チクロ
面白いもの
金曜日。 衣替えを迎え冬服に着替えた桜井僚は、すっかりなじみとなった校門の傍の車へと、少し急ぎ足で向かった。 後部座席のドアを開け待ち構える運転手の柏葉に笑顔で一礼し、車に乗り込む。 車はすぐに静かに走り出した。 「何か、嫌な事でもあったかい」 どことなく複雑な面持ちで正面を見据えている僚が気になり、神取鷹久は声をかける。 僚はすぐさま首を振り、何もない、来週から修学旅行だからちょっと浮かれてるんだ、と答えた。 そう言えばそんな時期だったと神取は、どこへ行くのか尋ねようとした。それより先に、僚は。 「……けど」 「行けないのかい?」 「ううん、そうじゃない」 問題は旅行の事ではなく、先週決めたチェロの『授業料』についてだった。 それが今、僚の顔を曇らせている原因だった。 神取はやや大げさに口を引き結んだ。 その件については先週話がついた、決着したはずなのに、まだ何か不満があるというのか。 「不満なんかない。すごく、感謝してる」 僚にしてみれば、破格の『授業料』だ。 先週、男に返事をした後の食事会の最中、彼はある提案をした。 チェロの『授業料』は、ティータイムで食べる菓子類を用意してほしい、と。 それも、安価で買える、よく見知った商品がいいと神取は指定した。たとえば、と具体的な商品名を二、三挙げる。どこのスーパーやコンビニエンスストアでも、気軽に買える商品だ。 それでは釣り合いが取れない、納得出来ないと僚は反論した。馬鹿にされているのかと、怒りと悲しみが込み上げてきた。 男は至って真面目に、真剣に説いてきた。 練習とはいえ、楽器の演奏というものはかなり体力がいる、教えるこちらも結構スタミナがいる、つまりカロリーを消耗する。一気にカラになってしまうわけだ。そんな疲労した身体を回復させるには、今挙げたようなチョコレート菓子、和菓子の類が最適なのだ。 それから少し恥ずかしそうに笑い、密かに好物なのだと告げてきた。 つまり舌べろが子供なんだよ。 マンションに向かう途中、寄ったスーパーで、僚は半信半疑、男の言う菓子の詰め合わせを二つばかり買った。高校生の自分でも苦もなく買えるもの。 上手く言いくるめられた気がしたが、真に納得がいったのは、チェロの練習後、ティータイムの席で、男が心から幸せそうに頬張るのを見た時だった。 「長い事海外に留学していたが、していたからか、あらためて、日本のこういった菓子は美味しいと思うんだ」 嬉しそうに語る顔は、正直可愛かった。見とれるほどに。年上の人間にそんな感想を抱くのは恐れ多い、僚は胸の内だけに留め、男の新たな魅力を噛み締めた。 その時の事を僚はあらためて感謝した。 「本当に、ありがとう」 「いや、こちらこそ。素直に白状するが、君が来ないと食べられないから、今日がとても待ち遠しかったよ」 待ちわびた人間に相応しい笑顔で、神取は言った。 僚はまた、男に見とれた。 |
「ところで君は、アパートの鍵などはどこに保管しているんだい?」 テーブルの中央に鎮座するパエリアと、周りを取り囲む楽しく彩られた皿の料理を楽しみながら、神取は尋ねた。 僚はすぐに財布を取り出し、ポケットのホルダーにしまっていると答えた。 「なるほど。もしよかったら、これを追加してくれないか」 神取は一本の鍵をテーブルに差し出した。 呼吸こそ忘れる事はなかったものの、僚は口を開け大きく息を啜った。 それからおずおずと鍵を手に取り、目の高さに持ち上げた。 彼はしばし何も言わなかった。じっくりと鍵を眺め、長い事眺め続け、やがて頬を緩めた。 絶対なくさないと誓い、僚は鍵をしまった。 頼むと神取は笑いかけた。 それからしばらく食事を進めたところで、僚は唐突に目を見開いた。 自分からも鍵を渡すべきだろうかとうろたえる彼に、心の整理がついてからでいいと神取は言った。 僚はすぐに心の整理を終えた。次までに作って持ってくると宣言する。 そして、これでひと安心、ゆっくり食事が出来る、とばかりに、笑顔でパエリアを頬張った。 可愛らしさに頬が緩んでしようがない。神取はそうだねと返し、じっくりと喜びを噛み締めた。 |
チェロの練習を済ませ、反省会を兼ねたティータイムに入る。 男にとってはお待ちかねのもの。 緑茶にひと口ようかんを添えて神取は用意した。 正直なところ、僚はこれの美味しさをまだよく理解出来ないでいた。 これは自分ではまず買い求めないもの。男の指示で買っただけだが、安心しきった顔で味わう男を見ていると、買って良かったと思うのだ。 そして、この時初めて、実は美味いものだとわかった。 男につられたのだろうか。真似て、緑茶と共に味わうと、しみじみと美味さが込み上げてきた。 僚はこっそり、男と同じタイミングで湯呑に手を伸ばし、ようかんを口に放り込んだ。 嬉しげに緑茶を啜る姿に見とれながら、同じように湯呑を傾ける。 見るほどにやっぱり可愛い…僚は無性におかしくなった。 その後神取はそれぞれ部屋を案内して回った。玄関からすぐのリビングで見渡せるキッチンと、男の寝室の他に、書斎として使っているもう一室。そこに僚を招き入れる。 僚はおずおずと足を踏み入れ、ぎこちなく首を巡らせた。 ベッドと、デスクと、左右の壁の書棚。 天井まで届く書棚に隙間なく収められている書籍は、どれもひと目ではタイトルが読み取れず、それでいてひと目で専門書とわかるものばかりだった。 男の遠さに圧倒される。 その時一角に、チェロの文字を見つけた。並ぶ一角は、ピアノに関する書籍。僚には、そこが光って見えた。かなりの距離がある男との共通点。思わず顔を近付ける。チェロに関するもの、音楽に関するもの、結構な数の書籍が並んでいた。 「どの本も、自由に読んで構わないよ」 元の位置に戻してくれればいいと一つ約束を取り付け、神取は許可した。僚は緩んだ頬を何とか引き締めながら礼を言った。 書斎専用とも取れるトイレやバスルームへも通し、仕事で遅くなった時はこちらで簡単に済ませて、ベッドに倒れ込む事もあるんだ、と神取は言った。 「最初は書斎にはベッドを入れてなかったんだが、ある時、仕事を済ませてそれから寝室に戻るのがどうにも億劫に感じてね。それで、とうとうここにもベッドを置いたというわけなんだ」 そんな物臭なところがあるが、勘弁してくれるかい…照れ臭そうに言われ、僚はすぐに了解した。 また、可愛いと思ってしまう。 リビングに戻り、ティータイムの続きに戻ったところで、神取は修学旅行について尋ねた。 僚の目が一瞬きらりと光るのを見て、浮かれているといった言葉が脳裏を過ぎった。 僚は意気揚々とある物を取り出した。彼が普段使っている斜めがけのバッグから出てきたのは、何とも懐かしい気持ちにさせてくれる、修学旅行のしおりだった。 差し出され、神取は手に取った。 懐かしさと、少々の気恥ずかしさとが心にどっと押し寄せる。どこかむず痒いものを遠く聞きながら、神取は小冊子を開いた。 僚も一緒になって覗き込み、日程や巡る場所を一つひとつ説明した。 帰る時間ぎりぎりになるまで、二人はお喋りに花を咲かせた。 |
予定していた時刻を一時間も遅れて始まった会議が終了したのは、午後八時を大分過ぎた頃だった。 やむを得ない事情で開始が遅れたとはいえ、これから支社に戻り今日中に片付けねばならない書類の山を思うと、神取鷹久は少々気分が重く…いや、ふてくされたような気持ちが込み上げてくるのを抑えられなかった。 恨めしそうな目で、もう一度壁の時計を見上げる。たとえひゃっぺん見たとしても変わらない時刻を、時計は正確に刻み続けていた。 仕方ないと肩を上下させる。 会議だ何だと慌しかった一週間も、明日で終わりだ。明日の日帰り出張を済ませれば、夜には彼に逢える。 神取はふと、会議が始まった時刻を思い出した。 午後四時。 確か、彼が修学旅行先の香港から戻ってくる予定時刻も、そのくらいの時間だったではなかったろうか。 月曜日の早朝日本を発ち、木曜日の夕刻帰国する。 彼が見せてくれたしおりを思い出す。 一緒になって覗き込み、行き先一つ一つに目を輝かせる様は、たまらなく愛くるしかった。 彼はしきりに、一緒に行けたらいいのにと繰り返した。ならば今度の旅行で楽しかったところをいつか二人で巡ろうと約束し、その時は案内役を頼むと任せると、喜び勇んでその役を引き受けた。 エレベーターに乗り込み、駐車場に向かう間、神取は先週彼とした一連の会話を思い返していた。 |
「そうだ、お土産、何がいい?」 覗き込んでいた小冊子からぱっと顔を上げ、僚は張り切って尋ねてきた。 さて、香港の名物で何が欲しいだろうか…あれこれ思い浮かべたところで、不意に過ぎるものがあった。 告げると、途端に僚は少し困ったような顔になった。 「面白いもの……?」 唸り声が続く。せめて、食べ物や服、酒、そういった指定はないのかと僚は言ってきた。 特にはない。何だって嬉しい。彼が選んでくれたというだけで、どんな些細なものでも小躍りする自信がある。 僚は唸り声を大きくした。 「面白ければ、なんでもいいか?」 やがて、半ばやけになった様子で僚は念を押した。 大きく頷く。それよりも、彼が怪我も病気もなく無事に帰ってくる方が、ずっと重要だ。 「親とおんなじ事言ってる」 僚は小さく笑った。 大事な人を心配する気持ちは、同じなのだろう。 「そっか」 笑顔のまま、彼は心持ち目を伏せた。 少し引っかかりを感じた。薄々、彼の家庭に問題がある事は感じ取っていた。けれど親の事を口にした時の彼の表情からは、それほど鬱積したものは見られなかった。 問題はあるが、彼なりに消化しつつあるようだ。 まだまだ彼について知らない事ばかりだが、いつか、わかる日が来るだろう。 微笑みが消えかけた彼に少し欲張りを言う。 君が無事に帰ってきてくれたら嬉しい。 尚且つ面白いお土産があったら、もっと嬉しい。 彼は腹を抱えて笑い、本当に欲張りだったと、嬉しそうにした。 ああそうとも、もらえるものは全てもらいたいのだ。 いささか威張ってみせる。 僚は笑い転げながら、わかった、絶対に面白いものを見つけてくると約束した。 「あと、怪我も病気もしないで」 元気に帰ってくると続ける。 待っていると告げ、身体を抱き寄せて約束のキスをする。 |
神妙な顔で、神取は車の前に立ち尽くしていた。気付けば、右手が唇に触れていた。そこでようやく我にかえる。 面白いお土産の中身を知るのも、次に僚に逢えるのも、明日の夜……。 神取はゆっくりと手をおろし、しばし考え込んだ。 ややあって、小さくため息をつく。 鍵を取り出した時、心は決まっていた。 先週、彼の実家に案内されていて本当に良かった。 |
木曜日、夕刻。 借りているアパートではなく、実家に戻った僚は、両親と妹に買った土産の品をひととおり披露すると、お喋りもそこそこに二階の自室に引き上げ、ベッドに背中から倒れ込んだ。少しへたれた、身体に馴染んだこの感触がたまらなく心地良い。 寝転んですぐに、母親が洗濯物を取りに部屋にやってきた。 「あら、いいわよ寝てて。言ってくれればそれだけ持っていくから」 長旅で疲れているだろうからと、母親は笑った。 申し出はありがたかったが。いくら母親とはいえ自分の汚れ物を見せるのは恥ずかしい。それに曲がりなりにも一年間、自分の事は自分ですると学んできたのだ。面倒だからと母親に任せるのは気分が悪い。自分が許せない。 そして何より、家族以外の人間に買った土産の品を見つけられ、あれこれ詮索されるのは避けねばならない。 僚は即座に起き上がると、慌てているのを悟られないよう気を付けながら母親の手を遮った。 「やるやる、自分で持ってくから、そんな気遣わなくていいよ」 「あら、そう?」 元々、自分の事は自分でする子であったが、この一年で更に成長したようだ。母親は心の中で感心し、お風呂を沸かしておいたから後で入りなさいと言い残し部屋を出て行った。 全く疑われた様子はなかったが、必要以上に慌ててしまったせいか、部屋の扉が締まった途端額にどっと汗が噴き出した。ふうと肩を上下させ、僚はボストンバッグに手を伸ばした。 中を探り、男に買った土産の品を静かに取り出す。 綺麗な包装がなされた小さな四角い箱を少し振ると、中でりんりんといい音が鳴った。 長い余韻を引く、澄んだ音色に、思わず頬が緩む。 これを、あの男は喜んでくれるだろうか。 修学旅行自体、楽しいものであったが、それとは別のところで、男の希望する面白いものを探し出す事に胸躍らせた。 見知らぬ土地で、どんなものを発見できるだろうかという期待と、果たして見つけられるのかといった、不安。 実際にそのものにたどり着くまで、その二つがぐるぐると入り乱れ、観光地を巡って楽しい気分の裏側で、常に妙な焦りを抱いていた。 これを見つけた時、ようやく焦りと不安から解放された。 まさに、肩の荷が下りた。 これなら、あの男は絶対喜んでくれるだろう。 どんなに些細でも、自分が買ったものなら嬉しいといっていたが、これには少し自信がある。 僚はもう一度箱を振った。 低い音と高い音が、不思議な響きを上げる。 いつの間にか歯が覗くほどにやけてしまった口を慌てて引き締めると、僚は普段使っている斜めがけのバッグに丁寧にしまった。 それから、面倒な旅行の後始末を始める。 |
風呂に入り、洗濯物を片付けてまたしばらく自室でくつろいでいると、階下から夕飯を告げる声が聞こえてきた。 僚は居間に向かった。 ひと月に一度くらいは実家に戻り四人で食事をするのだが、いつの時も同じような会話であまり代わり映えはしなかった。といっても、通夜の席のように静まり返っているというわけではなく、聞かれる内容が大体同じで、答えも大体同じだという事だ。 しかし今回は、海外旅行から帰ってきたという事もあり、たくさんの土産話で食卓はいつになく盛り上がった。 羨ましがる妹と一緒に笑い合いながら、同じ内容を早く男に喋りたくてうずうずしている自分に気付く。 ああ、明日が待ち遠しい。 頭の片隅で踊っている。 |
後片付けを手伝い、僚は自室に戻った。 さっきしまった男への土産の箱をまた取り出し、ベッドに寝転がって真上に眺める。 明日の午前中にアパートに戻り、夜に迎えに来る男を待つ…明日の夜。 明日の夜になれば、顔が見られるのだ。 しかしどうにももどかしかった。 これまでも、基本的に会うのは週に一回で、その間いつも待ち遠しい気持ちを抱いていたが、今日ほど息苦しく感じる日はなかった。 どうやらまだ少しばかり旅行の興奮を引きずっているらしい。 明日の夜男に会って、残らず出せば、少しは収まるだろうか。 とにかく今は、早く明日になって土産を渡したい、どんな顔で受け取ってくれるか、早く確かめたい。いやまずは、怪我も病気せず元気で帰って来た、約束を守った事を報告したい、それから土産を渡して、旅行の話をして…心がどこまでも弾んでゆく。 ああだめだ、落ち着かないと寝返りを打つ。 浮かれ気分のまま、僚は何気なく机上の時計を見やった。 そろそろ九時になるところだ。 今頃男は何をしているところだろう。 まだ、仕事をしているのだろうか。 さすがにもうマンションには帰っているが、終わらぬ仕事の続きを、あの書斎でしているのだろうか。 先日見せてもらった書斎の内部を鮮明に思い出し、そこに男を配置する。 何故かそこには自分もいた。男はデスクに向かっていて、自分はベッドに寝転がり、チェロの本を読みふけっている。 そんな一場面が、何故か脳裏をふっと過ぎった。 僚は頬を擦った。その後自分は、少し退屈したので男の傍に近寄った。デスクの前に立って、気付くまでじっと顔を見ていようとした。男はすぐに気が付いて、笑いかけてきた――。 「……甘ったれ」 低く呻いて、両手で頬を叩く。痛い、いたい。正気に戻る。 いくら自分に都合よく思い浮かべられるからといって、これはあまりに行き過ぎだ。恥ずかしさに耐え切れず、また寝返りを打つ。 だが男は自分の妄想よりももっと甘く、優しい。怒った顔を見たのは一度きり。自分が浅はかなせいで怒らせた。それでも男は、決して声を荒げず乱暴な振る舞いもしない。暴力を振るうなどもってのほかだ。 チェロの練習の時も、厳しいは厳しいが、竦み上がるような怖さを味わった事は一度もない。必ず言葉で説明し、伝わりにくい所は実演で示してくれた。 そんな懐の深い男に、本当のところは、もっと甘えたいと思っていた。しかし今でも十分甘えているから、これ以上寄りかかって迷惑をかけたくないとも思う。 せっかく選んでもらえたのに、隣にいられるようになったのに、手放してなるものか。 僚はピアスに触れた。 それから、手にしていた土産の箱をバッグにしまう。 気持ちを切り替え、テレビでもつけようと思い立った矢先、遠くから車のエンジン音が聞こえてきた。だんだんとこちらに近付いてくる。 家の前を通り過ぎようとしている一台の車に、僚はどきりとなった。 まさかと思い、すぐに振り払おうとしたが、特徴のあるあの響きを、自分が聞き間違えるはずがない。 全身から、汗に似た熱がどっと噴き出す。 僚は耳を澄ませた。 通り過ぎて行ってしまえば、自分の勘違い。 もしそうでなかったら…… そう思う間に、近付いてきた低いエンジン音は家の前でぴたりと止んだ。 同時に息も止まる。 僚はぎこちなく身体を起こすと、机の上に置いていた携帯電話を手に窓に近寄った。ためらいながら、震える指で登録してある一つの番号を呼び出す。 かたい呼び出し音はすぐに途切れ、間を置かず聞き慣れた心地好い低音が静かに応答した。 ごくりと唾を飲む。 「あ…あの……」 僚は言葉に詰まった。思わずかけてしまったが、なんと言えばよいかまるで考えていなかったのだ。もしこれが自分の勘違いだとしたら、仕事の邪魔をしてしまった事になるのだ。そういう事だけはすまいと心に固く誓っていただけに、後先考えず連絡してしまった自分の浅はかさに、今更ながら後悔する。 しかし、もうかけてしまったのだ。 そして相手は出た――なかった事には出来ない。 僚は思い切って口を開いた。 「…今、どこ……?」 カーテンで閉ざした窓の外に意識を集中させ、問い掛ける。 『君の家の前だ』 返ってきた言葉に、僚はすぐさまカーテンを開いた。窓を開け、暗闇に目を凝らす。 勘違いではなかった。家の前に停まっているのは、紛れもなくあの男の車。 静かに窓が開き、男が顔を覗かせる。 街灯からのぼんやりとした灯りのせいではっきりとは見えなかったが、たとえどんな雑踏に紛れていようと見誤る事がないほど記憶に刻み付けた、貌に、心臓が跳ね上がる。 僚はぎりぎりまで身を乗り出し、電話越しに問いかけた。 「なに…なにしてんの?」 |
咎める響き…当然の問いかけを苦く聞きながら、神取は答えた。 「どうしても君の顔が見たくなって、会社を抜け出してきたんだ」 頭上にある窓から覗く顔をまっすぐ見つめ、返答に耳を澄ませる。 ややあって僚は言った。 『……そっか。じゃあ、すぐ帰らないとな』 そうだ。本当に馬鹿な事をした。こんな事なら、最初の予定通り明日まで待てばよかったのだ。だが、どうしても待てなかった。声が聞きたい、顔が見たい。どうしても我慢出来なかった。抑えておけない、堪え切れなかった。 どうか少し、少しでいい。 「少しだけ、出てこられないか。五分だけでいいんだ」 時間が遅いから無理だと、即座に返される。 全くその通りだ。これが彼のアパートだったなら、もう少し融通が聞いたかもしれない。ほんの五分ならばと、許されたかもしれない。 未成年者を遅くまで連れ回したりしないと言っておいて、結局はこれだ。本当に情けない事だ。 しばし無音が続いた。 駄目だ、これ以上彼を困らせてはいけない。きちんと詫び、明日また出直そう。謝って、許してくれるだろうか。 『……本当は』 その時、小さく声がした。 神取はより神経を集中させた。 本当は俺も今、逢いたいと思っていた。 顔が見たいと思っていたと続くこの言葉は本物だろうか、それとも自分の都合のよい妄想だろうか。 『すぐにいく』 今にも通話を切りそうな僚に、慌てて通りで待っていると告げる。 通話は切れていた。ちゃんと通じただろうか。 遅れて込み上げてくる笑いを噛み殺しながら、神取は表通りへと向かった。 |
言い訳もそこそこに家を飛び出した僚は、全速力で表通りを目指した。 家の前の路地をまっすぐ進んだ先がそうだ。 なんで自分の脚はもっと速く動かないのかと焦れながら、たどり着いた通りで忙しなく左右を見回し、男の車を探す。 まばらに車が行き交う通りの路肩に、ランプを点滅させた一台の車が停車していた。 すぐさま駆け寄る。 その前に気付いていた神取は、中から助手席側のドアを開け、僚を招き入れた。 僚は乗り込むと、男の肩や腰の辺りを忙しなく見回し、邪魔になるものが何もない事を確認すると、力一杯抱き付いた。 詫びの言葉を用意していた神取は、乗り込むや息つく暇もなく抱き付いてきた彼に一瞬面食らい、すぐに抱き返した。 全力で駆けてきたのか、ひどく息が荒い。腕の中で一生懸命呼吸する彼がたまらなく愛しくなり、神取は背中をさすって宥めてやった。 「おかえり」 「ただいま」 先ほどのぎこちない会話が嘘のように、二人はごく自然に言葉を交わした。 そしてもう一度、今度は心の中で繰り返す。その分抱き合ったまま過ごし、二人はゆっくり身体を離した。 神取は頬に両手を伸べ包み込んだ。 「変わりなさそうで、何よりだ」 僚ははにかむ。親に言われるよりずっと嬉しい言葉。 神取は触れた頬をゆっくりさすった。 「香港は楽しかったかい? どこか、案内できそうな場所はあったかな」 「うん、いっぱいあった。けど……」 「けど?」 「今話すと長くなるから、明日にする」 本当は今ここで止まらない話をしたくてうずうずしている自分をなんとか抑え、僚は荷物を膝に乗せた。 「今日は、これで」 中から、男に買った土産を取り出す。 手渡された四角い包みを、神取は嬉しそうに見つめた。 「開けてもいいかな」 「うん。見てみて」 自信たっぷりに促す。 破かぬよう気を付けながら、神取は慎重に包みを開いていった。中からは、綺麗な刺繍を施した小さな箱が出てきた。一度僚に目をやってから、箱の蓋を開く。 「これは……」 箱の中には、鈍色をした二つの球が収まっていた。片方を持ち上げてみる。見た目の質素な美しさとは裏腹に、ずっしりと重く、心地好く手に馴染んだ。 「ちょっと振ってみて」 こんな風に、と見本を示す僚に倣って、神取は手の中の銀球を横に揺すった。どういう仕組みになっているのか、涼やかな音色がりぃんと響いた。 「ほう。いい音だ」 「こっちは、またちょっと音が違うんだ」 僚は手を伸ばし、もう片方を持ち上げて音を鳴らした。男の手にあるものよりわずかに低い音色が、長い余韻を引いて響いた。 「知ってる? これ、健身球」 「ああ。でも実物を見るのは、初めてだよ」 「手の中で回すんだよ」 そう言って僚はもう片方を神取に手渡した。 試しに、何度か手の上で転がしてみる。回す度に中でりんりんといい音がした。ただ単純に回すだけなのだが、その単純さがかえって面白い。 「うん。文句なしに面白い」 「面白いだろ、これ」 嬉しそうに目を輝かせ、僚はにっと笑った。 「気に入ったよ。ありがとう」 誇らしげに笑う僚に微笑み、神取は元通り銀球をしまった。 目を上げると、気まずそうにして僚が見てくる。 「どうした?」 「さっき……嫌な言い方……」 言葉を濁す彼に笑いかけ、気にしなくていいと頬をひと撫でする。 「わがままを言って、困らせた私がいけないのだよ」 「そんなこと……!」 僚はすぐさま首を振った。 「いや、私が悪い。無理を言って本当に済まなかった」 それでも僚は首を振った。こんな遠くまでわざわざ来てくれたのに、嫌な言い方をしてごめんなさいと詫びた。 嗚呼まったく、頑固で融通が利かない。だから好きだ。 さてどうやって収めようかと考えていると、頬に唇が触れてきた。 「……なんだい?」 「お詫びのキス……だめか?」 僚はおどおどと顔を覗き込んできた。 頬から、手足の先まで、隅々まで、彼の優しい熱が伝わっていくようだった。 いいとも。これで十分だとも。顔がにやけてしまうのを咳払いでごまかし、無理に呼び出した分のお詫びのキスをする。そして唇にも軽く触れる。 「来てくれた分だ」 唇を指で押さえ、何とも嬉しそうに目尻を下げた僚に、これでお互いお終いと告げる。 そしてもう一度お帰りと渡す。僚はただいまと返した。 「期待していたより、ずっと面白いお土産を、ありがとう」 再び腕を回し、口付ける。 逢えなかった日々を埋めるように、二人は深く唇を重ね合わせた。 |