晴れる日もある
宿に着き、部屋に案内されたすぐ後に、朔也はぶつかる勢いで男に抱き付いた。 客室係が退室し、部屋の扉が閉まると同時だ。 さて浴衣に着替えようかと立ち上がった途端の思いもよらぬ行動に、受け止めきれず二歩三歩ふらつく。 どうしたのかと問う間に唇を塞がれ、目を瞬かせる。 恋人同士の甘いキスというよりは、固い握手のような力強さがあった。 押し付けられた唇が少し痛かった。 「ありがとう」ようやく顔を離し、朔也は言った。 道中、正面に富士山が見えてきたところから、ずっとこうしたかったのだ、と。 運転中は無理だ。 土産物屋や農園でも人目がある。 二人きりになれた今、ようやくお礼が言える。 「連れてきてくれて、本当にありがとう」 そしてまた、手が痺れるほどの力強い握手に似た接吻に見舞われる。 彼の思いの強さが胸一杯に広がる。有り難く受け取った。 さて。 これで、部屋で一番大きなあの障子を開けたら朔也はどうなってしまうだろう。 あの向こうには、湖を挟んで対岸に富士がそびえている景色が待っている。 この旅館は、全ての部屋から正面に富士を望むことができる。その中で、とりわけ眺めのよい部屋を予約した。 よく晴れ渡った今日は、それは立派な、見ごたえのある堂々たる姿を目にすることができるだろう。 それを朔也が見たら、彼は…自分の口はどうなってしまうだろう。 愉快な覚悟を決め、窓辺に招く。 開けるよう促すと、もう察したのか、怖いくらいの凝視が注がれた。 「さあ、どうぞ」 障子にかかる朔也の手は、心なしか、緊張しているようだった。 固唾を飲んで見守る。 直後、室内がひと際明るくなった。 |
窓の向こうには広いバルコニーがあり、片端には大きな露天風呂があった。宿泊中はいつでも入浴できるそうだ。 もう片端にはソファーと、リラックスチェアが二つ並んで置かれていた。 ソファーやチェアに身を預け、または露天風呂の中から、気の済むまで富士が眺められるというわけだ。 裸足でも気持ちよさそうなウッドデッキのバルコニーを端から端まで歩き、それらを確かめた朔也は、ひと足先にソファーでくつろぎ、贅沢な眺めを堪能している男の隣に静かに腰掛けた。 そして何度目になるかわからない小さなため息の後、男を見やった。 男も顔を向けた。 「気に入ったかい」 少し呆けた眼差しで朔也は頷いた。 「沢山歩いて疲れたね。夕食の前に、風呂に入ろうか」 同じような顔のまま、もう一度頷いた。 男は思わず肩を震わせた。 そこで、そういえばこの部屋では、まだあのひと言を耳にしていない、と思い至る。 車の中で、観光の途中で、彼は何度も口にしたが、この部屋に入ってからはまだ聞いていない。 先ほどの熱烈なキスも嬉しいが、やはり去年港町で教えたあのひと言がほしい。 「何か、感想はあるかい」 正面の景色を示し、尋ねる。 去年よりはぐっと距離が近付いて、すぐ手が届きそうなほどに迫って見えた。 すると、朔也は小さく首を振りながら、ごくかすかに声をもらした。 吐息に紛れて聞き取れなかったが、唇の動きでわかった。 夢見心地の口から零れた『すげー』の呟きに、男は嬉しげに頬を緩めた。 |
日は既に山の向こうへと姿を隠したが、空はまだ明るく、深い菫色と夕焼けの朱色が混ざり合った、不思議な光に満ちていた。 そのお陰で、富士の姿は細かな輪郭までくっきり伺うことができた。 夕食の後バルコニーのチェアにくつろぎ、二人は夕暮れの富士を観賞しながら、今日一日の感想を語り合った。 声音は普段とさほど変わらないが、止まらぬお喋りから、朔也がいかに興奮しているかを男は感じ取った。 どこでどう感じた、ここでこう思った。あれが楽しかった、これが美味かった。ずっとにこにこと、笑顔を絶やさない。 計画の時に言っていたワイン工場で、予定通りワインが購入できたことも、彼は喜んだ。 自分のことのように喜んでくれた。 彼にとって、自分はこの世でただ一人特別な人間であると教えてくれる心からの笑顔が、すぐ隣にある。 男はだらしなく頬を緩めて、同じ気分だと一つひとつに頷いた。 ひとしきり話した後、朔也は、去年も同じように楽しかったと言った。 そして、あの時それを上手く伝えることができなかった自分を詫びた。 笑って首を振る。 あの時は、色々大変だったからね…静かにいたわる。 確かに口数は少なかったが、表情やしぐさで充分過ぎるほど語ってくれていた。 「ほんとうに、とても楽しかったよ朔也。ありがとう」 そう告げると、朔也は熱っぽい眼差しで見つめ、自分の方こそと言った。 それからほのかに笑った。 しみじみと眺め、来て良かったと、笑い返す。 「私はもう少し休むが、よかったらもう一度風呂を楽しんでくるといい」 「うん、そうする」 堪え切れない笑みに頬を緩め朔也は頷いた。 心をむずむずとさせる愛くるしい微笑が、胸を一杯に満たす。 しばらく浸っていると、気遣う声が控えめに聞こえてきた。 「運転、疲れたろう」 そうでもないとゆっくり首を振り、中々楽しいものだよと続ける。 とりわけ長距離を走るのが好きだ。 気ままに車を走らせていると、ほんとうに、自由を満喫できる。 自分がどこの誰でもなくなるあの瞬間が、好きなのだ。 「今は、君を隣に乗せて、どこかへ行くのが好きだよ」 目的地まで、安全に君を送り届ける。 君と一緒に、目的地への期待を膨らませる。 そのことに集中する時間が、たまらなく好きだ。 「来年は、君が運転する車に乗れるんだね」 虚ろな目で一人言葉を発する。 その先には、とっくに息を引き取った少年が横たわっていた。 荒涼たる大地に倒れ伏し、もう二度と動くことはない。 他には何もなかった。 荒野には強い風が絶えず吹き荒び、遥か彼方まで目を凝らしても何も見えない。何も見つからない――誰もいない。 自分一人だ。 色あせた平坦な荒れ野に一人、立ち尽くしている。 足元に倒れ伏す少年は、ああ、自分が殺したのだった。 発狂しそうなほどの孤独が押し寄せる。 男は真っ赤に染まった両手で顔を覆った。 恐怖と絶望に叫びを上げるが、声は淀んだ空に吸い込まれ、どこにも届かなかった。 |
男ははっと目を覚ました。 身震いに合わせて、リラックスチェアが微かに軋む。 目を開け、目に映るものを端から認識するが、混乱はいつまでもしつこく残り意識を翻弄した。 長いことかけようやく、自分がどこにいるのか、何故ここにいるのか、何をしていたのかを理解し、飲み込む。 それでもしばらくの間、動けずにいた。 隣を見るのが怖かった。 そこに彼の姿が無いとわかるのが怖かった。 しかし、目の端ではもう確認できていた。 そこに彼はいない。 自分の隣に彼はいないのだ。 何故なら、ずっと前に殺してしまったからだ。 直接手を下した訳ではないが、自分が殺したも同然だ。 自分の望みの中には、彼の死も含まれていたのだ――。 「ああ……」 かすれた声で呻き、顔を覆う。 その時、近くで、物音がした。 水が揺れる音、衣擦れ、足音。 男は弾かれたように立ち上がり、音のする方へ向かった。 同時に正面にある簡素な木の扉の向こうから、朔也が姿を現した。 湯上り、満足そうに頬をほてらせ、こちらに歩いてくる。 目が合いやっと、今心に渦巻く全ては夢に引きずられてのものだと理解するが、激しく揺さぶられた後だけに、切り替えが上手くできなかった。 夢の世界を引きずったまま、少し呆けた声で呟く。 「……探した」 「それは、ごめんなさい」 たちまち朔也は済まなそうに顔を歪めた。 風呂に入っていたと身振り手振りで説明する彼に軽く頷き、首を振る。 「いや……いや、そう言ったのは私だからね。いいんだ」どうやら寝惚けてしまったようだ、済まない「良い風呂だったかい」 「こんな贅沢、嬉しくてたまらない」 「それは良かった」 笑ったつもりだった。 恋人がはしゃぎ、楽しんでいる。心底満足している姿を見て、自分も嬉しいと、喜んだつもりだった。 しかし朔也には通用しなかった。 幾分低い声が名を呼ぶ。 途端に冷たいものが背中を走った。 「嫌な夢を、見たんだな」 微かに眉根を寄せ、彼は言った。 嗚呼……そうだ。 彼はいつだって、よく物事を見ている。 時々こんな風に囚われてしまう自分を気遣って、目を凝らしてくれている。 彼にごまかしはきかない。 嘘を吐いてはいけない。 顔を伏せ、それからゆっくり、頷く。 「大丈夫か、鷹久」 朔也は歩み寄り、頬に触れた。 男はその手を掴み、力強く抱きしめた。 「朔也……ああ――朔也」 「ここにいる」 苦しさを堪える声に慌てて力を緩める。 「君が……」 「うん」 朔也は控えめに頷いた。 喘ぎ喘ぎ綴る。 「君が死んでしまった世界。私が……私が殺してしまったあの瞬間が……」 邪神の呪いに貫かれ、朔也は息を引き取った。 腕の中で冷たくなり、身体はどんどん重くなっていく。 もう二度と目を開かない。 もう二度と名前を呼んでもらえない。 もう二度と、名前を呼ぶことができない――。 目を覚まして、夢だとわかっても、恐怖は消えなかった。 それだけ、彼の死は生々しかった。 一度体験しているから当然だ。それが再現されただけだ。 脳内に残っているものを、繰り返しなぞっただけ。 本当にそうだろうか。 もしかしたら、こちらの方が夢なのではないか。日々、大きな成功に時々小さな失敗をはさんで、穏やかに暮らし、こうして二人で旅行を楽しんでいる、それこそが儚い……嗚呼、やはり自分は永遠に彼を手に入れることができないのだ。 「ここにいるよ」 夢などではなく、現実にここにいる。 朔也は身体を離し、じっと目を覗き込んだ。 少し疲れた顔で、男は見つめ返した。 それから笑う。 「……鷹久」 「まったく、情けないね」 夢を見たくらいで、情けない。 男は口端で笑い、肩を竦ませた。 すぐに朔也は首を振った。 ひどく真剣な眼差しが、男を気遣って注がれる。 再び手が伸び、男の頬を温めた。 男はすり寄せるように首を傾げた。 朔也、と小さく呼びかける。 彼は無言で頷いた。 「君は、どうしたら私を嫌いになる?」 朔也の目が小さく見開かれる。 沢山の人を巻き込んで、一歩手前まで追い込んで、全てを奪おうとした。 道連れになにもかも消し去ろうとした。 そんな醜い自分を見てもまだ君は、私の傍にいてくれる。 「私も怖いんだよ、朔也。君と同じように、嫌われるのが怖いんだ」 失うのが怖いのだ。 だのに手に入れたがる。 自分のものにして、ずっと傍においておきたい。 傍で笑ってくれたら嬉しいと思うのに、片隅ではそれを怖いと思う。 だからいっそ嫌いになってしまおうか、嫌われてしまおうか。 そんな幼稚で我が侭なことまで考えてしまう。 ずっと傍にいてもらいたいのに。 嗚呼、なんてひどい矛盾。 「人を信じ切るのは、本当に難しいものだね」 朔也を見つめる。 朔也は控えめに頷きながら、じっと聞いていた。 瞳は悲しげに揺れていた。 少しして、自分にも覚えがあるともらした。 ずっと小さい頃、そうだった。 皆に好かれたかった。好きになってもらいたかった。 どうすればいいか――たとえば人に親切にする、一緒に遊ぶ、そういうことをすればいいって、わかっていた。 けれど、それができなかった。 自分はそういうことをしてはいけないんだって、もう一人の自分が止めるんだ。 頭のいかれた汚い子供だから、そんなことしても誰にも好かれない。誰にも見てもらえないって。 だから、本当は死ぬほど好かれたかった、見てもらいたかったけど、嫌いなふりをした。 嫌われるのは怖いから、嫌ってると思われるように振る舞った。 「でもあれは、たまらなく寂しいよ」 今にも崩れそうな声が胸を抉る。 「始めの頃、鷹久にもそうしようとした。嫌いになって、嫌われる寂しさをごまかそうとした。でも違う。駄目だ。自分が自分でなくなる。本当に欲しいものには、そういうことをしたら駄目なんだ」 「……では、どうすればいい?」 男は、少し疲れ気味に息を吐いた。 朔也はしばし目を覗き込み、それからゆっくり抱きしめた。 男も腕を回す。 「もっとしっかり抱いて、鷹久。ここにいるってはっきりわかるくらい、強く」 耳元の囁きに促されるまま、男はがむしゃらにしがみ付いた。 湯上り間もない身体はあたたかく、触れる男も包み込んで芯から安堵させた。 それから朔也は、デッキの片端にあるソファーに男を座らせ、隣に腰かけた。 頭上から、橙色の灯りが降り注ぐ。 富士はもうすっかり夜闇に溶け込んで見えなくなっていたが、正面にあるのはわかった。 昼に見た姿をそこに映して、男は遠く眺めた。 しばらくして朔也は口を開いた。 「俺も時々、夢を見る。起きた時」どちらが本当か分からなくなるくらい「怖い夢を、ずっと小さい頃から」 そして夢だったと分かって、どうしようもなく寂しくなるんだ。 静かな夜に相応しい小さな声で、朔也は淡々と語った。 「あの頃は、当時の生活と正反対の夢をよく見た。お母さんは生きてて……」 どこかぼんやりした響きが、かえって胸を抉った。 男は胸の痛みを堪え、じっと耳を傾けた。 お母さんは家にいる。 妹も一緒だ。 お父さんは酒に溺れてなくて、きちんと仕事をしていて、休みの日にはよく、遊んでくれた。 学校から帰ると、母が優しい声でおかえりなさいって言って迎えてくれる。 まだ一緒には遊べないけれど、妹は自分の顔を見るといつも、嬉しそうに笑うんだ。 「でも全てはただの夢だから、目を開けると、全部消える。そしてしばらく混乱するんだ。どっちが夢なんだろうって」 同じだというように静かに頷く。 そんな男の手を握り、朔也は続けた。 「今も時々、その夢を見る。回数はずっと減ったけど。そして、まったく逆の、あの頃の夢も見る。その、夢の中では、今こんなに落ち着いて生活できているのが夢で、本当の俺は、昨日父親にぶたれたところが痛くて泣きたいのを我慢している、十歳なんだ。こんな生活ができたらいいのにって想像するしかない、小学生になっているんだ」 優しい大人がいるのは全部夢で、本当は、親に捨てられ親に見向きもされない、みすぼらしい子供なんだ。 目を覚まして少しして、ようやく夢だったとわかる。 でも、あまりに生々しくて、混乱するんだ。 もうあれは、すっかり昔になったはずだ。 今は、隣に鷹久がいるんだ。 ベッドの中で、必死にあんたを探す。 そしているんだ、隣に、鷹久が。 朔也は顔を向け、男に微笑んだ。 ぐっすり眠っている顔を見て俺は、ほら、やっぱり夢だったって安心するんだ。 だから、と朔也は続けた。 「俺が隣にいるから、鷹久。だから」 痛いほど真剣な眼差しがぶつかってくる。 双眸がほのかに金色に光った気がして、男は小さく目を見開いた。 同時に唇が塞がれる。 宿に着いた時とは全く違う、熱を煽る淫靡な動き。 誘われるまま男は応えた。 跨る格好で朔也は覆いかぶさった。 唇を押し付け、奥に舌を潜り込ませて、熱を絡める。 接吻を続けながら抱きしめる。舌を貪る。食べ尽くす。 絡み合う二人の息遣いは次第に荒ぶって、互いの肌を焦がす。 朔也は男の浴衣の帯をほどくと、肌蹴させ、下着の上から逆手に男のものを握り込んだ。 そっと、柔らかく。 朔也の口の中で、男が小さく呻く。 どこがより感じるか知り尽くしている手が、的確に攻めてくる。 一気に張り詰めたものをゆっくり撫でられ、先端を指先で優しく舐められ、男は声を抑えきれなかった。 背もたれに頭を預け、朔也を見上げる。 真上にある顔は、うっすらと笑っていた。 自分の技巧が悦ばせていることに喜んでいた。 男も、荒い息を零しながら笑った。 朔也の唇が頬に触れる。喉元にずれる。 感じる箇所を一つひとつたどりながら、朔也はソファーから下り、屈み込んだ。 彼が何をしたいかわかって、腰を浮かせる。 下着が脱がされる。 そして、露わになったものに唇が触れた。 ついばむようなキスのむず痒さに身じろいだ直後、強烈な快感が骨を震わせた。 男はまた声をもらした。 ねっとりと包み込む熱い粘膜、扱く唇の感触、とても我慢などできない。 首を曲げ、朔也を見やった。 顔は伺えない。 時折詰まった声で息継ぎをして、口淫に耽っている。 彼の唇に扱かれる自分のものを見た途端、彼の口腔を犯している様を見た途端、より興奮が極まった。 「ああ……さくや」 いいよ、とても。 喉を引き攣らせもらす。 彼の舌が、先端ばかりを狙って蠢く。 注ぎ込まれる快感のまま高い喘ぎをもらすと、朔也の淫撫がよりいっそう激しいものになる。 男は腰を揺すった。じっとしていられない。 強烈な痺れが背筋を駆け抜け、もう、目の前まできている。瞬間に向かってがむしゃらに突っ走る。 内股が痛いほど引き攣り、熱くなる。 男は切れ切れに呻いた。 彼の口中を汚す罪悪感に震えながら、思いの程を残らず吐き出す。 朔也はそれを難なく受け止め、口を離すことなく全て飲み込んだ。 口中の蠢きを、男はぼんやり霞む意識の中味わう。 舌の震え、喉の揺れ、熱い唇。 全身が蕩けて、どこまでも沈んでいくようだった。 少しだるい手を持ち上げ、朔也の頭に乗せる。 目を上げた朔也と見つめ合う。 しようもなく唇に触れたくなり、男はやや強引に引き上げた。 跨ってくる身体をしっかり抱きしめ、口付ける。 「……愛してるよ」 キスの合間に告げる。 心から想っていると、背中をさする。 「鷹久にそうされるの、大好きだ」 あんたの手は、本当に気持ちいい。 肩口に頭を預けて甘え、そっと啜った息を細く吐き出す。 「私も気持ちいいよ。君に安心してもらえるのは、本当に気持ちがいい」 笑うような吐息が男の耳をくすぐった。 男は、ゆっくり繰り返し朔也の背を撫でた。 少しして、朔也は静かに身体を起こした。 向かってくる眼差しは、いくらか潤みを帯びていた。 自分も同じようなものだろうと男は思った。 まだ、熱が収まりきらないでいる。 静寂の中、しばし見つめ合う。 ややおいて朔也は囁いた。 「今度は俺の中でいって」 男はほのかに笑った。 きっと、むき出しのいやらしい顔だったろう。 けれど止めようがなかった。 彼の挑発はいつも、身体の最奥を狙って放たれる。逃れようがない。 少しせっかちに浴衣の帯を解き、全て脱がせる。 腰を抱き寄せた時、朔也の口から淡い呟きが零れた。 俺を見てよ――と。 男は目を見開き静止した。 初めて彼とこういうことになった時、彼が口にした言葉。 正直に言えば…あまり思い出したくないもの。 どういうつもりで言ったのだろうか。 心意を推し量っていると、朔也は手を掴み、鎖骨の辺りに導いた。 「鷹久が触ってくれたから、傷が、全部消えた」 朔也は顔を伏せて、鎖骨の傷、左肘の傷、太ももの内側の火傷跡それらを、一つひとつ目で追った。 「もう誰に見られても、あの目で、嫌な思いをすることがない」 嬉しさ滲む声が、男の鼓膜を震わせる。 男は小さく息を飲んだ。 実際のところは違う。 彼の身体に残る古い傷跡が消えたのは、ペルソナの力によるもの。 復活が、文字通り彼の身体を生き返らせた。 しかし朔也の中の真実はまた別で、男が力をくれたからだった。 自分の為に零した涙の一粒こそが、蘇る為の力となった。 自分が望んだそのままを、男は叶えてくれた。 朔也の真実はそれだった。 「鷹久は俺の――」 軽々しく口にできない畏れを込めて、朔也はじっと息を潜めた。 男は頬に手を差し伸べた。 指先が震える。 朔也こそ、自分にとって唯一の救い主。 眩しげに眼を眇める。 朔也の顔に浮かぶほのかな笑みが、昂りを一気に引き上げた。 せっかちに頭を抱き寄せ、噛み付くように唇を塞ぐ。 もう片方の手で、朔也の感じるところを首筋から順にたどり、下腹を目指す。 びくびくとよく反応する胸の一点をしつこく指先でくすぐり、その度もれる甘い響きに男はうっとり酔い痴れた。 ふと見ると、きつく反りかえった朔也のそこは絶え間なく涎を垂らし、今にも弾けそうにわなないていた。 「ここだけで、いってしまいそうだね」 「……こんな身体は、嫌いか?」 ほぼ反射的にまさかと言葉が口をついて出る。 朔也の眼差しが、用心深く探ってくる。 男はより大げさに首を振って打ち消した。 彼が、そのことに言い及ぶのは初めてだ。 自分とこうなるよりずっと前から、同性に抱かれることに慣れ切っていた身体。 「まだ――」 話せないことがたくさんある。 わずかに震える唇がそう綴った。 何かを訴えて、朔也の眼差しがまっすぐにぶつかってくる。 訳もなく衝動が込み上げ、男はややせっかちに朔也のものを扱いた。 突然の強い刺激に朔也は高い悲鳴を上げ、しがみ付こうとした。 それを片手で押しやり、そこにとどめ、もう一方の手で休まず愛撫する。 朔也は頬を赤く染めて喘ぎ、手の動きに合わせて腰を揺らした。 ねちゃねちゃと熱を弄る音が夜闇に飛び散る。 「こんなことをする私は、嫌いかい?」 しゃくり上げながら、朔也は即座に首を振った。 激しく首を振り立てた。 「きらいじゃない……大好きだ」 鷹久の全部が、好き。 直後朔也は息を詰めた。 間を置かず、二人の間に白液が噴き上がる。 ああ、とかすれた声をもらす朔也に目を奪われたまま、男は、腹にかかった熱いものを指先でこすった。 彼の想いが、身体の芯まで沁み込んでくるようだった。 「……あんたが好き」 吐精の後の気だるさを引きずりながら、朔也は目を向けた。 まっすぐ受け止める。 「私も、好きだよ……」 愛しているよ。 君でなければ駄目なんだ――告げた途端息もできないほど昂奮が増す。 「朔也……おいで」 熱く張り詰めた己のものに手を添えて、誘う。 朔也は頷き、疼いてたまらないと濡れた声でもらした。 男の背にぞくりと愉悦が走る。 朔也はゆっくり腰を下ろした。 触れた瞬間、細い身体が大きくしなる。 慌てた様子で朔也の手が男の肩を掴む。 男もしっかりと腰を抱き、誘導した。 彼の中に飲み込まれていく感触に、たまらず喘ぐ。 ねっとりと絡み食い締める内部の締め付けが、更に男を酔わせる。 「んんっ……」 零れた甘い声はどちらのものだろう。 根元まで頬張り、朔也の身体がたわむ。 中でびくびくと震えていると告げられ、男は目を眩ませた。 「ああ……奥まで」うっとりした声で朔也は呟いた「あんたでいっぱいに……」 「君の中は熱くて……溶けそうだよ」 首にしがみついてくる朔也を抱き直し、男は歓喜の姿勢を取った。 ぴったりと、一部の隙もないほど抱き合う。 触れ合った肌から伝わる鼓動も、奥で重なり合う脈動も、お互い全部さらす。 頭を撫でながら、男はゆっくり身体を揺すった。 たちまち朔也の口から高い声が迸る。 逸る心のまま、男は繰り返し彼の内奥に欲望を擦り付けた。 次第に息遣いはせわしくなり、しがみ付く腕に力がこもる。 時折腰を押し付けるようにして朔也は身悶え、間延びしたよがり声をもらした。 「そこ、あぁ……鷹久の、気持ちいい……」 もっと、もっと。 駄々をこねる子供さながらのおねだりに喜び、男は段々と動きを激しくしていった。 肉を穿つ音と彼の喘ぎ、そして男のかすれた呻きが混じり合う。 「ああっ……たかひさ、あ、あ……もう」 切羽詰まった低い声が耳をくすぐる。 背骨を甘食みする。 「もう……いきそう?」 同じく耳元で囁くと、朔也はがくがくと頭を振った。 より強く抱きしめられる 「たかひさも、あ……なかで……ああ、おねがい」 「……なに?」 「ああぁ…おねがい、だから」 男の上で、朔也は喘ぎ喘ぎ言った。 「俺を連れていって…どこでも、あんたの好きな場所へ――そこが、俺の行きたい場所だから……そうすれば……お互い、もうっ……こわいこと、なんて……」 もう怖い夢なんて、見ない。 言葉を聞き取った直後、瞼の裏で白い光がぱっと弾けた。 目を刺す眩い輝きは、まさに太陽そのものだった。 その向こうに、男は、堂々たる姿で困難に立ち向かう者を見た。 まっすぐに胸を張る導き手を、見た。 慄きながらも、絶対の安心感に身を委ねた瞬間、身体の奥で熱いものが弾けた。 望み通り彼の中に想いを注ぎ込み、男は喉を震わせた。 朔也もまた、ひと際高いよがり声を溢れさせて身動ぎ、熱いものを吐き出す。 互いの肩の上で、二人は大きく喘いだ。 しばらくして鎮まりかけた頃、また熱い喘ぎが紡ぎ出される。 ぼんやりした橙色の灯りが降り注ぐ中、二人は飽くことなく互いを貪り続けた。 ここにいることを確かめる為に、確かにする為に、何度も、何度も。 |
汗ばみ、いささか疲れた身体を、湯船に沈めて癒す。 隣で同じように浸かる朔也を、男はそれとなく見やった。 洗い髪をかき上げ、露わになった額が無性に愛しく思え、男はそっと抱き寄せて接吻した。 口付けると、笑いに似た吐息がふと零れた。 途端に気恥ずかしさに見舞われ、男はかき消す為に愛していると告げた。 すると、穏やかで、安心しきった眼差しが注がれ、男の心を包み込んだ。 「考えたけど、何も浮かばなかった」 唐突に朔也は口を開いた。 目配せで聞き返した。 続く言葉ではっきりする。 「鷹久を嫌いになること」怖かったけど、想像してみたんだ「嫌われても、俺は好きなままだ。離れても、ずっと想っている。もし、殺されそうになったら? 誰かを傷付けたら? どれも、鷹久はしないって、想像ができない」 「……だが、実際に私はしたよ」 「そうだよ。あれも鷹久だ……でも想像できないんだ」 朔也はきっぱりと首を振った。 何故ならあんたは戻ってきたから。 向こう側へ行ったきりではなかったから。 「俺を、こちらに取り戻してくれただろ」 男は大きく息を吐いた。 安心したように。 呆れたように。 愛しさがどこまでも胸に広がってゆく。 自然と笑みが零れた。 「君が言うと、そうなれる気がする。今でも私は……弱いままだが、君が言ってくれるから、叶う気がするよ」 言葉にすると、より強く心がそちらへ傾いたように思えた。 叶うよ、と、朔也は熱く囁いた。 結局のところ、こうした単純なひと言が何より救いになるのだ。 「ありがとう、朔也」 愛してるよ。 他でもない彼が言ってくれるものは、男の一番の力になる。 改めて思い知る事実に、男は安心して笑った。 「それで、一つ言っておきたいのだがね」神妙な顔付きになる朔也に、男は続けた「私は決して、君を嫌いにならないよ」 「俺だってならない!」 すると思いがけず大きな声が返ってきた。感情に合わせて、湯が波立つ。 眼差しはきつく強張り、心底腹を立てているのが伺えた。 当然だと、男は猛省した。己の下らない夢のせいで、彼はあらぬ疑いをかけられたようなものなのだ。 彼は決してそんなことをしない。 証明する為にどれほど努力を重ねているか。 それを、自分のつまらぬ弱さのせいで否定されかけたのだ。 怒りを抱くのも当然だ。 嗚呼、息が苦しい。 腹の底がどこまでも冷えていく感触に身震いし、男は顔を俯けた。 「本当に、その通りだ。馬鹿なことを言って済まなかった」 ぎゅっと唇を結んだ顔で、朔也は首を振った。 それがどことなく泣きたいのを我慢しているように見え、更に後悔が深まる。 美しく整った顔に浮かぶ悲嘆が、胸を軋ませる。 殴られなかっただけでも有り難く思う。 一方で嬉しく思うのだ。 彼にこれほど強く思ってもらえることが、まっすぐぶつかってきた怒りが、たまらなく嬉しかった。 浅はかさに恥じ入りながらも、感情が複雑に絡み合う。 朔也の手が、そっと男の手を握る。 「どこにも行かなくていいって、鷹久は言ってくれた」 その言葉が、自分は本当に欲しかった。ずっと小さい頃から、言ってもらいたいと思っていた。 それを、そのまま、鷹久は言ってくれた。 「それでも俺は、時々」怖くなって、聞くことがある。 人を信じ切るのは難しい。 信じているのに、時々違うものが心に潜り込む。 重たい雨が降ることがある。 「こんな日もある。でも、明日は晴れるよ」 男の顔をまっすぐとらえ、祈りに似た声で朔也は囁いた。 小さいが、はっきりと男の耳に届いた。 晴れる日もある――悪いことばかりではない。 誰よりそのことを知っている人の言葉が、男の鼓膜を震わせた。 だからもう、おしまい。 そして、二人の間で確立させた決着の言葉を口にする。 優しい響きは男の胸に沁み込み、芯までじっくりあたためた。 息を吹き返したようだった。 「愛しているよ朔也」 男は繋いだ手を引き寄せ、抱きしめた。 抱き返してくれることに心から感謝し、安堵し、ゆっくり目を閉じる。 今日はきっと、怖い夢を見ずに朝を迎えられることだろう。 そして目覚めた時、隣に彼がいる幸せを噛み締めよう。 |