晴れる日もある

 

 

 

 

 

 チャイムを鳴らすと同時に嫌な予感が胸を過ぎった。
 合鍵で中に入り、真っ暗な室内に面食らう。
 嫌な予感が更に膨れ上がる。
 朔也、と奥に向かって呼びかけながら進むと、まだ暗闇に慣れぬ目ながらも、リビングのテーブルに人影が座っているのが見えた。
 一瞬ぎょっとするが、輪郭で朔也だと理解する。
 返事をしない事におののきながら、男は明かりを点けた。
 天井からの白光が、うなだれて座る朔也の姿を明確に照らす。
 感情の読み取れぬ貌で朔也は椅子に座り、ただ一心に視線の先にあるテーブルの表面を見ていた。
 いや、見ているのは違う物かもしれない。
 その風情は男をぎくりとさせたが、更に驚かせたのは、明らかに殴られた跡と思われる頬の有り様だった。
 よくよく見れば、服も少し乱れ、汚れていた。

「どうした、何があった?」

 慌てて歩み寄り、顔を自分の方に向けさせる。
 いじめあるいは喧嘩かそれとも。
 心臓が縮み上がる。

「俺はしてない」
「……何を?」
「してない。されそうになったけど、逃げた」
「朔也、それだけではわかりにくい。ちゃんと説明してくれないか?」
「……してない」

 しかし朔也は、強張った口調でそう繰り返すだけだった。
 そして男をじっと見つめる。
 懸命になって目で訴える朔也に、男はようやく言葉の内容を理解する。
 同時に、彼に初めて遭遇した時、投げかけられたあの忌まわしいひと言が脳裏に蘇る。

「どんなにひどくしても構わない。ひどくするのは、好き?」

 男は半ば無意識に喉の奥でうなった。
 ここで暮らすようになってから、朔也はその行為をきっぱり断ち切った。
 朔也の意思によるものであり、男が禁じた為というのも理由の一つだ。
 そうして朔也の身体から、それ以前に刻まれた『ひどい事の跡』は少しずつ消えていった。
 本当はそんなものを望んでいた訳ではないからだ。
 だが、今日、以前相手をした誰かが偶然朔也と遭遇したのだろう。
 それで、以前のように朔也をいたぶり犯そうとした。
 朔也が言っている『していない』『逃げた』は、その事を指しているのだろう。
 回避できたからよかったものの…男は腹の底がぞっと冷えるのを感じた。

「調べてくれて構わない。俺はしてない」

 無表情がいっそ痛々しい。
 弱々しく震える声で繰り返す朔也に数度頷き、男は言った。

「朔也、ここで暮らす際、私とした約束を覚えているかい?」

 朔也はごくわずか頷いた。

「嘘は、つかないこと。言いたくないことは、喋らなくていい……」
「そうだ。だから、私は君の口から出た言葉を信じる」

 朔也は口を噤んだ。
 代わりに目が、無言の訴えかけをしていた。
 男はしっかり受け止め、笑いかけた。

「そんな顔をしなくていい。大丈夫、私は信じているよ」

 目に見えるほど肩を落とし、朔也は全身の緊張を解いた。
 憐れを誘う風情にたまらなくなり、男は一度腕に抱きしめた。

「大丈夫だ、朔也。さあ、傷の手当てをしよう」

 促され、朔也は服を脱いだ。
 腕や脇腹のところに、強く掴まれたと思しき指の跡や打ち身の変色がいくつか見られた。
 男は顔付きを険しくした。

「……鷹久」
「どうした?」
「俺の事……怒ってる」

 聞き覚えのある響き。
 男は唇を引き結んだ。
 ゼロではないが、彼に対しての怒り諸々はほとんどなかった。
 何故こんな目に逢わねばならなかったか、彼自身わかっていること。
 だから男はそれ以上責める言葉を口にしない。
 責めても意味がない。
 彼はわかっているのだ。
 だから男は、彼が無事で本当によかったと、それだけを喜び胸を撫で下ろす。
 だから男は、怒ってなどいないと首を振る。
 途端に朔也は一切の表情を消して、隣に座った男の肩の向こうを見た。

「俺は、頭のいかれた汚い子供だから」

 そこにさも誰かいるように、淡々とした口調で言い放つ。
 男は、答えようのない口を閉ざした。
 救急箱を開け、手当てに取りかかる。
 初めて彼がそれを口にした時、頭を殴られたようなショックを感じて、咄嗟に怒鳴った。
 やめなさいと。
 直後彼の両目に浮かんだ激しい怒気と、裏腹に低く呻くような声は、恐らく一生忘れられない。

 あんた、おかしい

 その後襲った嵐のような出来事も。
 言葉の不吉さに面食らっていると、朔也が突然殴りかかってきたのだ。
 苦労して押さえ込み、暴れるのをやめさせる。
 どこをどう掴めば動きを制限できるか、男には多少心得があった。
 彼は背丈はそこそこあるが男よりは低く、何より痩せていた。
 その点でも男に有利だった。
 背後からがっちりと動きを封じられ、それでも朔也は全身に怒りを漲らせた。逃れようともがいたり声を発する事はしなかったが、その代わり近くにある椅子を蹴り倒し、まるで野獣のようにふー、ふーと息を荒げた。
 落ち着くまでどれくらいそうしていただろうか。
 不意に彼が身体から力を抜いたので、男もゆっくり腕を離した。
 少ししてまた、あんた、おかしいと朔也は言った。
 今度は一転して力ない声だった。
 よろけるようにして座り込んだ朔也の正面にしゃがみ込み、男は言った。

 それでも君が好きだよ

 そう、男はそれでも彼を嫌う事はなかった。
 できなかった。
 強烈に惹き付けるものがあるのだ。
 男は、日下部朔也が好きだった。
 過日の騒動に男は肩を上下させた。
 朔也は、たしかにおかしいだろう。
 見るからに厄介事を抱えた、彼の言葉でいうところの頭のいかれた汚い子供。
 それが、どうした。
 朔也が何故そこまで自分を卑下するのか、男は知らない。
 知りたい気持ちはあるが、同時に恐ろしさもある。
 彼の過去は、あの時ホテルで見た彼の身体の通り、文字通り、壮絶なものなのだろう。
 そういった痛みにあえて触れるのは、正直遠慮したい。
 ここで暮らす際交わした約束の通り、言いたくない事は言わなくていい。
 そういう時は口を噤んでいる事。
 まあ、そうでなくとも、彼は大半の事には口を噤んだが。
 是も非も、ごくわずかな反応しかしない。
 だが、彼が喋りたくなったなら、聞くだけの覚悟はある。
 恐らく、推測からそう遠くないもののはずだ。
 明確に思い浮かべるのは避けているが、そんなおぼろげでも充分、今の時点でもう充分、胸糞悪い。
 だが、男は、朔也自身に惹かれるのに抗えない。
 だから、過日の騒動を繰り返す事になってもいいと、同じ言葉を朔也に投げかけるのだ。

「それでも君が好きだよ」

 恐ろしいことは起きなかった。
 何も起きなかった。
 朔也は、瞳に自己抑制の幕を下ろして、言葉を遮断していた。
 それでも男はあまり悲嘆しなかった。
 自分がこうして彼に嫌われたくないと思っているのと同様、彼もまた自分に嫌われたくないと思っているその証拠を、握っているからだ。
 嫌われたくないから、暗い部屋で一人怯えていた。
 必死に弁解の言葉を重ねた。
 それは同時に、モラルが崩壊していると思われる彼にも、一応の定義…貞操がある事を男に教えた。
 だから、この部屋に移り住んで以降身体から傷跡が消えていっているのだ。
 人からすれば、鼻で笑ってしまうようなちゃちで幼稚な言い分だろうが、男にはそれで充分だった。
 男は、日下部朔也が好きだった。

「大した事がなくてよかった。さあ、服を着て」

 椅子の背にかけたシャツを手渡す。
 朔也の抱えているものはとても複雑でどうしようもなく悲しいものなのだろう。
 だから男は、君が好きだよと繰り返し言って聞かせた。
 本当に欲しいものは手に入らない…そんなひどいこと、彼に起こってほしくないからだ。

「……ありがとう」

 朔也の口から出た礼の言葉は、傷の手当ての分だけだった。
 部屋を去る際男がさり気なく見やると、朔也は自室に向かうところだった。
 男の存在などまるでないと言わんばかりに、扉は呆気なく閉められる。
 どれほど心配したか。
 どれほど肝を冷やしたか。
 彼には、わからない事なのだろうか。
 立ちふさがる隔たりに男はいくらかの寂しさと疲れを感じたが、やはり悲嘆はなかった。
 朔也自身ではどうにもならない事のせいで育ちきれなかった部分があっても、形は違っても、彼の気持ちは間違いなく自分と共にある。
 そのことを喜ぶ気持ちの方が、勝っていたからだ。

 

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