晴れる日もある

 

 

 

 

 

 小高い丘の上に建つ美術館に併設された明るいカフェ、二人掛けのテーブルに、少年は行儀よく足を揃えて座り、ゆずの香り立つ緑茶を静かにすすった。
 持ち上げる時も、置く時も、仕草はとても優美で目を引いた。
 向かいに座った男の目を引いた。
 そしてそれ以上に目を捕らえるもの。
 彼の、興奮に潤んだ二つの瞳。
 ついさっきまで観賞していた絵画の衝撃に、未だ覚めやらぬ昂りの余韻を湛えている。
 表情は変わらない。
 感想の一つも口にせず、にこりともしない。
 けれど眼差しだけは、彼の内面がどれほど大きく揺れ動いたか如実に表していた。
 否、一つ大きな変化があった。
 観賞を終えてロビーに戻った時、それはそれは可愛らしい仕草を少年は見せた。
 入り口でもらったカタログを胸に抱くようにして両手でさすり、ひと言ありがとうと口にした。

 ありがとう、本当に

 それだけで、彼はすぐまた唇を引き結んでいつも通りのかたい無表情に戻ったが、男にはそれで充分だった。
 それだけで、誘った甲斐があったと思えた。
 つい、カタログに嫉妬してしまうほど。
 きっかけは数日前に遡る。
 たまたまつけていたテレビで繰り返しある有名な画家の美術展開催の知らせが流れ、それに彼が珍しく興味を示したのだ。
 画面に数点の代表作が映る度、息さえも止める様子でじっと見入った。
 好きなのかと問えば、しばし黙り込んだ後、とても小さな声で多分そうだと思うと応えた。
 言いにくそうにしたのは、自分の意見を言うのがつらいからだ。
 彼はなんでもひどく怖がった…というのが分かったのはごく最近のこと。
 瞳に自己抑制の幕を下ろし、言葉を飲み込む。自分を飲み込む。そうすれば気持ちに傷付けられる事もない。
 そうすれば、たとえ傷付けられても自分の中ではなかった事として消し去れる。
 何も起こらなかったと。
 それでいて手酷く扱われ傷を付けられ乱暴に犯されるのを望んでしまう矛盾。
 矛盾を孕んだ憐れさに胸を痛めながらも男は、連鎖で思い出したもの、腕の中で甘く鳴く肢体に熱が疼くのを止められなかった。
 その相手は、今も少し夢見心地の潤んだ眼差しをまっすぐ正面に向けている。
 感動に陶酔している。
 申し訳ない。
 本当に済まなく思う。
 男は胸の内で一心に詫びる。
 居住まいを正す。
 気を落ち着かせる為、コーヒーをすすった。

「鷹久は本当に美しいな」

 飲み込むと同時にそんな言葉が耳に入る。
 耳を疑う。
 うっかりカップを叩き付けそうになり、慌てて動きを抑える。
 今飲み込んだものが喉の奥でひっくり返って、むせてしまいそうだ。
 彼は冗談を言って人をからかう性質ではない。
 つまり素直な感想、本当にそう思ったという事だ。
 そもそも彼は滅多に自分の意見を口にしない。
 その彼が言う事。
 しかし…どこが、と男は己に小さく目を見開く。
 過剰な評価に顔を赤くする暇もない。

「動作がとても綺麗だ」

 美しい目鼻立ちをした少年が、至極真剣な顔でそんな言葉を口にして、自分こそ美しい所作で湯呑を傾ける。
 それなりの礼儀作法は身に付けたが、彼に言われると何と答えてよいやら分からない。
 上手いあしらいのひと言さえ浮かんでこない。
 ようやくのこと、ありがとうとだけ口にする。
 気まずさに視線を逸らすが、すぐにまた戻す。
 夢見心地で、この世のどこも見ていなかった彼の目が、まっすぐ自分を捕らえて、少し潤んでいた。

「一生懸命真似するけど、駄目だな」

 申し訳なさそうに紡がれた少年の言葉。
 言われた事が上手く理解できなかった。
 ようやく理解した時、今度こそ絶句する。
 身に余る光栄に。
 少年の表情は変わらない。
 いつも通り凍り付いたような美しさで、けれど眼差しだけが、熱心に見つめていた。
 力強くしがみつくような必死さに男は引き寄せられる。

 

 

 

 組み敷かれて、少年が濡れた声で喘ぐ。
 煽る甘い声に応えて男はより強く腰を突き入れる。
 まだ日も沈まぬ内から抱き合って、もう、二、三度は昂りを迎えていた。
 家に帰る時間も惜しいと、帰路の途中でホテルに寄って、そこで。
 少年の体内に熱いものを吐き出していた。
 それでも熱は収まらず、少年もまだ鎮まらず、力強く身体を貪る男の腕に酔い痴れ、高いよがり声を漏らして更に煽りたてた。
 誘ったのはどちらだったか。
 ぼんやりと記憶をたどりながら、男はしがみついてくるほっそりした身体をきつく抱きしめた。

「っ……いく――!」

 鋭い悲鳴と共に少年は身を強張らせた。
 張り切った先端から白いものが飛び散る。
 同時に締め付ける力が増し、勢いよく引き上げられ、男もまた低く呻きながら達した。
 しばらく、二人分の荒い吐息が部屋を満たした。
 いくらか息が整ってきた頃合いに、男はそっと口付けた。
 潤む瞳を瞬かせ、少年はぽつりと言った。

「あの絵みたい……」

 どこかふわふわとした、うっとりとした呟き。
 あの絵、というのが何を指すのか、男はすぐに分かった。
 今日鑑賞した中で、彼がとりわけ引き付けられた一枚。
 幸せに包まれたカップルのひと時を切り取ったあの絵を、思い出したのだろう。

「なら…鷹久は……」

 少年は何かを確かめるように自分の唇に触れ、何かを探るように男をじっと見つめた。
 彼が言いたい事をおぼろげながらも掴んで、男は、自分こそそう、幸せに浮かれているとまた唇を寄せた。

 

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