チクロ

甘酒

 

 

 

 

 

 風もなく、陽射しも穏やかな休日の午後。
 見事に咲きそろった紅白の梅の花を眺めながら、二人は寄り添いゆっくりと歩いていた。
 片方は、黒のロングコートが似合う長身の男…神取鷹久。少し眩しい陽射しに目を細め、頭上の梅を愛でながら、ゆったりと隣の少女をエスコートしている。
 隣にいるのは、肩まで届くまっすぐでつややかな黒髪に、こげ茶の帽子を品良く被り、深みのある赤のロングコートに白いマフラーを合わせた、女性にしてはやや背の高い少女――いや、少年…桜井僚。余裕のある男に対して少々必死、優雅に腕を組むのではなく、捕まりしがみ付くようにして組み合わせ、それでも表面上は懸命に余裕のある振る舞いで、ぴったりと男に寄り添っていた。
 帽子を覗くと、装いによく似合った控えめな化粧が見て取れた。
 口を閉じ、品良く微笑んでいれば、誰にも正体を見破られる事はないだろう。
 腕を組んで男と歩いても、不自然さはない。
 背の高さ故時折目を引くが、僚は微笑を崩さず背を伸ばし、一生懸命自分に言い聞かせながら…自分は今『女性』と背筋を正して、男と一緒に咲き誇る梅の花を楽しんでいた。
 普段の自分と程遠い楚々とした振る舞いと、コートに合わせて履いた踵のある靴のせいであちこち少々くたびれていたが、心は軽やかに弾んでいた。

「大丈夫かい」

 歩みを気遣って、男が尋ねる。僚は澄まし顔のまま平気と返した。

「済まんな、雅巳の奴が……」

 あれはとにかく遊ぶのが好きなんだ。イタズラ坊主のまま成長したようなものだ。

「ううん、むしろ感謝してる。結構楽しいし、やっぱり嬉しい」

 僚は組んだ腕をぎゅっと握り、微笑んだ。
 男も笑うが、いささか複雑だった。

 

 

 

 梅を見に行こうと言い出したのは、男の方だった。
 先週の土曜日、体調を崩し、映画を見に行く約束を守れなかったお詫びにと、翌日曜日にドライブに誘われ、楽しいランチの帰り道、車中で切り出された。

 

 

 

「うめ? うめって、花の梅の事?」

 正面に注意を向けたまま、男は軽く頷いた。

「今度の週末が、ちょうど見頃なのだそうだ。興味がないなら無理にとはいわないが、たまにはどうかと思ってね」
「梅、かあ」

 僚は軽く唸った。果物は何でも好きだ。とろけるように甘いもの、程良く酸味がきいたもの、様々な美味さで幸せな気持ちにさせてくれる。
 梅の実は身近な果物ではあるが、生のままは毒性が強い為、丸かじりなどもってのほか。もいでそのまま口に放り込む気軽さがなく、そんな理由からあまり好きになれずにいた。
 まったく興味がない…とまではいかないが、男の言う通りだ。興味がわかない。今頃の時期がちょうど見頃だというのは何となく頭にあるが、言われてもそうなのかと頷くばかりだった。
 だが、男が見に行きたいと言うのなら、自分も見てみたいと思った。男が興味のあるものに、自分も興味を持ってみよう。
 動機は単純だった。
 沈黙に、仕方ないなと笑う男に、行ってみたいと答える。
 男は少し驚いた顔をした。
 十代の子に、梅の花を見るだけは退屈だろう。けれどひょっとしたら、と尋ねてみた。案の定、彼は渋い顔をした。当然と言えば当然だ。自分もごく最近まで、花を愛でる趣味はなかった。春の桜に風情を感じる事はあるが、積極的に季節の花を追うという事はしてこなかった。昨日の夜何気なく見たテレビで、偶然画面に映った五部咲きの梅を見て、突然思い付いたのだから。ごく最近どころか、その時までほとんどまったく興味はなかったのだ。
 数秒画面に映った梅の花を見て、彼と二人で見に行ったらきっと楽しいだろうな。
 動機は単純だ。
 そんなところが二人は良く似ていた。

「でも、鷹久がそんな、梅とか見る人なんて知らなかったな」

 僚はあらためて、男の育ちの良さを実感した。
 そしてそれとは別のところで、男の興味あるものに興味を向ける自分が、無性に嬉しかった。楽しくもあった。
 僚の尊敬の声に、男は曖昧に応えた。単純な動機からですなどとは言えない。笑ってごまかす。

「で、どこ、行くんだ?」

 さっきまでの渋い唸り声はどこへやら。僚はわくわくした気持ちで男に尋ねた。

「ああ、私のマンションから車で十分ほどのところにある、市民公園の中だ。土日には、ちょっとした催し物や屋台も出るそうだ」
「屋台、へえ。お祭りみたいだな」

 わくわくした気持ちが更に強まる。

「梅祭りだからね。僚には、そっちの方が楽しみかな」
「え、いや、梅も見たいよ。梅が見たい」

 僚は慌てて言いつくろった。正直さと心遣いに、男が微笑む。

「実を言うとね、私も、そっちの方が楽しみなんだ」
「え?」

 耳を疑う。男の生い立ちや親の事を考えると、驚かずにはいられなかった。とても想像出来ない。

「じゃあ、縁日とか神社のお祭りとか、好きなんだ?」

 半信半疑で尋ねてみる。

「ああ、大好きだったよ。今でもそういうのを見ると、無性にわくわくした気持ちになる」

 ちらりと僚を見やり、それはそれは嬉しそうに男は答えた。

「へえー、意外」
「僚は、そういう事はないかい?」
「俺はほら、やや不幸な生い立ちじゃん? だから、そういうのあんまり覚えてないんだよね」

 卑屈でも、ひけらかすでもなく、僚はそう言って軽く肩を竦めてみせた。
 親に連れられて、縁日に行った事。おぼろげには残っているが、それが実父とだったか義父とだったかまでは、思い出せない。恐らく、自分で記憶を奥の方へ追いやってしまったのだろう。
 けれど、あまり寂しいとは思わなかった。まるでないといえば嘘になるが、以前と比べれば随分と心は軽くなっていた。
 もう、わだかまりはほとんど残っていないのだろう。
 以前、チェロを前に悪戦苦闘した時から比べると、見違えるほど穏やかな表情をしていた。僚自身、何故あの時あんなに荒んだ気持ちになっていたのかわからないくらいだった。
 今、自分がこうして楽な気持ちで実父の事を口に出来るのは、すべて男のお陰である。

「じゃあ、これから、一生覚えていられるくらいのすごい思い出を作ろう」

 しばし考えてから、神取はそう言った。

「ああ、うん」

 僚は嬉しそうに目を見開き頷いた。

 

 

 

 その話をどこから聞き付けたのか、恐ろしいほど地獄耳の悪友がやってきて、とんでもない事を言い出した。
 まず彼は、二人の外出をほんの軽く羨ましがった。

『いいね、この頃陽気もいいし、梅の花見なんてシャレてるじゃん』

 いいね、行っておいでよ、と肯定した。がすぐに、自分の一人身を零し始めた。
 いい加減をするからだ、自業自得だと男が返すが、彼は聞く耳持たず続けた。

『あーあ、いいよな。二人でデート、上等じゃないの。いってらっしゃいよ』

 それに比べて俺は…ぶつぶつと零す彼から僚をかばい、男は、気にしなくていいと手を振った。

『梅の花見、最高だよねえ。二人で腕なんか組んじゃってさ、梅の花いい匂い、綺麗だね、君の方が綺麗だよ…とかなんとか、するんだろうなあ』

 一人二役を大げさに演じる彼のいつものノリに、男は額を押さえ盛大なため息を吐いた。

『あ、僚くん今、そんな事したいなあとか思ったでしょ。でも男二人じゃムリだよなあって思ったでしょ!』

 一歩二歩と詰め寄られ、ほんの少しとはいえ頭を過ぎったものを見透かされ、僚は返事に窮した。
 男は再び僚をかばって遮った。

『まあまあ鷹久、お前だってやってみたいだろ、仲良く腕組んで二人でデート…どうよ』

 どうにもならんと即座に切り捨てるが、彼は食い下がった。二枚の写真を取り出し、どちらがお好みと聞いてきた。
 何の脈絡もない質問に一瞬面食らうが、とりあえず応じる。
 僚も目を向けた。
 片方は派手な金髪、派手なメイクの女性。わざと髪をくしゃくしゃと遊ばせて、ピースサインを頬に押し当て映っている。クラスメイトが即座に思い浮かんだ。彼女も、よくこんなポーズで撮っていた。
 もう一枚は見るからにお嬢様。つややかな長い黒髪一つとっても、普段どれだけきちんとした生活を送っているかが伺えた。しゃんと背筋を伸ばし、上品に微笑んで映っている。
 ぞんざいながら、男は黒髪の女性を指差した。彼は僚にも聞いていた。好み、どちらを選ぶといわれれば、やはり黒髪の方だろう。しかしクラスメイトは、身なりも言動も派手でいい加減なところがあるが、根はいい奴だ。心の中で小さく謝る。
 それで、これがどう関係があると言うだろうか。さっぱり意図が掴めなかった。
 彼は種明かしをした。これは同一人物、とまで聞いて、そう言われれば目鼻立ちが一緒だな、と納得する。
 この顔立ち、どこかで――僚は写真から当人へと顔を向けた。
 まさか、と男も半信半疑の声をもらす。

『さすが鋭いお二人さん、もう正解にたどり着くとは』

 心底嬉しそうに言って、彼は写真をそれぞれの手に持つと、それで顔を挿むようにして掲げ、言った。

『そう、俺なのです!』

 唖然とする僚の横で、男が大きく息を吐く。こいつめはずっと昔からイタズラ坊主だったが、今も全く変わりないとは。いや、それよりも更に悪い方へ進化している。渋い顔で首を振った。

『いやあこれ、結構楽しかったよ。試してみて正解だったわ』

 面白そうと思った事には、何でもチャレンジしたい性質でさ。彼は両手を伸ばして写真を眺め、我ながら惚れぼれするわあ、と笑った。

『で、そろそろ俺の言いたい事、分かったかな?』

 やっと、繋がった。嫌でもわかった。
 男も同じで、少し驚いた顔で僚を見やった。
 僚も、自分を指差し、彼に目で問いかけた。
 彼は満面の笑みで頷きながら、どうする、と聞いた。
 僚は、男を見やった。その時にはもう、心は決まっていた。

『ようし、任せな鷹久。お前好みの、世界一の美女にしてみせるよ』

 そして、好きなだけ腕組んで歩くといい。勝ち誇ったように彼は言った。

 

 

 

 当日、出発一時間前に、三人は男のマンションに集まった。
 出来上がるまでのお楽しみと部屋を追い出された男は、悪友と僚を同じ部屋で長時間過ごさせる苛立ちをそうと気付かず、悶々と過ごした。
 室内がやけに静かなのも、やたら癇に障った。もちろん、悪友に対する信頼はしっかりある。しかしそれとこれとは話が別だ。
 やがて、部屋の扉が開いた。
 悪友に続いて出てきた黒髪の少女を見て、男は完全に言葉を失った。
 髪型から服装から、どこにも僚の面影がない。
 呆然とする男に笑いかけ、男の視線の先にある隣の僚を満足げに見て、悪友は言った。

「このワンピースが、またいいでしょ、最高にお嬢様っしょ」

 初心者なので、あまりごてごて着せると動きがもつれるし始末も悪い、色々気になって動きも不自然になるから、一枚でさっと着られるワンピースにしました。

「丈もお嬢様らしく、ひざ丈で。冬物で生地が厚いから、胸がなくてもそうおかしくないっしょ。ウエストも適度にしぼってあるからラインも綺麗。いいっしょ。お化粧も控えめに上品に。でもまだ不十分。男の顔って眉とか頬骨とか結構ごつごつしてて、特徴あるだろ。服を着ても化粧をしても、これでわかっちゃう。で、それを隠すのにもってこいなのが、このウイッグってわけ。顔を隠しつつ、オンナの子らしさを出しつつ。そしてこの出来です。どうよ」

 男は半ば無意識に首を振った。悪友がこっそり窓から誰か別人を連れ込んだのではないか、そんな馬鹿げた考えが頭を過ぎった。
 しかし見れば、眼差しの強さは僚そのものだった。こちらに歩いて来るまでのほんの数歩でも、見分ける事が出来た。
 男はほっとした。
 両手を軽く広げ、僚は聞いてきた。

「なあ、どう? 色っぽい?」

 男はますます安心した。大笑いしたいほどに。
 どんなに着飾っても化粧で変身しても、僚は僚である事に、笑いたくなる。

「なあ、どうよ」

 ほら、僚は頭と腰に手をあて、わざとらしく腰をくねくねと動かした。
 完全に男の子の仕草だった。女性のしなやかさには程遠い。
 とうとう我慢しきれなくなり、男は声に出して笑った。

「僚くん、それ反則」

 悪友も腹を抱えて笑った。
 僚はしてやったりと満面の笑みを浮かべ、すぐにさっとお澄まし顔になった。両手を身体の前で合わせ、足も揃え、まっすぐに立つ。
 お手本はクラスメイトだ。帰国子女で、喋り方に非常に特徴がある女子。上手く真似ているか自信はないが、一生懸命頭に思い浮かべ、彼女をなぞる。
 悪友は、以前男が買った深紅のコートを僚に着せた。
 こちらもまた、ややウエストがしまり、綺麗なシルエットだ。

「うわあ僚君カッコいい、綺麗、美しいわ。よく似合ってるよホントに。うーん、我ながら完璧だ。鷹久もそう思うだろ」

 悔しいがその通りだった。まさに完璧だった。

「よし、じゃあ僚くん、鷹久の右側に立って。ほら鷹久、エスコート」

 悪友の掛け声で、男は利き腕をすっと差し出した。
 一瞬戸惑い、すぐに理解し、僚は自然に動くままに腕を組んだ。

「いいねいいね。靴と帽子で完成だよ。玄関にあるから、忘れないようにね。化粧の落とし方はさっき言った通りだけど、わからなかったら気軽に電話して。手取り足とり教えたげるから」

 ごく自然に顔を見合わせ、くすぐったそうに笑う二人に、悪友はふんと鼻を鳴らす。

「あとは二人でお好きにどうぞ」

 俺は馬に蹴られない内に帰る、思う存分いちゃいちゃしてこいよ。
 礼を言う暇もなく、悪友は帰っていった。
 急に静かになった部屋の中、男はじっくりと僚の姿を眺めた。
 パートナーに女装させる趣味はないが、僚だけは特別になってしまいそうだ。女物でも無理なく着られるほっそりとした体型に、妙な色気を覚える。
 女性にしては少々背の高い部類に入るだろうが、違和感はない。
 なぜだか、無性にはしゃいだ気持ちになる。

「これなら、鷹久と腕組んで歩いても、全然おかしくないよな」

 僚は自信たっぷりに言った。それが目的で、彼の女装の提案に乗ったのだ。この状態を維持していれば、恐らく誰も気付かないだろう。恐らくは。
 男は黙って頷いた。妙な色気のせいか、妙な興奮を覚える。

「よし、じゃあ行こう」

 慌てて頭から振り払い、車のキーを手にする。

 

 

 

 実際に人前に出るまでは少々緊張したが、堂々としていれば分かる事はないだろうと、公園に足を踏み入れた。そもそも、ここにいる人達はみな梅が目当てで来ているのだから、辺りに少々奇異な人間がいても気付く事はまずないはずだ。
 それでも始めは不安だった。何度も人とすれ違う内、薄れていった。僚はすっくと背を伸ばし、男に腕を絡めて寄り添い歩いた。

「梅の花って、こんな形してるんだ」

 素直な感想を口にし、僚は立ち並ぶ梅の木々をじっくりと眺めた。
 背伸びをし、ふんふんと鼻を鳴らすと、楚々とした、上品な匂いが優しく香る。
 もっと近くに寄ろうと足を踏み出した時、敷き詰められた玉砂利につまずき僚は素っ頓狂な声を上げた。
 すかさず男が腕を引く。お陰で転びはしなかったが、自分の上げた声が誰かに気付かれはしなかったかと、僚は恐る恐る辺りを見回した。
 どうやら、不審に思った者はいないようだ。ほっと胸を撫で下ろす。

「気を付けないとね」

 冷汗を拭いつつ男を見上げる。

「そうだね」

 少しずれた帽子をなおしてやり、神取は微笑んだ。
 再び歩き出す。
 緩やかな石段を登り、現れた白のみの梅の花に、僚は感嘆の声を上げた。
 まっすぐ伸びる散策路のずっと向こうまで、白梅が続いている。

「すごーい……」

 素直に感動する。

「ああ。まさに圧巻だね」

 二人はその場に立ち尽くし、しばし見とれていた。

「あ、屋台」

 と、遠くの方に並ぶいくつもの屋台を見つけ、僚ははしゃいだ声を上げた。
 顔を見合わせ、神取も嬉しそうに言った。

「少し小腹が空いた頃だ。ちょうどいい。まず、何から食べようか」
「行ってみてからな」

 弾む足取りで二人は歩き出した。
 近付くにつれ、それぞれの屋台から流れてくるいろんな匂いが二人を誘惑する。梅の香りを押しやって漂ってくるそれらは少々無粋な気もしたが、誘惑には勝てなかった。
 傍のベンチでは、そうした誘惑に負けた人々が美味そうに焼きそばや綿菓子を頬張っている。
 知らず内に緩んだ頬で、僚はどこに行こうかとあちこち見回した。
 そこで男は足を止め、僚に向き直った。

「僚、ちょっと練習してみようか」
「え、なにをだ?」
「すみません、二つ下さい、と言ってごらん」

 復唱しようとして、僚は男の言わんとする意図をくみ取った。そして改めて口を開くが、女性を真似た声を出そうと意識すればするほど、声は出なくなってしまった。
 唇をひん曲げ、僚は困り果てた顔で男を見上げた。
 男は軽く笑った。

「私が行ってくるから、僚はそこのベンチで休んでいるといい。慣れない靴で疲れたろう」
「でも……」
「腹ペコの君の為に、端から端まで、一つずつ頼んでくるよ」
「おれ――私、そんなに大食いじゃありませんわよ」

 わざとからかってくる男に合わせて笑い、僚は唇を尖らせた。そして焼きそばとタコ焼きをリクエストする。

「お金、あとで」
「ああ、いいよ」

 男の返事にわずかに顔をしかめる。いいと言ったのは了承か、それとも奢りのつもりの言葉か。受け取らなくても、無理にでも渡してやると後ろ姿に心の中で言い放つ。
 屋台の方へ向かってゆく背中をしばし見送り、僚は近くの空いているベンチに腰掛けた。
 程なく戻ってきた男の手には、頼んだ二つの他に、赤いケチャップが美味そうなフランクフルトが二本と、ベビーカステラの紙袋が一つ乗っていた。
 その顔はとても楽しげだ。先日、ワクワクすると言っていたのが思い出される。引っ張られ、僚も心が浮き立つのを感じた。

「ありがとう」
「まずどちらから?」

 僚は焼きそばに手を伸ばした。すると男はハンカチを取り出すと、さりげなく膝にかけてきた。

「……ありがとう」

 女性を模した格好をしているからか、男からの細やかな気遣いに殊更胸が高鳴った。
 僚は顔を見合わせ、いただきますと口に運んだ。
 傍では、男がフランクフルトを頬張っている。

「鷹久とフランクフルト、何かヘン」
「そうかな。中々美味いよ」

 込み上げてくる可笑しさに僚は肩を揺すった。その一方で、立ったまま行儀悪く無造作にかぶりついているのに、様になる美しい所作に目が奪われる。僚は咳込んで、心持ち背を伸ばした。脇を寄せて箸使いにも気を配り、小さな口で食べる。

「うん、より、女性らしく見えるよ」
「……これ、大丈夫か?」

 気になって仕方ないと、僚は小声で唸るように聞いた。

「ああ。まるでおかしなところはないよ。何よりみんな、食べるのに夢中だ。君のように」

 つい今し方、気にせず大口を開けて頬張っていたのを揶揄され、僚はよりおちょぼ口になった。膝を揃え、まっすぐ背を伸ばし、しとやかさに気遣いながら焼きそばを味わう。
 口に運ぶまでは大分見られるようになったが、噛み締める時のダイナミックさはやはり男の子だ。
 それでも本人は一生懸命だ。
 周りに気付かれぬよう、必死になりきろうと努力しながらも、食欲には勝てない少年の姿に、神取は小さく肩を震わせた。
 フランクフルトを食べ終え、残った割り箸を傍の屑かごに放る。

「フランクフルト、二本いっぺんて、鷹久こそ大食いじゃん」
「一本は君の分だよ」

 そう言って白い器を、僚の目の高さまで下ろす。

「ずっと、食べたそうに見ていたろう?」
「え、そんなこと……」

 心を見透かされ、僚はむにゃむにゃと言い訳した。空腹で、何を見ても美味そうに見えてしまうのだ。
 男は頬を緩めた。

「いいよ、最初からそのつもりだったからね。その代わりといってはなんだが、そちらのタコ焼きを二つばかり、味見させてくれないか」
「うん、いいよ。半分こしよう」
「こちらも、半分ずつ食べよう」

 指に挟んで提げていたベビーカステラの袋を揺らし、神取はにっこり笑った。

「この、ほんのり甘いのが病み付きでね」

 すすめられ、僚は袋から一つ取り出した。まるごと口に放り込みそうになって、やり直し、一口齧る。
 噛み締めているとふわっと立ち上ってくる優しい甘さに、僚は頷いた。

「うま――美味しい、ね」

 慌てて言い直し、僚は頬を緩めた。
 そうだろうと、神取も嬉しげに笑った。
 間近の優しい笑顔に僚は小さくため息を吐いた。

「楽しいね」
「……ああ、本当に」

 屈託なく笑う少年に束の間目を奪われる。神取はしみじみと頷いた。
 ここらで何か温かい飲み物が欲しいところだ。ちょうど視線を向けた先に甘酒の文字が見つかる。
 一緒に行こうと誘って立ち上がる。

「でもあれ……酒だろ」

 やや警戒気味に僚が言う。

「酒粕で作られたものでなければ、心配ないよ。もし聞いてそうだったら、二人で瓶のジュースで乾杯しよう」

 車だからね。
 そう言うと僚はほっとした顔になった。
 男はにっこり笑いかけた。
 僚は、アルコールに弱い。以前泊まった夜に、酒の相手をひと口だけ付き合おうとして、舐めただけで真っ赤になってしまったのだ。すぐに水を飲ませて休ませたが、その後が少々大変だった。今度は自分が真っ赤になる番だった。
 目を覚ました途端、怒涛のごとく愛の告白をしてきたのだ。愛慕よりももっと強い深い、崇拝に似た感情をぶつけられた。
 嬉しさよりも、戸惑いが大きかった。彼がどんなに激しい子か、もう知ってはいた。だからこその『奴隷でもいいから』という発言なのだが、それでも、強烈でまっすぐな想いをぶつけられるとうろたえてしまう。
 今でこそ彼は少々ひねくれ者ぶって、軽やかに、冗談交じりに気持ちを伝えてくるが、あの頃はまだ打ち解けたばかりで、硬さやぎこちなさがあちこちにあった。それらを一つずつ取り払い、少しずつ、伺いながら距離を縮めていっていたので、面食らってしまった。激しく渦巻く感情の勢いについていくのが精一杯だった。むき出しの心を全力でぶつけられたせいで、引きずられ、気付けばお互い真っ赤な顔を突き合わせていた。
 お互い初めての恋愛で、ようやく成就して、嬉しさのあまりのぼせたような、そんな感覚に見舞われた。
 アルコールに酔って普段の制御が失われた彼は、このように大変…少々厄介である。
 僚自身は、それらを夢の中の出来事と思い込んでいた。自覚しているのは、自分は酒に弱く、その場ですぐに寝入って迷惑をかけてしまう…という事。
 だから、酒の文字にいささかの警戒を見せたのだ。
 だが、甘酒程度ならば問題はないだろう。
 二人はそう思った。
 しかしそれは甘い考えであった。じきに思い知る。
 アルコールは入っていませんよという言葉にそれぞれ安心し、二つ買い求めて元のベンチにまた並んで腰かける。

「いただきます」

 嬉しそうに目尻を下げ、僚はカップをふうふうと口元に持っていった。糀独特のふくらみのある匂いに、少し冷えた頬がほっと緩む。
 神取はゆっくりと甘酒を楽しんだ。
 僚はというと、やけどしそうに熱い甘酒をものともせず二口三口と啜り、男の紙コップが半分になる前に飲み終えてしまった。

「はぁ、うまかった」

 満足そうに肩を上下させ、僚はほっと白いため息をついた。

「もう飲んでしまったのか。余程気に入ったようだね」

 ふふっと笑う僚に、神取はおやと首を捻った。心なしか、頬が赤く染まって見えた。
 それが、甘酒に酔ったせいだと気付いたのは、自分の紙コップを奪われあっという間に飲み干された後だった。

「こら、僚」

 そんなまさか、という思いで一杯になる。
 確かにアルコールは含まれていなかった。
 しかし、僚は、アルコールに弱い。
 その事を自覚してもいる。
 つまり信じ難い事だが、彼は『甘酒』の文字の思い込みで、酔っ払ってしまったのだ。
 二つの紙コップを重ね、何がそんなに嬉しいのか僚はにこにこしながら男を見やった。
 さあ、困った。
 酔いが醒めるまでここにいるべきか、それとも今すぐ帰った方がいいか。いやまずは、今すぐそこの自動販売機で水を買い、彼の中の思い込みを薄めるべきだ。
 腰を上げかけた時、突然頬に何か冷たいものがぺたりと押し付けられた。
 驚いてそちらに目を向けると、間近に僚の唇があった。感心するほど見事な『キスマーク』の唇。
 確か、有名な外国人女優の映画の中に、こんな場面があったような…それとも、あれは宣伝ポスターだったか。

「………」

 自分の頬に視線を向け、神取は血の気の引く思いを味わった。
 突如僚は、ひどい、と声を上げた。

「なにこれ、鷹久ひどい。女の人と浮気するなんて!」

 泣き真似をしたかと思うと、一転、けらけらと笑い出す。

「……完全に酔っているね」

 嗚呼、失敗した…神取は肩を落とした。

「酔ってませーん」

 満面の笑みで僚は答えた。しかし、頬は赤いし目も潤んでいる。誰が見ても、酔っているのは明らかだ。そもそも、酔っ払いに限って酔ってないと言い張るのは、何故なのだろう。
 落ち着けと自分に言い聞かせるが、動悸は中々鎮まらない。以前の状況がどっかりと脳内に居座り、そのせいで、動揺から抜け出せない。
 唇が今にもくっつきそうなほど間近で熱心に見つめられ、ますます息が苦しくなる。
 裏腹に僚は、とても楽しそうににこにこと笑い、手の中の紙コップをくるくるともてあそんでいた。とりあえずそれを近くの屑かごに放り入れ、彼の酔いが醒めるまでここにいる事に決める。
 すると、ごく自然に僚が肩に寄りかかってきた。

「鷹久…浮気した……」

 くすくす笑いながら男の頬につけたキスマークを指で拭い取り、僚はさっきと同じ事を繰り返した。

「浮気なんて、しないよ」

 誠意を込めてそう答える。もちろん彼も本気で言っている訳ではない、お互いわかりきっている。それでも口にせずにはいられなかった。
 すると僚は、男の腕をぎゅっと抱きしめた。

「知ってるよ、鷹久は俺ひと筋だもんな」

 左耳のピアスを何度も弾いて遊ぶ。
 神取は心臓がきゅっと縮み上がるのを感じ取った。最近では中々味わう事のない初心な感覚。
 彼がそのように、間違いなく想いを受け取っていてくれるのは本当に有り難く、嬉しい事だが、いざ言葉で表現されるとしようもなく照れ臭い。頬が火照って仕方がない。

「でも俺の方が、ずーっと鷹久ひと筋だよ」

 湧き起こる感謝と歓喜。自分を、こんな気持ちにさせてくれる彼に、心から感謝する。

「だからずっとー、おれといて……」

 ごくごく小さなかすれた声であったが、彼の願いはくっきりと耳に残った。
 頬だけでなく全身が熱くなる。目の奥にじわりと涙が滲んだ。
 男は今にも零れ落ちそうなそれを瞬きでやり過ごし、返事をしようと顔を覗き込んだ。

「ごめん…眠い……」

 僚は呟いた。
 腕にしがみ付く力が弱まり、代わりに肩にかかる重みが幾分増す。
 身体を預け、安心しきった表情で眠る僚に、神取は微笑みかけた。

 

 

 

 ばんと扉が閉まる音に、僚ははっと意識を取り戻した。少し乾いてしょぼつく両目を瞬かせ、辺りの様子をうかがう。
 いつの間にか、車の助手席に座っていた。
 慌てて窓の外に目を遣ると、運転席側に回り込む男の姿が映った。

「鷹久……ごめん」

 扉を開けて運転席に滑り込む男に、僚はすぐさま謝った。

「起こしてしまったか」
「ごめん、俺……」

 屋台傍のベンチで甘酒を飲んで、気分が良くなって…そこから先の記憶がない。ああまたやらかしてしまったのだ、僚は閉じたがる瞼をどうにかこじ開け、男を見やった。

「気にする事はないさ。もう少し眠っていなさい。まだ少し、目が腫れている」

 僚の眦に優しく指を触れ、男は微笑んだ。

「うん、でも俺……」
「心配ない、ついたら起こしてあげるから、もう少しお休み」
「ありがと」

 言われるまま素直に目を閉じた。男の触れた箇所がじんわりとあたたかい。

「ごめん、あんまりゆっくりできなくて……」

 目を閉じると、途端に眠気が舞い戻ってきた。夢うつつの声で男に謝る。

「そうでもなかったよ。君と梅を見る事が出来て、良かった。楽しかったよ」
「ほんと?」
「ああ、本当だ」

 頭を撫でる優しい手と優しい言葉に、申し訳ない気持ちで一杯になる。けれどもう瞼が重くて、男の顔を見る事も出来ない。

「次は、甘酒…飲まないから…次も一緒に……」

 今にも途切れそうになる意識で、僚は精一杯気持ちを伝えた。

「ああ。来年も梅を見に来よう。たくさん、思い出を作ろう」

 言い終わる頃には、僚は静かな寝息を立てて眠っていた。微かに開いた唇にふっと微笑む。
 神取は後部座席に置いたティッシュを一枚引き出すと、眠っている僚を起こさないようそっと口紅を拭い取ってやった。
 ほんのりと朱い形の良い唇が、ようやく戻ってきた。

――ずっと俺といて

 彼の願いが、耳の奥で蘇る。

「もちろんだとも、僚……ずっと君の傍にいるよ」

 そっと誓い、唇を重ねる。



 ほんの少し、甘酒の匂いがした。

 

目次