置かれた手を握り、僚は目を輝かせた。

「そうだね。とにかくたくさん、作りたいね」

 しんしんと降り積もる雪を眺めながら、二人は頬を寄せた。

 

 

 

 翌朝、日の出を迎えたばかりの時間にふと目を覚ました僚は、今何時かと寝ぼけ眼を瞬かせながら時計を探して辺りを見回した。
 探し当てた目覚し時計は、六時半をさしていた。
 ぎゅっと目を瞑る。
 まだ起きるには早い時間だというのに、凍えるような寒さのせいで目が覚めてしまったようだ。
 もう一眠りしよう。
 そう決めると、隣で眠る男を起こさぬよう身体を寄せて深く息を吐いた。
 そこで唐突に、昨日の雪が頭に浮かんだ。
 そうだ
 僚はぱっと目を見開いた。

 

 

 

 寝返りを一つ打ち、神取は半ば無意識に隣を探った。
 初めの内こそ、隣で誰かが眠っている事に慣れず気を使っていたが、いつの間にか、二人で眠る事に安心感を抱くようになっていた。
 眠っていても無意識に抱き寄せ、腕の中の熱に安堵する。
 今では、目覚めた時に誰もいない…僚がいない事に寂しささえ感じるほどだ。
 自分がそんな感情を抱く人間だという自覚が全くなかっただけに、笑いたくなるような不思議な感覚を味わう。
 さすがにそれを吐露するのは恥ずかしいので…もう知られているかもしれないが…普段はおくびにも出さない。
 シーツを手繰りながら、あるはずの背中を探す。
 しかし、いくらたどっても届かない。
 怯えたように、はっと目を開ける。
 いつ抜け出したのか、隣はすっかり冷たくなっていた。シーツをさすりながら身体を起こすと、神取はベッドをおりた。
 振り返る。
 エアコンが、静かに稼動していた。
 神取は窓辺の椅子にかけていたガウンを羽織ると、僚を探して寝室を出た。リビングはしんと静まり返り、その向こうのキッチンにも、人の気配はなかった。
 耳を澄ましても、物音一つしない。洗面所に向かおうとして、ふとテラスが気になり、外をうかがいながら歩み寄った。
 少し開いたカーテンの隙間から、動く人影が見える。
 知らず知らず頬を緩め、神取はガラス戸を開いた。
 途端に襲う刺すような冷気に肩を竦め、神取は口を開いた。
 僚
 呼びかけると、昇り始めた朝日を背に恋人は振り返った。
 雪は夜の間にやみ、空は晴れ渡っていた。

「おはよう」

 足首まで埋まるほど積もった雪の中に立ち、僚はにっと笑った。
 朝日を受けキラキラと光る雪よりも眩しい笑顔は、抜けるような浅い空色と相まって、より輝いて見えた。
 男は思わず目を細めた。

「見て、ほら。こんなに積もった」

 嬉しそうに両手を広げ、左右を見渡す。

「すごいね」
「こっちもすごいだろ」

 そう言って僚は、まるいテーブルの上に所狭しと並べたいくつもの小さな雪だるまを、自慢げに指差した。

「よく作ったね」

 感心したように目を丸くする男に、僚は嬉しそうに笑って鼻をすすった。
 見れば、手袋もなしに作ったせいで両手は真っ赤になり、冷たい風にさらされて鼻も頬も紅潮していた。
 上着もマフラーもきっちり着込んでいるのに、手袋だけしていない。

「大きいのは、後で一緒に作ろうと思って」

 男は何度も頷きながら、僚を招き寄せた。
 真っ赤になった手で、赤くなった鼻をこすりながら、僚は歩み寄った。

「手袋をして作れば良かったのに」

 触っていた雪と同じくらい冷たくなった両手をそれぞれ握ると、神取は優しく包み込んだ。

「こんなに冷たくなってしまって」
「そうなんだけどさ」

 早く作りたくって
 嬉しそうな白い吐息に、男も頬を緩めた。
 見事に積もった雪を見て、目を輝かせたに違いないその瞬間を想像すると、自然と笑みが零れた。

「あ、今バカにしただろ」
「馬鹿になんて、しないさ」
「目が笑ってた」

 ふてくされたように唇を尖らせ、横目で睨む僚に頬を寄せる。軽いキスの代わりに。
 なんて愛しい子だろう

「馬鹿になんて、しないよ」

 触れた部分をそっと押さえると、僚は反対の頬を男に向けた。
 すぐに意図を汲み取って、男はもう片方にも同じように頬を寄せた。

「じゃあ許してやる」

 屈託なく笑う少年に、男も破顔した。

「もっと作るかい?」
「ううん、朝食べてからにする」

 懐炉代わりに何度も男の手を握りながら、僚は室内に入った。ガラス戸を閉める前に振り返り、テーブルの上に並んだたくさんの雪だるまにふふと笑う。

「後で、大きいの作ろう。鷹久っぽいの」

 マフラーをほどきながらそう言って目を輝かせる僚に、神取は己を指差し視線で尋ねた。
 そう、と僚は頷いた。

「なら、私は、君に似た雪だるまを作ろうかな」

 今度は、僚が自分を指差した。

「じゃあ、どっちが似せて作れるか競争な」
「いいとも。受けて立とう」

 少々芝居がかった男の口ぶりに、二人は声に出して笑った。
 朝食の後、二人は汗だくになりながらテラスの中央に二つの雪だるまを作り上げた。
 作り始めてすぐに、『手』の部分がない事に気付いた二人は、すぐさま裏にある公園に探しに出かけ、競って木の枝を拾い集めた。
 そして、お互いあまり特徴がなく似せて作れないのを言い訳しながらも、ようやく完成した雪だるまに、二人とも満足そうに笑顔を浮かべた。
 僚は、男がいつも身に付けている懐中時計の鎖を銀紙で作り、男は、同じく銀紙で僚の左耳のピアスをこしらえた。
 枝のついでに拾った緑の葉を目に見立て、最後に両手を作る。
 少し離れて眺めれば、どちらもそれなりにお互いに似て見えなくもない。

「引き分け、かな」
「だね」

 雪を含んだ冷たい風もものともせず、二人は晴れやかに笑った。
 僚は太陽を仰ぎ見た。
 男も同じように、空を見上げる。
 雪を含んだ空気の冷たさよりも、日差しの強さの方が勝っていた。

「今日のうちに、とけちゃうかな」

 何気ない僚の一言に、男は無意識に寂しそうな表情を浮かべた。

「でもまあ、頑張って作ったし、いいよな」

 空を見つめていた目を、僚へと移す。
 気付けばくよくよと悩んでしまう自分を、笑って励ましてくれるその大らかな性格に、心の中で感謝する。

「せっかくだから、写真を撮ろうか」

 男の提案にぱっと顔を輝かせ、僚は早速部屋へと向かった。
 しばし後ろ姿を見送り、雪だるまに目を向けると、男は穏やかに微笑んだ。
 ふたつの雪だるまが、ぎゅっと肩を寄せて並んでいた。

 

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