チクロ

クレヨン

 

 

 

 

 

 チャイムが一度、鳴った。
 待ち人の到着を告げる合図に、リビングのソファーでくつろいでいた神取鷹久は腰を上げた。
 合鍵を渡してあるのに、毎回律儀にチャイムを押し、応えがあるまでじっと待っている人物を迎えに玄関に向かう。
 ドアを開け真っ先に目に飛び込んだ心地好い笑みに、自然と頬が緩んだ。

「待っていたよ」

 招き入れながら、片方の手を頬に添え顔を近付ける。
 余りにも自然な動きに感心したように笑いながら、桜井僚は唇を重ねた。
 薄く柔らかい感触に胸が高鳴る。
 ふと過ぎる、他愛ない疑問。
 何回こうしてキスをしただろう。
 なのにいつも、震えるような興奮に見舞われる。
 何故だろう。
 ゆっくりと離れていく男の顔を追いながら、そんな事をぼんやりと考える。

「どうか、したかい?」

 不思議そうな顔の僚に、微笑みながら男は訊いた。
 僚は小さく息を飲み込んで別にと答える。用意されたスリッパを履き、男の脇をすり抜け先に立ってリビングへと向かった。気を付けて口を噤んでいないと、だらしなく笑い出してしまいそうだ。男の顔を見て、嬉しくなったから。
 二面に窓のある、明るく開放的な広いリビングの真ん中に立ち、大きく伸びをする。両腕を思い切り真上に突き上げ、脱力と共に下ろした直後、背後から手が伸び頬に触れてきた。
 僚は即座に自分の手を重ねた。

「あったかい」
「冷たいね。今日もまだまだ、寒いね」
「ほんと、夜には雪降るかもだって」

 今はこんなに良い天気なのにと窓の外を見やる。
 じんわり沁み込んでくるぬくもりにもう一度温かいとほっと息を吐く。

「今、あたたかいものを用意するよ」

 ソファーで待っておいでと男が軽く手を伸べる。
 離れてしまった手とぬくもりを残念そうに見送りながら、僚はソファーの傍にショルダーバッグを置いた。座る前に、室内をぐるりと見回す。いつ訪れても、相変わらず綺麗だなと見渡す。
 それでも、初めて見た時よりは色々と物が増えている。
 窓際のベンジャミンは、冗談交じりに言ったものを男が真面目にとらえて買ったもので、テレビの正面にある揺り椅子も似たようなものだ。そうと思ったらすぐに購入するある種の思い切りの良さに、呆れる事もしばしばあった。
 単なる飾りでしかなかったキッチンの棚も、今はそれらしく食器が揃っている。もっとも、使うのは自分が来る週末くらいで、残りの日数は手を触れる事もないだろうが。
 僚はソファーではなく、揺り椅子に身体を預けた。軽く蹴って、自然な揺れに身を任せる。思いの他心地良かった。肘かけの高さも角度も絶妙で、つい笑みが零れる。

「いい気分だろう」

 にやけて天井を眺めていると、カップを手に男が戻ってきた。

「ありがと。うん、最高だなこれ」
「休憩のうたた寝にはもってこいだ」
「わかる。この背もたれの角度とか、本当に丁度いいな」

 しっくりと身体に馴染む曲線に吸い込まれそうだ。僚はソファーに移った。
 好みを知り尽くした男から、コーヒーが振る舞われる。
 ありがとうと受け取り、僚はひと口啜った。喉を滑り落ちていく温かさ甘さが、本当に心地良い。ひと口ずつ甘さとあたたかさを味わい、小さなため息と共にカップを置く。隣では男が、同じように白い湯気を揺らしながらコーヒーを楽しんでいる。
 二人の時間を味わっている。
 心地良さに、もう一度ため息をつく。

「今日はね、ちょっと面白い物持ってきたんだ」

 傍のバッグを引き寄せ、僚は中を探った。

「なんだい?」
「これ。なんだかわかる?」

 差し出されたのは、青く平たい紙の箱だ。何が入っているかは、箱の表面に印刷されたメーカーと思しき文字を読み取るまでもなく、形状からすぐに察せられた。
 渡されるまま手に持ち、男は一旦僚を見やった。開けてもいいかと目配せする。
 どこかうきうきとした顔で頷く僚に笑い返し、箱の蓋を持ち上げる。
 思った通り、中にはクレヨンがずらりと並んでいた。まっさらな新品ではなく、どの色も少しすり減っていた。特に黒は、明らかに他より短い。
 僚は説明した。
 これは少し前、いつも行くスーパーの隣の雑貨店で偶然見つけたもので、雑貨店には他の用事で行ったのだが、目にした途端猛烈に懐かしさが込み上げ、衝動買いしてしまったのだそうだ。

「鷹久はやった事ある? 画用紙を色んな色で塗りつぶしてさ、その上を黒で覆った後に、尖ったもので引っかいて絵を描く…ってやつ」

 遠い記憶だが、思い出せないほど昔でもない。男は思い返しながら頷いた。

「最初にこれ見た時は、ああクレヨンだなくらいしか思わなかったんだけど、その後ふっとそれ思い出して、そうしたらもう無性にそれがやりたくなってさ」

 本来の目的そっちのけで買ってしまった。
 クラスメイトに、美術部に所属している女子生徒がいる。彼女は、一年の時に絵画コンクールで金賞を取ったほどの才能の持ち主だ。
 そんな彼女からいくらかのアドバイスをもらい、昔の記憶をたどりながら、スクラッチ画を描いた。

「それ持ってくるので、ちょっと荷物多くなった」

 なるほどと頷く。続けて男は、ちょっと気になっていたのだが、と切り出した。

「このクレヨン、原料はなんだい?」

 一本を摘まんで鼻先に近付け、軽く匂いをかぐ。
 僚は嬉しげに頬を緩めた。

「やっぱりわかる? これ、蜂蜜から作られた蜜蝋クレヨンていうんだよ。良い匂いするだろ」
「確かに。正直に言わせてもらうが、つい食べたくなってしまう良い匂いだね」

 そうだろ、と笑い、スケッチブックを取り出す。
 売り場には普通の、よく見かけるメーカーのクレヨンの他に、この蜜蝋クレヨンも並んでいた。ふわりと鼻先をかすめた独特の匂いがどうにも心をくすぐり、値段が何倍も違うのも構わず買い求めた。会計前から後悔しきりだったが、買ったぞ、という満足感も充分にあった。
 蜜蝋クレヨンというものに少し興奮があった。

「だから一枚目は、蜂の絵にした」

 図鑑とか調べて、これでもミツバチのつもり。
 黒い背景に浮かび上がる、優しい虹色の蜂の絵。男はじっくりと眺めた。蜂は六枚の花弁の花に縁にとまり、羽を休めていた。

「図画工作とか久々だし練習だからちょっとヘンだけど、まあ……中々いいだろ」

 自分でもちらとスケッチブックを見やり、僚は照れた様子で肩を竦めた。

「いやいや、素晴らしいよ」

 リアルには寄らず、といってべったりメルヘンチックでもない。程良くデフォルメされた蜂の顔はユーモラスで優しく、先日の年賀状の牛が思い出された。

「君の描く顔はほのぼのとしていてとてもいいよ。好きだな」
「ほんと、ありがと」

 素直な感想を伸べると、僚ははにかみながら喜んだ。その顔がまた格別だった。

「そんで本命描く前に、この前の牛もやってみたんだ」

 次のページをめくる。
 男は目を瞬いた。
 年賀状で貰った牛の絵が、画用紙一杯に描かれていた。線を引くのと、削り取るのとでは勝手が違うだろうが、それでも彼の絵の特徴はよく表れていた。やはり顔が優しい。
 そしてやはり、牛の模様の一つはチェロになっていた。

「これ、すごく楽しいんだけどさ、手は真っ黒になるわ疲れるわで、結構大変だったよ」

 やってる間は夢中なんだ。気がつくと息まで止めててさ。
 そしてふとした瞬間に我に返り、何度も息継ぎをしたという。

「君らしいね」
「あ、バカにしたな」
「しないさ。とんでもない」
「いや、今のは絶対バカにした顔だ」

 そう言ってやや大げさに唇を曲げ、僚はぶつぶつと零した。そんなおどけた表情さえ、男には愛くるしく感じられた。

「ところで、本命というのはなんだい?」
「あ、ごまかしたな」
「おっと、ばれたか」

 男は調子を合わせ、ばつの悪い顔をする。かみ合う呼吸に僚が笑う。
 二人は声を揃えて笑った。

「本命はもちろん、鷹久だよ」

 男は心持ち目を見開いた。そうであってほしい、そうだろうな、それ以外ないと過ぎった末の的中はそれでもやはり嬉しいもので、今にもだらしなく緩んでしまいそうな頬を、一生懸命引き締める。
 僚は一旦抱え込むようにしてスケッチブックを閉じ、にやにやしながらぱっと開いた。

「出来た、傑作。すごいだろ!」

 そう言って男に向けた画用紙には、スクラッチ画ではなく、幼児が描いたのと変わらない稚拙な――逆にいえば稚拙に見えるよう苦労して描かれた絵が一杯に広がっていた。
 まず中央には、殴り書きにも等しい大の字の男。右手の黒い一本棒が乗馬鞭だとしたら、右手の赤い棒は蝋燭なのだろう。大きな口を開けて笑い、ご丁寧に台詞まで書いてある。

 ――うはは、お仕置きだー

 読んだ途端、男の顔がみるみる苦笑に変わっていく。
 画用紙には更に、バイオリンにも見えるチェロとピアノ、携帯電話、いくつかの銀色のわっか、枷と思しき赤いもの等など…男がいつも使う道具の数々が画面狭しと散りばめられていた。
 そして、それらの合間を縫っていくつも飛び交う『うははー』の文字。
 なんとか最後まで見終わった頃には、男の頬はすっかり強張っていた。

「そっくりだろ?」

 やや興奮気味の僚に、返す言葉もなかった。
 こうして改めて見せられると、もう二度と出来ないと思えるくらいのショックに見舞われる事を、今初めて知った。
 顔を片手で隠し、苦笑いのまま頷くしかない。

「俺のあまりの天才ぶりに、言葉も出ないだろ。まあほら、コーヒーでも飲んで落ち着いて」

 僚はカップを差し出した。
 男は受け取り乾杯に完敗をかけてカップを掲げ、ひと口啜った。
 僚の得意げな顔が小憎らしくも愛らしい。

「まったく、君には敵わないな」
「そりゃそうだよ。だって鷹久が見込んだ奴だからな」

 その通りだと笑い、男は抱き寄せた。
 僚はしばし肩を揺すって笑った。
 それから、少し低めの声で云う。

「ちゃんとしたのも……描いてきたよ」

 僚はついたてのようにスケッチブックを縦にし、ページをめくった。まだ、男には絵が見えない。
 男は一気に鼓動が速まるのを感じた。

「中々思うように出来なくてさ、その中でこれが一番、まあ、見られるかな」

 唇をへの字に引き結び、僚は差し出した。
 僚の緊張が伝播したかのようにかしこまり、男は手を差し伸べた。
 作品は再びスクラッチ画だった。
 受け取った画用紙、肩の辺りまで書かれた似顔絵に、言葉を失う。
 黒の部分を影に見立て、立体的な絵を目指して作成したのは、一目瞭然だった。
 輪郭の線はより太く削り、目と口元が特に強調されていた。細かな作業に苦労した跡が伺える影の工夫に目を細める。
 彼の目に自分はこんな風に映っているのかと思うと、恥ずかしいような、どこか落ち着かない不思議な気持ちになった。
 正直、これは自分ではないようにさえ思えた。そうだ、これは自分ではない。
 僚に出逢った事で以前の自分がどれほど冷たい人間であったか理解出来るほど変わったと自覚しているが、それにしたってこれはあまりにもかけ離れている。
 自分の事は自分が一番知っている。
 こんな風に微笑んだ事は、一度もない。
 けれど僚には、こういう風に見えているのだ。
 それは、自分が思っているよりもずっと優しくて暖かい。
 むず痒くなるような絵になんとかして自分をこじつけようと、男は躍起になった。

「この前旅行した時さ、鷹久、俺の事励ましてくれただろ。その時の顔がすごく印象に残ってて、どうしても再現したくて頑張ったんだけど……全然違うな。ごめんな」

 申し訳なさそうな声に「いや…」としか返せないのがなんとももどかしい。

「本当はもっと優しい感じにしたかったんだ、でもなんか変に力が入ってうまくいかなかった。ほんとごめん」

 そう僚は言うが、彼が捕らえる眼差しや口元の笑みに、それらは充分に表現されていた。

「……そんな事はないよ」

 不覚にも、涙が滲んだ。

「私は……こんな顔をしていたかい?」
「ううん。本当はもっとずっと優しかったよ」

 僚は不満げに唇を曲げた。これは男の良さを少ししか表していない。これでは充分に伝えられない。

「ずっとさ、こことか、ここに……」

 僚は頭や胸の辺りを手のひらで押さえた。

「もやもやしてたものが、あの時の言葉で綺麗に晴れたんだ」

 自分は最低な人間で、そんな奴がやる気を出したところでたかが知れてる、何も成せやしない、する資格がない。思うだけでもおこがましいのだ。そんな風にわだかまっていたものが、綺麗に溶けて流れていった。
 少しくらい…いや大いに、胸を張って目指していいのだ。
 こんな自分の為に精一杯励ましてくれた男の顔は、心にくっきり刻み込まれた。

「ちゃんと記憶に残ってるから。受け取ったからさ、この絵はこれで……その、勘弁て事で」

 そう言って僚はやけ気味に笑った。
 男は大きく首を振った。

「ありがとう。本当に、嬉しく思う」
「俺こそ、嬉しかった。絶対応えるから、絶対に」
「ああ、君はそれが出来る。それだけの力を持っている」
「……ありがと」

 僚は小さく呟いた。
 たまらずに男は衝動のまま抱き寄せた。
 そこで唐突に理解する。
 僚こそが、優しい気持ちを持っているから、その目に、全てがそう映るのだと。
 嗚呼、そうだ。
 創作物は作り手の心を映す鑑なのだ。
 ほのぼのとした優しい顔付きは、彼の心の表れなのだ。
 男はもう一度静かに、ありがとうと告げた。
 彼と出逢えた事に心から感謝する。

 

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