晴れる日もある
木の葉色、空色、深緑、新緑…皿の縁をぐるりと取り囲むリーフは順繰りに色を変え、規則正しく並んでいる。 そこに乗せられた苺のショートケーキを朔也と一緒に味わった男は、改めて皿を観察し、美しさに軽く唸った。 大きさもちょうどよくて、良い器だ。 ごちそうさまの言葉と共に皿の感想を沿えると、朔也はどこか恥ずかしそうに頬を緩めた。 ありがとうと照れ臭そうに肩を竦めた後、そそくさとキッチンへと向かう。 その、まだ慣れていない硬さも含めて、男はしみじみと愛しさを噛み締める。 彼はほんの数日前まで、困難な戦いの最中にあった。 ようやく勝利を獲得し、また穏やかに笑えるようになった。 また一つ乗り越えた。 恐らくこれからも、同じように戦いを繰り返すことだろう。 最中は苦しくてたまらないが、決して手を離すような真似だけはすまいと、男は心に固く誓っていた。 彼の手を振りほどくなど、できるわけがない。 何故なら、戦いに打ち勝って共に笑う瞬間は、なにものにも代え難い喜びだからだ。 彼が教えてくれたもの。 じっくりと味わう。 男は、片付けが終わった頃合いに口を開いた。 来月の下旬、何日頃、一泊旅行に出かけないかと持ちかける。 え、と問いかけるように、朔也の目が大きく見開かれた。 カウンターを挟んで向かい合い、男は続ける。 「今度は山の方へ、避暑に行こうと思うのだが、どうだい?」 富士が望める湖畔の宿に泊まろうと思っているが、行くかい。 「行きたい」 朔也は何度も頷きながら言った。 顔には弾けるような笑みが浮かんでいた。 子供らしい、無邪気な笑顔。 期待に目はきらきらと輝き、嬉しさが迸っていた。 男は心から満足し、早速予定を立てねばと取りかかった。 その日の内に宿を取り、次の週から、観光にどこをめぐるか、仕事を終えた後に日々二人で予定を詰めていった。 たった一泊の小旅行だが、ガイドブックを隅々まで調べ、テーブルに広げた地図に印を付け、消して、また書き込んで、少しずつ組み立てていく。とても愉快だった。 朔也はもちろん、男もはしゃいでいた。 前回はなにしろおっかなびっくりで、何から何まで手探りだった。 それでも充分楽しかった。 意義もあった。 あの旅行をきっかけに、様々なことが変わり、物事は動き始めた。 こんな風に、二人で旅行の計画を立て、わくわくするまでになった。 昼食は地元の名物を食べよう。 こことあそこのミュージアムに寄ってみよう。 時間が許せば、丁度時期のフルーツ食べ放題に挑戦してみよう…行きたい場所がいくつも浮かんでくる。 朔也は、土産物屋に殊更に心惹かれていた。 試食で、また、綺麗な顔を見たいのだと、やや興奮気味に語った。 美味しいと満足する土産を買う喜びを、また味わいたい。 前回、男が叶わなかった一つだ。 今度は自分の番だと、男は心密かに決意する。 「それから、もう一つ行きたいところがある」 朔也は言いながらガイドブックをめくり、中ほどのページを開いて男に見せた。 テーブルに身を乗り出し、男は覗き込む。 朔也が見せてきたのは、地元で有名なワイン工場の特集のページだった。 「試飲もできるそうだから、鷹久にどうかと思って」 男は小さく息を飲み、朔也の顔をちらりと見やった。 純粋な好意なのは、ひと目でわかった。 目的地は日本でも有数のぶどうの産地で、それ故ワインの製造も盛んだ。 朔也はその情報を、男の為に役立てようとした。ウイスキーの他に、ワインやブランデーを嗜む姿を、時々目にしていたからだ。 男はまずありがとうと感謝を伸べ、それから言葉に気を付けながら、車を運転するから無理なのだと、やんわりと断った。最後にもう一度、気持ちはとても嬉しいと付け加える。 そこでようやく自分の過ちに気付き、朔也は大慌てで謝罪した。 気の毒になるほど顔が引き攣っているのを見て、男はすぐさま宥めにかかる。 身近でなかったから間違えただけで、覚えたから、今後は間違えたりしない。 失敗を過剰に恐れる彼に、ゆっくり言って聞かせる。 「本当にごめんなさい」 「ああ、わかっているとも」 男は笑って頷いた。 そこでやめておけば、問題はなかった。 しかし男は、続く言葉を飲み込み忘れた。 「それに君は、実のところ、酒飲みは嫌いだろう」 今度は男が失敗する番だった。 朔也の顔色がさっと変わる。 しまったと思う間に空気は冷えていった。 朔也の顔に浮かんだ怒りの赤は一瞬にして青ざめ、何か云いたげに動いた口は結局何も綴らないまま閉じられた。 硬く口を噤んで、朔也はよそへと目を逸らした。 嗚呼、なんてことだ…男は自分自身に愕然とする。 しばらくの間、二人は石のように押し黙ったまま座り続けた。 つい先刻まであった楽しい雰囲気は消え去り、重く冷たい空気が足元にわだかまる。 頭が締め付けられるような沈黙が、一分、二分と続く。 ふとある瞬間から、時計の秒針がやけに音を響かせ耳に届いた。 じわりと汗が浮かぶ。 何と言えばよいか、謝るべきかそれすらも思い浮かばなかった。 余計なことを口にして、彼を傷付けてしまったのだけは間違いない。 踏み込んではいけない場所だった。 欲張った報いだ。 彼が酒飲みに対して…父親に対して、どれだけ激しい感情を抱いているかよくわかっていたはずだ。 それでも彼は自分の隣に座ってくれた。 それ以上何を望むことがあるのか。 今になってこんなへまをするとは。 男は、深い後悔の渦に沈み込んでいった。 彼は今、何を考えているのだろうか―― どれくらいか経った頃、朔也は静かに口を開いた。 「車の免許を取るのは、難しいか」 何らかの非難の言葉を浴びせられるとばかり思っていた男は、予想外の質問に目を瞬いた。 朔也の目は、まだ逸らされたままだった。 「いや――」 真意を測りかね、言葉に詰まる。 向き不向きがあり、生まれ付いてのセンスを問われる部分もあるが、概して難しいということはない。 「君ならば、すぐに取得できるだろう」 頷くようにして、朔也は顎を引いた。 それからゆっくりと、視線が男に向けられる。 「鷹久は、特別」 「……え」 「酒を飲む人間は……」 朔也はその先を言わなかった。 嫌いだと言いたいのはわかった。 そして、そんなひと言では済ませられないほどのたくさんの感情が込められていることも、理解できた。 「前は違うって言った。嘘をついた。俺は本当は、酒を飲む人間が……」 「わかってる。わかっているから、朔也。言わなくていい」 大丈夫だと、安心させるように男は頷いた。 悲しみに歪む朔也の顔を、これ以上見たくはなかった。 「でも鷹久だけは、特別なんだ。本当に」 「それも、わかっているよ」 ありがとう。 男はゆっくり立ち上がり、回り込んで寄り添うと、必死に訴えかける朔也の頬に手を差し伸べた。 強張った気持ちがすこしでもほぐれるよう、優しくさする。 瞳には絶望が浮かんでいた。 「ごめんなさい……嘘をついた」 男はゆっくり首を振った。 男の中では、嘘をついた内に入らなかった。 しかし朔也にとっては重大な過ちだった。 男との約束を破った。 積み重ねてきた信頼が一気に崩れてしまった…怯えと絶望とが、顔にありありと浮かんでいた。 ふと、ずっと以前の、まだ彼をこのマンションに住まわせて間もない頃のことが思い出された。 暗い部屋で一人、怯えていた彼が思い出された。 信じてくれる人に疑われ、嫌われることを恐れ、必死に身の潔白を証明しようとした彼。 懸命に信頼を築こうとしていた彼の姿が、脳裏を過ぎった。 あれから、彼は約束を守り一つずつ積み重ね、信用を獲得してきた。 それが今、ここで、崩れてしまった…そう、思い込んでいるようだった。 これを消すのは容易ではない。 だから男は上辺だけの慰めでごまかすのではなく、肯定し宥めることにした。 嘘を吐いた時、どうすればお互い収まるのか、例を作り上げる。 男はゆっくり口を開いた。 「そうだね、そして君は謝った。私は受け取った。だからもう、そのことはおしまい」男はもう一度頬をさすった「私こそ、嫌な言い方をした。君に謝りたい。本当に済まなかった。許してくれるかい?」 朔也はとまどいながら頷いた。 「本当に?」 「本当だ。鷹久は悪くない」 「そうか。でもおかしいな……」男はわざと深刻そうな顔付きになって唸った「ならどうして君は、私ににっこりしてくれないんだい?」 すると朔也は一瞬面食らった顔をした後、真面目くさった目付きになり、それからゆっくりと微笑みを浮かべた。 幾分ぎこちなかったが、凍りついて淀んだ空気を洗い流すには充分だった。 「ああ、その顔だ。良かった」 男は安心したとばかりに笑って、朔也を胸に抱いた。 すぐに朔也も、しがみ付くようにして男を抱き返した。 「本当に、悪かったね朔也。許してくれ」 「鷹久は――」 「悪かった。失敗した。君に嫌な思いをさせた」 心から詫びる。胸がねじ切れそうに痛くてたまらない。 男の腕の中で、朔也は大きく首を振った。 「そんなことはないって、鷹久は、あの時」 初めて酒を飲む姿を目にして、離れて座り込んだ時、そんなことはないと言ってくれた。 安心しきったため息を吐き、朔也は続けた。 「事実鷹久はそうだった。俺がいてもいつも静かに、穏やかに、隣にいてくれた」 始めは怖かったものが、どんどん薄れていった。 だから特別になった。 「俺がいてもいいってことを、鷹久は証明してくれた」他の色んなことも、そうやって教えてくれる「だからもう、あの……それはもう、おしまい」 「そうだね。ありがとう、朔也」 小さく笑い、愛していると男は囁いた。 自分もと答え、朔也は息を啜ると、細く吐き出した。 「それで、免許というのは?」 身体を離し尋ねる。半ば予想はついていた。 「俺が運転できるようになったら、鷹久は、違反を心配しなくていいから」 果たしてその通りだった。 男は頬を緩め、しみじみと朔也を見つめた。 「君は本当に、優しい子だね」 「鷹久が優しいからだ」 朔也は真剣な瞳をぶつけて言った。 色んなことを教えてくれるから、自分はここまでできるようになった。 特別な人だ。 まっすぐ見上げてくるひたむきな眼差しに目を細め、男は顔を寄せた。 しばし一つに重なる。 それから計画の続きに戻り、彼の提案を有り難く受け取って行程に盛り込む。 試飲は出来ないが、買い物が楽しみだ。 そう言うと彼は喜び、少し残念がった。 自分を第一に考えてくれる彼がたまらなく愛しかった。今回もまた、彼ばかりが喜びはしゃぐ番になりそうだが、自分はまた受け取るだけになって少々悔しい思いを味わいそうだが、どっぶり浸かるのも悪くはない。 彼の好意に甘えて、たっぷり浸ろうではないか。 だから男は、来年は頼むと予約を入れた。 すると朔也はぱっと顔を輝かせ、喜んでと引き受けた。 小さな戦いが幕を閉じた。 |