晴れる日もある

 

 

 

 

 

 珍しいというよりは、どうしたのだろうかと心配が過ぎる部屋の有り様に、男はしばし立ち尽くした。
 朔也の部屋はいつも、少々神経質なほど整頓されていた。
 いつでも、今日が使い始めて二日目とばかり、どこもかしこも綺麗に掃除がなされ、整っていた。
 それが今日に限って、そこかしこに慌てた、乱雑な空気が渦巻いていた。
 ハンガーではなく椅子の背にかけられた制服。
 一度として見たことがない、閉まりきっていない物入れの扉。
 キッチンのカウンターには、弁当箱が巾着に入ったままぽいとばかりに放置されていた。
 部屋からキッチンに戻り、巾着に手を伸ばす。
 軽い。
 中身はいつものように綺麗に食べ終えていた。
 これを取りに来るのが目的だった。
 いつもの時間割だ。
 朝、こちらが作った弁当を朔也が受け取りにくる。
 そして夕には、こちらが弁当箱を取りにゆく。
 今日もその通りに、あらかじめ決めていた時間こうして朔也の部屋を訪れたのだが、彼は不在だった。以前何度かあった、急な買い物などで行き違いにでもなってしまったのだろうか。
 それにしては、随分と慌てている。
 もしや、親戚の人間に何か不幸でも…それならば、この散らかった部屋も納得がいく。
 あるいは、友人らの誰かに、急を要する何事かが起きた。
 いずれにしろ、急いで駆け付けねばと、彼は大慌てで出ていったのだ。
 玄関から部屋へ、部屋から玄関へと、彼がたどったであろう軌跡を目で追う。
 ならば、じきに連絡がくるだろう。
 ふと見た外は、黄昏を越えてもうすっかり暗い。
 冬は日没が早い。
 ひとまずカーテンを閉める。
 弁当箱を洗い、脱ぎ散らかされた制服をハンガーにかけて、ダイニングテーブルに落ち着く。
 しかし気持ちは落ち着かなかった。底の方がざわざわと小さく波立っている。どこかで繋がっている朔也の心の不安定さが、伝わってきているようだった。
 それから一時間が過ぎた。
 途中何度か触れた携帯電話をもう一度取り出し、手の中で弄ぶ。
 もし彼が、未だ忙しい中にあるならば、連絡は邪魔になるだろう。
 もし、もしも。もしも……。
 思い付く限りの仮定を並べ立てたが、最後に必ずいくらかの不安が混じった。
 仮定が間違っている証拠なのだろう。
 朔也は、誰かの急用に駆け付けたのではなく、自らこの部屋を出ていったのだ。
 ひどく慌てて、あれもこれも放り出して発作的に。
 だとするならば、電話をかけたとしても、受け取ってもらえないかもしれない。
 そもそも、持って出ていないかもしれない。
 確かめる為に指をかけた時、手の中で振動が起きた。
 束の間息が止まる。
 朔也からであった。
 どこにいるのかと尋ねると、何故そんなところにという駅名が返ってきた。確か近くには中規模の湖があり、観光名所としても知られている。だが今の時期は、取り立てて見るべきものはなかったと記憶している。

「何があったんだい?」

 答えはなかった。
 ただ、朔也の微かな息遣いが感じられるだけだった。
 はたと思い至る。
 そこは確か、朔也の母親と妹が命を絶った場所のほど近く。
 まさか、彼は、後を追いたくなったのだろうか。
 昼間に何かが起こって、それで彼は発作的に行動に移したのだろうか。
 どうにかして頭から追い払いたい推測と格闘していると、まだ電車はあるから、それで帰ると、小声が言った。

「いや、今から迎えに行く」驚き、息を飲む音が耳に滑り込む「すぐに車で迎えに行くから」

 一人で、どんな想いを抱えて、彼は帰ってくるというのか。
 衝動が込み上げる。
 一時間もあれば着くから、そこで待っていなさい。
 二度と言わないと約束した禁句をあえて口にする。
 そこで少し待っていなさい。
 根拠はない。まるであてずっぽうだが、何故だか、今言わなければいけないと強く思ったのだ。
 彼は、駅から少し歩いたところに二十四時間営業のファミリーレストランがあるのを見かけたと言った。
 そこを待ち合わせ場所にする。
 遅い時間に未成年が一人では少々不自然かもしれないが、駅舎や他の場所に比べればはるかに自然で、寒さもしのげる。何より安全だ。
 電話を切ってすぐ、地図を調べる。
 一分でも一秒でも早く朔也のいる場所にたどり着くにはどうすればいいか、道を探る。
 帰ろうとする意思があるなら、ひとまずは最悪の事態はないだろう。
 しかし手放しで安心はできない。

 

 

 

 高速道を飛ばし、料金所を過ぎ、しばらく線路と並走していくと、遠目に派手に光る赤文字が見えた。
 あそこだと思った瞬間、全身が一気に熱くなった。
 駐車場へ進入しながら、明るいオレンジの店内に目を凝らす。
 窓際の端の席にほっそりした人影を見つけた時、今度は目の奥が熱くなった。
 その人物は顔を窓の外へ向け、まっすぐこちらを見ていた。
 明るい店内から、夜の暗がりを覗いて見極めるのは困難だ。しかし彼は闇雲に見ている訳ではない。こちらがわかるのだ。
 ペルソナが、彼に教えたのだ。
 店内に足を踏み込むと、即座に店員がとびきりの声で対応した。正面の時計は十時を過ぎていた。
 目の端で、振り返る朔也の顔を捕らえる。ひどく強張っていたが、ほっとしたような、微かな笑みが浮かんでいた。
 待ち合わせをしていると伝え、まっすぐ彼のいる席に向かう。
 メニューを愛想笑いで受け取り、正面の人物に問いかける。

「何か食べたかい?」

 朔也は、何とも形容しがたい表情で首を傾げ、小さく左右に振った。
 テーブルにあるのは、水のコップと、ほぼ飲み終えたコーヒーのカップだけだ。
 電話の後から今まで、それだけでしのいだのだろうか。
 空腹かと尋ねると、同じような顔でまた首を振った。
 彼は見るからに落ち込み、疲れ切っていた。明るい照明が降り注ぐ中見る青ざめた頬は、しようもなく痛々しかった。
 どうしてこんなところまで来たのか、今何を思っているのか、何にそんなに失望したのか、訊きたいことがいくつも脳内に渦巻いている。
 けれど今は聞くべきではないと、何かが強く押しとどめている。
 だからその代わりに、他愛のない言葉を紡いで埋めることにする。
 何ページもあるメニューが役に立った。

「実は腹ぺこでね…だが一人で食べるのは気が引けるので、よければ付き合ってくれるかい」

 ついさっきまでは空腹なんて全く感じていなかったが、朔也の顔を見たことと、やけに綺麗に作られた賑やかなメニューを目にして、一気に思い出された。
 朔也はぎくしゃくと頷いた。
 にっこりと笑いかける。
 少しでも気分がほぐれればと、一緒に覗きながら彼が好みそうな品を二つ三つ、提案してみる。
 始めはひどくよそよそしく…恐らく、この行為を咎められるのではないかとか、諸々の心配ごとからくる怯えのせいで彼はぎこちない受け答えをしたが、段々と力が抜けてゆくのが見て取れた。
 ついには、言葉を発してくれるまでになった。
 全国展開しているこの店は、御影町にもあり、彼も時々友人らに誘われ訪れていたようだ。そして、つい最近も来ており、女子が称賛していた期間限定のデザートセットがまだメニューに載っているのを見て、勧めてきてくれたのだ。
 嬉しさに反応が大げさになってしまいそうなのをぐっと飲み込み、代わりに目を輝かせる。
 抑え切れなかったというべきか。
 指差す先にあるそれは、実際に心をくすぐった。
 この時間に食べるには少々勇気のいるものだが。
 日々の食事に関して結構いい加減なところがあると自負しているが、最低限心がけているものもある。その習慣に反してしまうが、こんな時くらいは無視しても構わないだろう。
 安堵からの空腹もあるし、何より彼のお勧めを受けて、我慢できなかったのだ。
 それで、件のデザートセットも盛り込まれたコースを注文する。
 朔也は、あっさりとした単品を選んだ。
 店員が去ってすぐ、彼は言いにくそうにしながらトイレと立ち上がった。
 見送ってふと、もしやこのまま戻ってこないのではないか。逃げ出す口実だったのではないか。そんな馬鹿げた考えが頭を過ぎった。
 だったら、そもそも電話などかけてこない。
 待っている訳もない。
 もちろん、彼はすぐに戻ってきた。
 戻って少しして、あんたが来るまで席を立てなかった、その間に来る気がして、立つ気にならなかった、と、彼は言った。

「それは済まなかったね。道は空いていたのだが、ここまではやはり、少々時間がかかった」

 咎めるつもりではなく、しかし言葉にする。
 案の定朔也は顔を強張らせ、俯いた。
 ごめんなさいとかすれた声が口からもれる。

「それはいい。以前も言ったように、運転は苦にならないからね。君に怪我や、何の事故もなくて、良かった」

 彼は息を啜り、もう一度ごめんなさいとひっそり呟いた。
 伏せられたままの顔が辛くて、男は何度も首を振る。

「いいんだ、朔也。大丈夫だよ」

 料理が運ばれてきて、テーブルの上が一気に華やかになる。

「さて、まずは腹ごしらえをしよう。空腹だと、考えがどんどん悲観的になってゆくからね」

 中央に置かれたバスケットからフォークを取り、朔也に差し出す。
 ややおいて、彼はおずおずと手を伸ばし受け取った。
 無理に食事に付き合わせたかと思ったが、朔也も同じように空腹だったらしく、手には勢いがあった。
 ならば単品では足りないだろうと、まだ手を付けていなかった自分の料理を分けることにした。

「ちょっと欲張り過ぎたようだ。君のお勧めのデザートを食べたいから、少し手伝ってくれ」

 躊躇と葛藤の後、朔也は口に運んだ。
 食べる元気があるなら、ひとまずは安心だ。
 そっと胸を撫で下ろす。
 食べながら、他愛ない会話を交わす。
 言いたくないこと、聞かれたくないことを避けつつちょっとした質問をして、彼の様子を注意深く探る。
 そうしていると、以前のことが頭を過ぎった。
 彼の表情が今よりずっと硬かった頃のことが、思い出された。
 あの頃のように、彼は言葉少なに、頷いたり首を振ったりして応えた。
 聞き出せた限りでは、昼間は特にこれといった問題は起きなかったようだ。
 では、何が彼を突き動かし、こんなところまで連れてきたのだろうか。
 何がきっかけだったのだろう。
 デザートに続いて食後のコーヒーを啜り、ひと息つく。

「君のお勧めはいつもどれも、外れなしだね」

 笑いかけるが、反応は当然ながら薄い…控えめな目配せで朔也は応えた。
 一拍置いて続ける。

「一つ聞いてもいいかい?」

 そう聞かれると待ち構えていたのだろう。目を伏せて頷く。

「あの部屋にいるのが、嫌になった?」

 朔也はすぐさま首を振った。そんなこと、と否定する唇は震えていた。
 左手がピアスに触れる。それから胸元の青い飾りに縋り付く。
 どちらも彼が身に付けていることに心からほっとする。

「それならいいんだ。では、そろそろ行こうか」

 テーブルの端にそっと起立している伝票を手に取る。
 朔也は何か云いたげに口を動かしたが、明確な言葉は発しなかった。
 表情からは、嫌悪の色は伺えなかった。
 話したいことがあるが、今はまだまとまらない…そんな顔だった。
 辛うじてわかるほど微かに、朔也は頷いた。
 それから立ち上がる。
 随分くたびれたような動きだ。
 心からくるものもあるだろうが、実際身体も疲れ切っていたのだ。
 ゆっくりついてくる歩調に合わせて店を後にし、車に乗り込む。
 幹線道路に入ってしばらく、横目に見る彼は座席に深くもたれ、顔を俯けて、眠っているようだった。
 マンションに戻るのではなく、ここからほど近くにある別邸へと向かっていることを説明したかったが、起こしてしまうのは気が引けた。
 ついてから告げればいいと、山間の道を走る。
 だがある時、瞬きを見てとり、ずっと起きていたのだと気付いた。
 すぐ手が届く隣の息遣いは、少し浅いが規則正しく刻まれていた。
 集中すると、それはどうしようもない痛みとなって胸に圧し掛かってきた。
 胸を抉り、こじ開けて、骨にまで達する痛みは、彼が抱えているものだった。
 途端に、何か云いたい衝動が猛烈な勢いで込み上げてきた。
 彼の抱える痛みが少しでも和らぐような、そんな言葉はないか、必死に探す。
 けれど何と言ってよいやら思い浮かぶものは一つとしてなかった。
 ただ、車を走らせるしかできなかった。
 不意に、啜り泣きに似た激しい息遣いが耳に飛び込んできた。
 どきりとする。
 彼が嫌悪する涙が、彼を襲ったのかと、目の端で確かめる。
 こちらをまっすぐ向く朔也の顔がそこにあった。
 暗い車内でもはっきりわかる、強い眼差しがじっと注がれる。

「行きたいところが、あったんだ」

 激しさのこもった囁きが暗い車内に弾けた。
 頷いて応える。
 また、直に触れるような瞳がぶつけられる。

「でも駄目だった。途中までは行けたけど、その先に進もうとすると」

 吐き気がした。
 目が回って、足が踏み出せなくなった。
 悔しさを滲ませ、朔也は俯いた。
 それで駅まで戻り、しかしすぐには帰る気になれず、当てもなく湖の周りをさまよったのだと続けた。
 朔也は、行きたい場所や、何故そうしたかったのか、すべてこちらがわかっているかのように言葉を紡いだ。
 理由まではわからないが、彼が目指した場所については、容易に推測できた。
 彼の母親が、生まれて間もない妹を道連れに命を絶った場所。
 彼女の生家があるこの地にそびえる山の奥深く…朔也は、そこへ行こうとしたのだ。
 思い立った時、どんな衝動が巡ったことだろう。
 彼はまだ、二人の墓参りができないでいた。
 二人の報せを聞いてから、どれくらい経っただろうか。
 彼が、決着つけられないでいることの一つ。

「俺は一生、行けないのか」

 問いかけか自問か判別のつきにくい、低い声がもれた。
 答えるべきか考えあぐねていると、別の質問がぶつけられた。

「何で来たんだ」
「君と離れていたくないからね。来てほしくなかったかい?」

 そんなこと、と声が鋭く弾けた。
 しかし勢いはすぐに萎み、朔也は顔を伏せた。

「なんで…怒らない? こんなこと、したのに」
「ああ――そうだね。出かけるといったメモの一つもあれば、よかったよ。心配するからね。だが怒るのとは違うのだよ。君は何も、悪いことをしたわけではないからね」
「悪いだろ!」胸にわだかまる全ての毒素を吐き出すように彼は叫んだ「何も言わず、こんなところまで来て、鷹久を心配させた」
「ああ、心配はした。でも怒るのとは違う――」
「離れていかないでほしいって言っておきながら、自分はあんたから離れたんだ」
「だが君は、帰るつもりだったろう? 確かに少々遅い時間だったが、行ったきりではなく帰る気があった。それとも本当に、戻らないつもりだったかい?」

 そんなことは断じてないとばかりに、朔也は激しく首を振り立てた。

「こんなことして、本当に悪かったと思ってる」

 鷹久から離れた。
 辛うじて耳に届くほどの小さな声が絞り出される。
 胸がきりきりと痛んだ。奥歯を噛み締めてやり過ごす。

「それは単に距離の話だ。心が離れた訳ではないのだから、少しの時間でこうしてすぐに縮まる」

 ちらりと様子を伺う。

「聞いてくれ、朔也。君を怒らないのはね、君に関心が無いとか、そういうわけではないのだよ。今回のことは強いて言えば、ちょっとしたうっかりさ。いつもの君は、とてもしっかりしているからね。でもたまにはしでかす。いつもならしない、ちょっとしたミスをしてしまった、それだけの事だよ。それを怒ったりはしない。連絡が遅かったのは少々まずいが、行くこと自体は悪いことではないからね。君の行動を制限したくはないし、そもそもね――」軽く肩を竦める「――私自身、あまり人のことは言えないのさ」

 以前、行き先も告げず遠くへ去り、彼を振り回し、苦労をかけた。
 文字通り命がけで、彼は探し求めてくれた。

「それは、鷹久がそうする必要があったからだ」
「君もそうだよ。君こそ、そうだよ。行かねばならない必要があったから、来たんだ。今回は、うまくいかなかったが……」様子を注意深く見守り、続ける「とにかくね、そうする必要があると感じたなら、そうするべきだ。直感は大事だよ。無理に押し込めず、やりたいことに意識を集中しなさい。今度からは、メモの一つも置いていってくれればいい。君は気兼ねなく出かけられるし、私も君の居場所がわかって、心配しなくて済む」

 朔也は首を振りながら力なくうなだれた。

「もうしない。俺は……行けないんだ」

 この先ずっと、一生、機会など巡ってこないのだ…窓の外に広がる夜闇に顔を向け、朔也は言った。
 声は今にも消え入りそうで、少し涙に滲んでいた。
 息が苦しくなる。
 どうにか吸い込んで、口を開く。

「焦らなくていい、朔也。その時は必ず来るから。今はまだその時ではないのだ。だからたどりつけなかった。試してみたのはいいことだ。後悔しなくていい。今はまだ、その時ではないと知ることができたのだから」

 朔也はじっと前を見据えていた。
 言葉を続ける。
 待ってみなさい。
 君の気持が落ち着くまで、その時が来るまで、待ってみなさい。
 必ず、時はやってくる。

「君は前に――そう、旅行の時に、私に言ってくれたじゃないか。本当に欲しいものには、蓋をしてはいけないと」

 朔也は応えなかった。まっすぐ前を見て、ただじっと耳を傾け、深く深く、考え込んでいるようだった。
 彼に言えるのはそれくらいだった。
 言葉で伝えられるものはそれだけだった。
 その先は、朔也の力に任せようと、口を噤む。
 沈黙がやがて静寂に移り変わる頃、目的地に到着する。

「ここは、私の隠れ家のようなものだ。随分山の中に見えるだろうが、近くの駅まで車でほんの十分ほどだ」

 エンジンを切って、降りるよう促すが、朔也はすぐには動かなかった。
 眠ってしまったのか、あるいは疲れきって、思うように動けないのか。

「大丈夫かい、朔也。あと少しだよ」

 彼は起きていた。ごく微かに頷いて、ゆっくりと顔を向ける。

「あの部屋が嫌だなんて、思ってない……」

 そうだろうとも。
 よくわかっていると、頷く。
 我ながら浅はかな質問をしたものだ。
 彼はいつもあの部屋を綺麗に保っている。
 やや強迫気味にも見えるが、それが彼なりの主張の方法なのだ。
 ただの義務感からではない。
 それだけなら、自分の好きな物を買い揃えたり、飾ったりはしない。
 あの部屋が快適…少なくとも居心地は悪くないという証が、あちこちに収められた色鮮やかな雑貨や食器なのだ。
 居心地は悪くないどころか、くつろげる場所だからこそ、彼はあの優しい森の色のソファーを買ったのだ。

「ここに来たのは、君と安全に帰る為だ。さすがの私も、夜間の長時間運転は無謀だと思ったからね。ここでひと晩休んで、それから帰ろう」

 心配のあまりひどく強張った頬が憐れで、そっとさすってやる。目に見えて力が抜けていった。

「さあ、おいで」

 朔也の先に立って部屋に足を踏み入れた途端、安堵から、疲れと眠気がどっと襲ってきた。
 辛うじて顔を洗ったところまでは覚えていたが、そこから記憶は断片的になり、並んでベッドに入り朔也を抱き寄せたところでぶつりと切れた。
 だから翌朝目を覚ました時、昨夜の出来事が夢であったと錯覚してしまい、彼が隣にいること、マンションの部屋でないことにほんの一瞬ではあるが驚いた。
 すぐに思い出し、ふうと息をつく。
 隣から、身じろぐ揺れが伝わってきた。
 起こしてしまっただろうか。
 そうではなく、少し前、あるいは大分前から彼は目を覚ましていたようだ。
 一旦窓の方を確かめてからおはようと告げる。

「よく眠れたかい?」

 尋ねると顎を引くようにして頷き、ありがとう、ごめんなさいと言ってきた。
 肘に寄りかかって少し起き上がり、軽く首を振る。
 見る限り、彼の顔に疲れは残っていないようだった。言葉通り、ぐっすり眠れたようだ。
 そして一晩で疲れはすっかり抜けていた。
 思わず、若いなと羨む。

「昨日のことは、もういいのだよ。君は謝ったし、私は受け取った。今度からはメモ書きを頼む。だから謝るのはもう、おしまい」

 笑いかける。

「ありがとう」
「話は、いつでも聞こう。準備ができたら、いつでも言ってくれ」

 朔也はしばらくじっと見上げた後、支えにしている腕にしがみ付くようにして身を寄せてきた。

「鷹久は、俺を怒らない」

 安心しきったため息が、美しい唇から零れた。
 よくよく見ると、眦にほんの少し涙が滲んでいた。
 つらい記憶が過ぎったのか、それとも嬉しさからか。
 つらい記憶…ただ怒りをぶつけるだけの激しさに翻弄され、うずくまるしかなかった幼い頃のこと。
 痛みが胸を重くさせる。
 寄り添ってくる背中を腕に抱き、少し強めにさすってやる。

「君が、言えば分かってくれるからだよ。少しの説明で事足りて、理解が早い。それでいて時々うっかりする」ふと笑う「そんなところも含めて、君が好きだよ」

 朔也は小さく息を啜り、細く細く吐き出した。
 布越しに彼の柔らかい唇を感じる。

「俺も、大好きだ」

 そう言って朔也は目を上げた。
 何かを云おうとしている目付きだと察し、やがて出てくるだろう言葉に耳を澄ませる。
 小さくほどかれた唇から、静かに言葉が紡がれた。

「鷹久が、行きたいところに行った時、どんな気分だった?」

 思わず息が止まる。
 責めているのでないのは、向けられる眼差しでわかった。
 彼は純粋に知りたいのだ。
 その『瞬間』の訪れがどんなものか、どういった衝撃に見舞われるのか、先に経験した自分の話を聞き、考える糧にしたいのだ。
 しかし言葉にしにくい。
 説明の難しさもさることながら、隠し立てせず晒すのは勇気がいった。
 彼の顔から天井に視線をずらし、しばし考え込む。
 彼や、彼の仲間たちに苦難を強いてしまったことは、後悔している。どうしようもないほどに。

「だが……こう言っては君は不快に思うだろうが」目を戻して続ける「とても――いい気分だったよ」

 ひどく無様ではあったがね。
 自嘲気味に肩を竦める。

「愛してる」

 少しせっかち気味に朔也は言った。
 唐突で、組み合わせが悪くて、思わず目を瞬かせる。茶化しているのだろうか。しかし彼の表情はどこまでも真剣で、行き過ぎていて、まるで怒っているようだった。気を抜くと笑ってしまいそうになる。
 どうにか飲み込んだところで理解する。
 たとえこちらがどれほどのものであっても…醜く愚かであっても、想いは変わらないと、そう云いたいのだ。
 繋ぎとめる意味も含んでいるのだろう。
 胸に優しさが満ちてゆく。
 自然と笑みが浮かんだ。

「ありがとう。私こそ」

 頬に手を差し伸べ撫でる。
 朔也は嬉しげに目を細めた。

「ところで私は昨日、ここのこと、君にちゃんと説明したかな」

 聞いたと頷き、駅まですぐの山の中の別邸だと、朔也は反復した。

「そう、見ての通り小ぢんまりとした家だが、結構気に入っていてね。君に会う前は、ちょくちょくここに籠りに来ていたんだよ」

 洗面所はドアで隔てたが、それ以外は仕切りをなくし、一つの部屋とした。
 とりわけ、正面の窓からの眺めがお気に入りで、ソファーもテーブルもそちらに向けて置いている。
 この家で一番大きな窓へと目を向ける。
 朔也もそちらを見た。
 傍まで行ってカーテンを開けると、低い冬の朝日が部屋の奥まで射し込んできた。
 窓の向こうには平野が広がり、その奥に、山並みが見えた。
 雪を冠り青く霞む山と、冬色の青空が、一幅の絵画のように部屋に映える。

「中々のものだろう」

 振り返る。
 朔也は目を大きく見開き、二度ほど頷いた。

「いつか君をここに連れて来たいと思っていたんだ。叶って良かった」

 朔也はいくらか早足で隣に並ぶと、ありがとうと見上げてきた。
 まっすぐ向かってくる熱っぽい眼差しに笑いかけ、髪を撫でる。

「実はね、君をマンションに招いた後も、数回来ている。主に、反省の為に」

 朔也の眼差しが遠慮がちに尋ねてくる。

「君の事で色々とね」
「俺の、こと?」
「ああ。君を傍に置いておく為に、かなり強引に事を進めたろう。それについて、後から色々と、くよくよとね」

 見ての通り気が小さくてね。
 殊更情けない表情で肩をそびやかす。
 すると朔也は目を瞬き、困ったような顔付きになった。
 笑いたいのを堪えているのだとすぐにわかった。
 口端をにやりと緩めて誘うと、彼は慌てた様子で口を押さえ俯いた。
 隠した手の下で、息が乱れている…笑っている。
 ようやく自然な表情が見えたことにほっと胸を撫で下ろす。
 余韻に唇を震わせながら朔也は言った。

「鷹久がそうしてくれたから、今の俺があるんだ」
「そう言ってもらえると、私も救われる」

 腰に手を回し引き寄せる。
 朔也は甘える仕草で肩に頭を乗せ、窓の外を眺めた。
 やがて、片方の手が静かに襟元に伸びた。
 始めはそっと、すぐに脅しのように襟首を掴まれる。
 おやと思う間にもう片方も掴まれ締め上げられる。
 気付くと、ひどく思い詰めた顔が正面にあった。
 どうしたのかと問う息を飲む暇もなく、押しやられる。
 背後のテーブルに躓き、よろけ、そのままソファーに座り込む。
 襟首を掴む朔也の手は、震えていた。
 今にも弾けるエネルギーがそこにあった。

「……朔也」

 見守る先で、彼の瞳が金色の光を放った。
 何らかの情動に満たされて、頬はいくらか朱に染まり、今にも言葉が放たれそうに唇がわなないている。
 彼のペルソナの気配をすぐそこに感じた瞬間、力強く抱きしめられた。
 全身でぶつかってくる身体を抱き返す。
 声がした。
 何で来たのだ、と。
 昨日と同じ問い。
 同じく答える。
 離れていたくなかったからだ。
 君が好きだからだ。

「俺も、好きだ」

 俺の世界。
 ぞくりとする恍惚に身悶えると、朔也の腕により力がこもる。
 苦しいくらいの抱擁に身を委ね、考える。
 彼が何を云おうとしているのか。
 彼が何かを自分に納得させているのだろう時間、同じように考えを巡らす。
 恐らくは母親について考えているのだろう。
 彼が、決着つけられないでいることの一つ。
 この格好は、彼が一番好きなもの。
 親の膝で甘える子供そのもの。
 やがて静かに気配は収まっていった。
 耳元で、そっと息を啜り、朔也は細く吐き出した。
 どうやら、気が済んだようだ。
 それから少し間を置いて、昨日の話、と切り出した。
 朔也は身体を起こし、まっすぐ見つめ…待ってみる――と静かな声で言った。
 その答えが欲しかったが、いざ言われると、それは衝撃だった。
 彼は、待たされ、裏切られ、深く傷付けられた過去を持っている。
 そんな彼がだから、待つという選択をしたのは少なからず驚きだった。
 そっと手を伸べ、頬に触れる。前髪をのける。

「昨日、鷹久が……来たから」

 待ってなさいと言った。その通りにしたら、本当に来てくれた。
 ほんのりと嬉しさのこもる声で朔也は言った。
 当り前のことだけど、自分には、信じ切るのが難しいんだ…苦悩に似た響きで朔也は呟いた。

「でも鷹久は来てくれた」待っていても大丈夫だと、教えてくれた「だから、それも、待ってみる」

 聞き取った途端しようもなく衝動が込み上げた。
 朔也をきつく抱きしめる。
 色んなものを取り戻し、ここまで生き延びてきた強い人を腕に抱く。
 朔也の手が背中に回る。
 自分はついに叶わなかったが、彼ならばきっと、したいと思うことを見つけ、成し遂げるだろう。

「きっとできるさ」

 愛してるよ。
 耳元に告げると、安心しきったため息がもれ、抱き返す腕に一層力がこもった。

 

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