晴れる日もある

 

 

 

 

 

 頭が重いのは、明日の休日を確実にする為に根を詰めたせいか。
 それとも音もなく降りしきる雨のせいか。
 男は玄関を出たところでゆっくりと頭を反らせた。
 肌に触れる空気は、わかるほど湿り気を含んでいた。
 長く息を吐いて、何時間も座りっぱなしで滞った血流をほぐす。
 同時に気持ちを切り替える。
 険しい顔で彼の元になんて行きたくない。
 きっと彼は、星も見えないほど厚く雲に覆われた空に沈んでいるだろうが、だからこそ自分は暗い顔をしていられない。
 大分目処はついたが、まだ安心できない状況にある。
 軌道に乗せてしまえばこちらのものだが、そこにたどり着くまでが遠い。
 それでも男は、一度全ての問題を頭から追っ払った。
 歩き出すと、自然と足取りが弾み始める。
 今までもそうだったように、そして今まで以上に、朔也の部屋を訪れるのが楽しいからだ。
 彼に会って、顔を見るのが嬉しいからだ。
 町を襲った異変、彼に起こった死と復活を境に、彼は驚くほど変わった。
 己を覆っていた厚い殻を打ち破り、文字通り生まれ変わった。
 言葉は増え、表情は多彩になり、始めはひどく遠慮がちだったものを、今は心おきなく披露するようになった。
 愛の言葉は、いつでもまっすぐに投げかけられた。
 熱さと重さに思わずたじろいでしまうこともあったが、男は全て漏らさず受け止めて、投げ返した。
 それでも克服できないものはあった。
 彼は相変わらず問題だらけだった。
 その一つが、今まさに降り出した雨…この日に生まれた苦痛。
 男は、敷地の隅にある自転車置き場の屋根に静かに降りかかる雨を、しばし眺めた。
 予報では、明日も一日雨だという。
 明日は、彼と出かけるというのに。
 背を向け、彼の部屋へと向かう。
 チャイムを鳴らし待つ。
 心がけていた作り笑顔は、いらっしゃいと迎えてくれた朔也の顔を見た途端本物になる。
 頭の重さもいっぺんで吹き飛んだ。

「お邪魔するよ」

 彼自身は、どことなく強張った顔…仕方のないことだが、それでも以前に比べれば翳りはすっかり薄れていた。
 暗さはあったが、嫌だと感じるものではなかった。
 以前はきつく自分を締め上げ、徹底して表情を殺していたが、今は、ひと目でわかるほど沈んでいるのが見て取れた。
 わかりやすくなっていた。
 かえって嬉しく感じた。
 思ったままを素直に顔に出す。それでいいと男は思った。
 言葉で指摘するのは無粋だが、まったく触れないのは薄情が過ぎる。
 男はリビングに入ったところで、先を行く朔也を抱きとめ、頬に軽く口付けた。
 向きを変え、抱き合う形で接吻する。
 直前、朔也は愛してると零した。
 自分もだと、男は抱きしめる腕に力を込めた。
 とっくに途切れていたはずの時間を、繋いでくれたかけがえのない人。
 自分がこうしていられるのは、そしてそれを楽しいと感じられるのは、すべて朔也のお陰だ。
 恐れは相変わらず傍らにある。
 焦燥感が時折心の隅を引っかいて、居心地の悪さに身悶えることもある。
 そんな疼痛を、朔也の存在が癒してくれる。
 完全に消すことができないものを、和らげ、優しく宥めてくれる。
 自分はだから、ここにいられる。

「愛しているよ」

 頬をすり寄せ、感謝する。
 ゆっくり腕をほどくと、見覚えのある鋭い眼差しがまっすぐぶつかってきた。

「寝てないのか」

 心配そうな響きと共に、眦に指が触れてくる。

「いや」少し足りないだけだ「今日はちゃんと寝るよ」

 明日の為にね。
 朔也の唇が何か言いたげにほどけ、閉じられる。

「大丈夫」手を取り、感謝の代わりに指先に口付ける「今乗り切れば、後は問題ない。今、少しの間だけだ」

 基盤さえ整えば、後は楽なんだ。
 伺うような目付きを少し和らげ、朔也は小さく頷いた。
 男もにっこり微笑んだ。
 朔也の高校生活最後の一年が始まる少し前、男は以前築いた伝手とコネを大いに利用し、新たな事業を始めていた。
 そのことは事前に朔也に伝えていた。
 こういった内容のことを始めるつもりでいる、軌道に乗ったら、いずれフルタイムで、まずはアルバイトという形で加わってほしい旨も、同時に伝えていた。
 控えめに頷きながら聞いていた彼は、事業への参加を聞いた辺りから反応をやめ、何とも形容しがたい凝視を男に向けた後、はっきりそうとわかる驚愕を顔にはりつけて睨み付けた。
 いや、睨む勢いで視線をぶつけた。
 それから一拍置いて、椅子を蹴倒す勢いで立ち上がった。
 思わず男は肩を弾ませた。
 彼の反応は、予想から外れていたからだ。
 見守る先で、朔也の顔にゆっくり笑みが広がっていった。
 震える唇が、心を読んだのか、と綴った。
 思わず男は聞き返した。
 朔也は、朔也もまた、一緒に働くことを望んでいた。他のどこかではなく、男の下で男と共に仕事をしたい。そんな野望を抱いていた。
 強く強く、心の中で願い、しかしとうとう言い出せずに心に秘めていたもの。
 それを読みとったのかと、朔也は言いたかったのだ。
 今度は男が喜ぶ番だった。
 ほっと胸を撫で下ろす。
 安堵する。
 しかし手放しで喜ぶにはまだ早かった。
 彼を迎え入れる為にやらねばならないことが、無数に積み重なっていたからだ。
 彼は言った。金の心配をしなくていい生活をしたいと。
 誰かに寄りかかることなく、自分の足で立って…自分で稼いで、自分自身を確立したい。
 自分に何ができるか自分で考え、その何かを、自分の力で獲得したい。
 そんな彼の人生を負うのだ、責任がある。全て完璧に隙なく作り上げなければ。
 その為に、お互いの希望が合致していることを素直に喜べなかった。
 だから男は、今しばらくの間はと無理を続けていた。
 彼に要らぬ心配をさせてしまうのを、もう一度口に出して詫びる。
 朔也はゆっくり首を振り、再び男の頬…少しやつれたそこへ手のひらを当てた。
 それから、肩に顔を埋めるようにして抱き付いた。
 男も抱き返すと、朔也の腕により力がこもった。
 少し息苦しささえ感じる抱擁は、とても心地良かった。
 しばし目を瞑って浸り、ふと目を開けると、視線の端に薄紫のものが過ぎった。
 青味がかったそれは小さな五枚の花弁の野の花で、雨の日の彼を慰めるように水に浮き咲いていた。
 雨の日に起こったことが彼を不安定にさせる。
 そんな心の慰めに、彼はいつもこうして、道端で目にした野の花をテーブルに飾った。
 水に浮かべて、姿を眺め、羨んだ。
 その心情を思うと胸が痛んだ。
 死と復活をきっかけに、彼の身体に刻まれた理不尽な暴力は一つ残らず消え去ったが、穴だらけの器を元に戻すことは叶わなかった。
 そこまで都合よくはできていない。
 結局、これまで通り引きずって生きていくしかない。
 雨の日はやっぱり、救いをより求める。
 いつもより少し強い抱擁がそれを表している。
 それでも以前に比べれば、随分安定してきた。
 彼が歩みを止めないからだ。
 男が心底惚れ込む、羨む強さを彼は持っている。
 そこが好きなのだと心の中で繰り返した時、不測の事態が男を襲った。
 慌てて離れるが、朔也の顔に浮かぶ表情から手遅れだったことが伺えた。
 しっかり耳に届いてしまっていた。
 途端に顔が熱くなる。男は、無様に赤くなっているであろう顔を片手で覆い、しどろもどろに言い訳した。
 今日は、朝に少し食べたきりで、それで、つい――忙しさにかまけて、食事を疎かにしてしまったと説明した。
 それはよくない、と、朔也は途端に顔付きを険しくして、男を叱る。
 男は素直に謝り、言われるままテーブルについた。
 すぐに作ると調理に取りかかる朔也の背中を見送って、男はふと、彼に過ぎった『兄の顔』を嗅ぎ取る。
 彼の母親は、生まれて間もない妹を連れて朔也の前から姿を消した。
 だから彼が『兄』としていた期間は短いし、とても幼かったから、未熟なまま閉じてしまったと思う。
 けれど、母の内に宿った小さな命を知らされた時から、彼は彼なりにお兄さんとしての自分を確立させたことだろう。
 その頃はまだ彼の家族は仲が良く…お腹の大きくなった母と父と共に、童謡を口ずさみながら帰ったあの記憶の通りにあたたかかったから、幼いながら自覚は順調に育った。
 それが時々、今のような瞬間に、ふっと浮上する。 
 彼はずっと年下だが、今のように時々、年長者の責任めいたものを発揮する。
 わずかながら残ったもの。
 彼を確立させる為に必要なひとつ。
 自分にも弟と呼べる存在はいるが、兄としての自分を自覚したことはない。
 その辺りのことは、以前朔也とも話をした。
 自分がいかに薄情かをさらけ出すが、それでも、朔也は余計な口を挟まず聞いてくれた。
 思いもよらぬところで動揺してしまう自分を、優しく抱きしめ宥めてくれた。
 あれも、彼の中にある微かな『兄』の貌なのだろう。
 彼は、本当に強い。
 だからこそ皇帝の器なのだろう。
 自分とは正反対の生き生きとした塊。決して手に入らないもの――愛しい人。
 感心してうっとりと浸っていると、やがて良い匂いが漂ってきた。
 心の芯までくすぐられ、また、腹の虫が鳴った。
 男はまた、顔を覆った。
 朔也とは別の意味で、テーブルの花に救いを求める。
 背の高いグラスに並々と注がれた水の上に、花は浮いていた。
 小さいのに花弁はすらりと整い、白いしべが中央にそっとたたずんでいる。
 目を凝らすほどに引き込まれそうになる。
 指先ほどの小さな存在が、無限に広がっていくのが感じられた。
 不思議な感覚が身体いっぱいに満ちてゆく。
 その片隅で、間に合わせのグラスではなく、もっと花に合った花器があればいいのにとも思う。
 見入っていると、できあがったメインが運ばれる。

「ありがとう」
「強いんだ」

 目を上げると言葉が重なった。
 朔也の視線を追って、男はもう一度花に目を向けた。

「ずっとずっと、強いんだ」

 雨がどんなに降っても、決して下を向かない。
 自分もいつか、こうなりたい。朔也はそう続けた。

「君のお手本というわけか」

 男の向かいに座り、朔也は頷いた。
 それから少し俯き、まっすぐに花を見つめる。
 男も同じく目を向け、朔也へと移し、手を伸ばす。

「大丈夫。君はそこへ歩いていける。君の足ならきっとたどり着く」

 朔也の唇がほんのわずか歪む。
 言葉をその通り受け取ることに大分慣れたとはいえ、まだまだ遠いものもあるだろう。
 特にこの問題は根が深い。
 空っぽではなかった――いつか、朔也が言った。
 いつ――彼の母親が、妹と共に無理心中を図ったという衝撃から立ち直ってすぐの頃。
 長らく閉ざしていた口からまず零れたのは、ありがとうというひと言だった。
 ずっと傍にいてくれてありがとう。
 それから、ごめんなさいと続けた。
 何日も心配させてごめんなさい。
 そして愛してると声を震わせ、空っぽではなかった――絞り出すように言った。
 男は一つずつ丁寧に受け取り、容赦し、最後のひと言の意味を問うた。
 父親からも母親からも捨てられて、自分には何もないのだと、暗闇に放り投げられたようだった。
 流れ出る血も何もない、そんな虚ろで空っぽな人間に思えた。
 でもそうではなかった。
 何もないなんてこと、ありはしなかった。
 少し探ると、すぐに見つかる。
 あっちにもこっちにも、鷹久がくれたものが詰まっていた。
 空っぽじゃなかった。
 喜びに満ちた声で朔也は語った。
 そこまで埋め尽くしても、苦痛の種は残って、こうして雨の日ごとに彼を苛む。
 その表れというべきか、素直に受け取るにはつらいと言うように、眼差しが揺れていた。
 だからあえて男は言い切る。
 内心の不安を抑えて断言する。
 君ならばできると。
 言いながら男は、自転車置き場の左端に置かれた、まだ新しい綺麗なグリーンの自転車を思い浮かべる。
 騒動が収まるまでの間、南条邸に籠っていた頃、彼はクラスメイトから使っていない自転車を借り、広い敷地で練習をした。
 彼はすぐにコツを掴んだ。
 自由にこぎ出せるようになるまで、半日もかからなかった。
 乗れる、乗れると、子供のようにはしゃいでいたのを昨日のことのように思い出す。
 その後マンションに戻り、よくよく吟味して、彼はあの軽やかなグリーンの自転車を購入した。
 件の金が役に立った。良い使い道だと肯定すると、彼自身も不安でたまらなかったのだろう、目に見えてほっとした顔になった。
 泳ぎも同様で、始めは水に顔をつけることに抵抗があったようだが、じきに慣れて、すいすいと泳ぎ出すようになった。しまいには、男が心配するほど潜水を好むまでになった。
 長い事底を探り、男が心配し始める頃ようやく水から顔を出す。その時朔也は必ず男を見て、嬉しげに頬を緩めた。
 そうすることで、何かを自分に納得させているようだった。
 そうすることが、何かを乗り越える為の一連の儀式…男はおぼろげながらそう理解した。
 このように、彼はしたいと思ったことを次々に手に入れた。
 だから。

「君が思うならば、それはできるよ」

 朔也は唇を引き結んだ。
 疑うのとは違う強い瞳が、じっと男に注がれる。
 男もまっすぐ見つめ返し、大丈夫だと頷く。
 そして、以前よりは会話の増えた食事を楽しむ。
 会話のメインは、明日の外出のことだった。
 二週間ほど前、男が切り出した。
 よければ趣味につきあってくれないかと。
 一番忙しい時期ではあったが、だからこそ息抜きを合間にはさんだ。
 朔也と一緒に、趣味の一つである歌劇観賞を楽しもうと思い付いたのだ。
 全くのフィクションが、束の間とはいえ現実から切り離してくれるので、男は昔から歌劇を好んだ。
 申し出に朔也は複雑な顔をしてみせた。
 行きたい、けれど、マナーを知らない。
 だからどうか教えてほしいと続けられ、男は喜んでと引き受けた。そのつもりであった。断られる可能性が傍らに居座っていたので、叶って本当に嬉しかった。
 特別難しい作法はない、普段の生活で守るべき最低限のルールと同様に、時間を守ること、相手つまり演技者に敬意を払うこと、そういったものを心がけるだけでいいと説明する。
 朔也はもともとそういったことにより気を配っている…よくいえば細やかで几帳面、いってしまえば神経質であるので、観賞時のマナーについて改めて説明するまでもなかった。
 服装も、男はこの時間に楽しさを求めているので、あまり肩肘張った装いはあえてせずにいた。
 音やきつい匂いに気を付け、よほどだらしのない恰好でなければ、なんでもいいのだ。
 なんなら、その部屋着にジャケットを羽織るだけで充分だ――それを聞いて、朔也は少々驚いた顔になった。
 自分の恰好をまじまじと見つめる。
 その日の彼は、いつも大体そうだが、ベージュのズボンに首周りのゆったりしたセーターを着ていた。色の組み合わせも素材も、申し分ない。そこにジャケットを羽織り、あとは靴と小物をちょっと洒落たら完成だ。
 そんなものでいいのかと目が語る。
 そう、実は気軽に楽しめるものなのだ。
 事前にあらすじや音楽について知っておくとより楽しいと付け加えると、朔也は予習に取り組んだ。
 そしていよいよ明日に迫り、朔也は予習の成果を男に伝えた。
 朔也との会話を嬉しく思う男だが、どうしても頭の隅で、以前と比べてしまうのを止められなかった。
 懐かしむということではなく、あの頃に戻りたいというのではなく、あの頃はあの頃でまた貴重な時間で、今は今で大切に心に刻んでいる。口数の多さに純粋に驚かされる。
 男は聞き役に回り、彼の予習の成果に熱心に耳を傾けた。
 まるで、彼は、自分にとめられるのを恐れているかのように喋り続ける…そんなことをぼんやり思いながら。
 楽しい時間がいつもそうであるように、気付けばすっかり夜も更けて、そろそろ退去の時刻が迫っていた。
 今日は早めに睡眠をとると、約束もした。
 しかし帰るのは何とも寂しい。
 明日もまた会えるというのに。
 身体の芯を震わせる独特の寒気を何とか振り払い、男は帰宅の旨を告げた。
 朔也は己のコーヒーカップに目を注いだまま、ごく僅かに頷いた。
 強張った視線がどこかを見ているのを束の間眺め、男は立ち上がった。
 朔也も立ち上がり、男の分のコーヒーカップも一緒に流しへと持っていった。
 彼が引きずる恐怖の余韻は、この、見送りを頑として拒む行為にも表れていた。
 ひと言も口をきかず、目も合わせず、きっぱりと存在を打ち消して自室に戻る。
 そうでもしないと、恐怖に押し潰されてしまうのだろう。
 彼の中に残る傷はそれほどまでに深いのだ。
 この日、雨の降る日に、彼は――。
 幼い子供の悲鳴が聞こえた気がして、男は思わず身震いする。
 しかし男は楽観視を辞めずにいた。
 彼は、いくつも、無理だと思っていたものを手に入れた。
 乗り越え、取り戻した。
 つまり打ち勝ったのだ。
 だからきっとこの問題も、いつかは克服できるだろう。
 リビングの戸を静かに閉め、靴に履き替えていると、背後で戸が開く音がした。
 以前同じ状況があった為か、連想で頭の中にチョコレートが過ぎった。
 振り返ると、果たしてそこに朔也の姿があった。
 男は小さく息を飲んだ。
 思わず手元を確認する。手ぶらだった。
 強い凝視を男に注ぎ、朔也は見送りの領域に踏み出した。
 何のためらいもなく朔也は近付いてくる。
 男の方が、緊張してしまうほどに。
 痛いほどの勢いでぶつけられる眼差しを見て、ようやくのこと男は理解する。
 食事の前に見せた彼のあの戸惑いは、決意を表していたのだ。
 新たな一歩を踏み出す勇気を、奮い立たせていたのだ。
 ついに、朔也は男の元にたどり着いた。
 傍まで歩み寄り、朔也は、男に手を伸ばした。
 男は目だけを動かして、成り行きを見守った。情けないことに、驚きと緊張で動けないのだ。
 朔也の手が、男の袖口を摘まむ。
 全身が一気に熱くなった。
 それから彼は、ほのかな声でこう言った。

「また明日」

 問いかける真剣な瞳を見つめ返し、男は、遠慮がちに掴まってくる手を取った。もう片方の手も取り、握り締め、微笑んで返す。
 また明日、と。

「おやすみ、朔也」

 名残惜しいとわずかに潤む眼差しに手を上げ、ゆっくり扉を閉める。
 少しして、鍵が閉まる音がした。
 手のひらに残る熱の余韻に目を落とし、男は思う。
 彼がどれだけのものを獲得できるのか、見守っていきたい。
 その為に生きたいと。

 

 

 後日、男はガラスの花器を彼に贈った。
 祝福を込めて。
 また、朔也に強さを教えた、小さな野の花に敬意を表して。

 

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