晴れる日もある

 

 

 

 

 

 卒業式の翌日に計画している旅行の最終的な打ち合わせをする為、男はちょっとした手土産と共に朔也の部屋を訪れた。
 今までほとんど旅行らしい旅行の経験がなく飛行機に乗るのも初めて、知識が乏しい朔也の為に、男はスーツケースの選び方から荷物の詰め方から、色々と指南した。
 彼は何でも真剣に聞き、工夫を学んでは、都度尊敬の眼差しを向けた。
 どれもほんとうにちょっとしたもので、それにしては大げさな反応で、悪くはないが男は少々のむず痒さを味わう。
 事前に渡していたリストに沿って用意された衣類や雑貨を、パズルよろしく詰め込んでいく。
 みるみるうちに大量の荷物が収まっていく様に、朔也の顔が驚きと笑いとをいったりきたりする。
 ファスナーをしめながら男は笑い返した。
 そこまで感動されると、いっそ気分がいい。

「前日の夜に、もう一度確認しよう。さて、ではお茶にしようか」

 確認か済んだら一緒に食べようと、冷蔵庫に手土産の和菓子を預けていた。

「ありがとう」

 頷いて立ち上がり、朔也はキッチンへと向かった。
 男も後に続く。
 ふと目に入るキッチンの食器棚には、以前のように白く素っ気ない食器ばかりが並んでいた。
 というのも、もう間もなく卒業を迎えるからだ。
 この部屋を出る時が近付いているからだ。
 この部屋を出て、朔也は、男と一緒に暮らす。その日が近付いているので、必要最低限の身の回り品だけ残し、ほとんどを男の部屋に運び込んでいた。
 荷物は少なかった。以前は必要最低限だけで、本当にろくに何も持っていなかった。男と過ごす内に彼は自分を見出し、理解し、それにつれて一つまた一つと色がつき物が増えていったが、同じ年頃の子たちに比べればやはり少なく、何往復もすることなく移動は終わった。
 部屋は元々家具付きの物件だったので、運搬に苦労したものといえば、朔也が買ったソファーくらいだった。
 それにしたって、休憩なしでひと息に運べる代物だったが。
 そういった訳で部屋はまた元のように、がらんとして、少々寂しい空気に包まれていた。
 もちろん男には、隣に朔也がいてくれるならばどんな場所でも楽園に見えるが。
 男は一足先にテーブルに着き、カウンター越しに朔也を眺めた。
 彼の優雅な動きを眺めるのにもってこいの場所。ささやかながら幸いを感じるひととき。
 朔也は冷蔵庫から箱を取り出し、用意した皿に移そうとふたを開けた。
 一瞬、小さく肩が弾むのを、男は見て取る。
 自分の選んだ茶菓子に驚いてくれたなら、嬉しいのだが。
 餡の甘さが好みで、贔屓にしている菓子屋がある。そこでは月ごとに異なる生菓子を作っていて、味もさることながら見た目も本当に美しい。
 今の季節は、間もなく春が訪れるということで梅や萌える若草、菜の花をあしらった和菓子が店先に並んでいる。
 その中から、彼の好きな野の花の風情が感じ取れるものを二つ選び、箱に詰めてもらった。
 彼は甘いものが苦手だが、嫌い、食べられないという訳ではなく、用意すれば残さず口にした。
 時にはあの誕生日のケーキのように、喜びに似た表情を浮かべることもある…単なる自分の思い込み、錯覚、こうだったらいいという願望かもしれないが、今まで見てきて、少なからず彼を理解できている。
 嫌がっている表情でないことは、間違いない。
 だから、少しでも喜んでもらえたなら、嬉しいのだが。
 丸盆を手に、朔也もテーブルにやってきた。

「ありがとう」

 男は湯呑を受け取った。
 朔也は椅子に座らず、テーブルの脇に立ったまま、じっと男を見つめた。
 どうしたのかと男が目を上げると同時に、愛の言葉が贈られる。
 思わず面食らう。
 言葉はもちろん嬉しいから、すぐに気を取り直し、笑って贈り返す。
 しかし何に対して言ったのだろうか。
 朔也は静かに腰を下ろした。
 丸い小皿にのった和菓子を見つめ、朔也はこんなに綺麗なもの、と呟いた。
 そうだろう、と、男は心の中で満足げに頷く。同じ感想をもってくれたことが、ささやかだが、嬉しかった。

「鷹久がくれるものは、いつも、びっくりするようなものばかりだ」

 今まで見たことのないものや、知らないことを、いくつも教えてくれる。
 馬鹿みたいに聞こえるかもしれないけれど、と前置いて、朔也は目を上げた。

「鷹久が何かを――それはこういったものだったり、知識だったり。それらを貰うたびに、俺は特別なんだなって思えて、本当に幸せな気持ちになるんだ」

 最初は怖かったけれど、今はもう……本当に、嬉しい。
 恥ずかしさからか、それとも未だ心に根付く恐怖の一種からか、朔也の表情はどことなく引き攣り声も小さかった。
 男は軽く首を振った。少しでも気持ちが和らぐよう笑いかける。
 馬鹿げているなんて、そんなこと、ちっとも思わない。

「君は特別だよ。私にとって君は本当に、特別だ」

 そして自分もまた、彼にとって自分が特別であると思われたいと、素直に吐露する。
 自分も、ずっと昔から誰か、何かから、特別な存在であると証をもらいたがっていた。
 言葉や、錆ついた古い書物の一節などでは満足できなかった。
 かえって疑いが深まっていった。
 救いのない日々、恐怖と絶望…とりわけ絶望が強く身に迫る。
 そして一つの邪なる思想に縋った。
 ひび割れて穴だらけの器を持つ自分だから、それ一つ持って恐怖と絶望の中でのたうちまわり結末を迎えるのだろうと、諦めきっていた。

「君は、本当の特別とは何かを、私に教えてくれた」それを、言葉で説明するとなるととても難しいが「お互いにね、朔也、特別なんだよ」

 男は笑いかけ、小さく切り分けた和菓子をひと口頬張った。
 話している間、朔也はとても熱心に耳を傾けた。控えめに瞬きして、表情さえ逃すまいと心を傾ける様は、しようもなく可愛かった。
 いっそ気恥ずかしいほどに。
 心の中で反芻しながら、男は口にした程良い甘みを噛み締めた。
 味わっていると、先程までとは少し違った視線が注がれているのを感じ取る。
 そういえば、いただきますと言ったきり、朔也はまだ手をつけていない。
 男はもう一度すすめようとした。
 それより先に朔也は口を開いた。

「俺にも、あの……俺もいつか鷹久みたいに、綺麗な顔で甘いもの食べられるようになる?」

 控えめに綴られた言葉に男は目を瞬いた。
 どうしても慣れない行き過ぎた称賛に頬がかっと熱くなるが、すぐに落ち着きを取り戻し、どういうことなのかを尋ねる。

「俺は本当はそんなに、甘いものが嫌いというわけじゃない。鷹久が時々こうしてくれるものや、誕生日のケーキも、本当は」

 ただ、あの頃――。
 あの頃、いつのことだろう。
 彼が語ろうとしているのは何なのか、何を吐き出したいのか。
 声音に気をつけて訊く。
 朔也は息を啜り、細く紡いだ後、静かに口を開いた。

「思い出したくなくて、もうずっと忘れようとしていることがある。でも、そうすればそうするほど、忘れられないんだ」

 男は黙って頷き先を促した。
 思い出したくない昔のこと…施設にいた頃のこと。
 初めに、駅で保護された後の一ヶ月、父親が引き取りに来るまでの期間と、父親が亡くなった後、親戚に引き取られるまでの期間の他に、朔也は何度か施設に保護されたことがあった。
 その辺りの話は、以前も聞いたことがあった。
 何度も、家と施設とを行ったり来たりの生活をおくっていたんだ、と。けれどその時の生活がどうだったかについては、彼は詳しく語ろうとしなかった。
 施設はそこそこ優良だったようで、時折耳にする胸の悪くなるような問題はなかったようだ。
 今思い返せば事務的な部分がとても多かったけれど、少なくとも、あそこは安全だった。
 以前、朔也はそう語った。
 しかし口ぶりはひどく素っ気なく、まるで投げ捨てるように言葉を放った。
 引っかかりを覚えた。
 言いたくないことは、無理に話さなくていい、一番初めに彼とした約束。
 だから男も、語りたい以上のことは決して尋ねず、彼の気持ちに任せて聞き役に徹した。
 だから、その頃の生活がどうだったかを詳しく聞くのは、今回が初めてに等しい。
 思い出したくないものが、その頃の生活に詰まっているということか。
 父親から虐待を受けていた以上に、思い出したくないこと。
 男は目線を送った。
 朔也の手が、左耳のピアスにかかる。
 今は並んで座っておらず、男の手が遠いので、そこに縋ったのだろう。
 男は心の中で詫びて、彼の心が落ち着くまで静かに待った。

「なんであんなことをしたのか、自分でも分からないんだ」

 手を下ろし、朔也はゆっくり続けた。
 どんなこと、と男はそっと言葉を挿んだ。

「食事の時や、おやつの時間に」

 そこで一旦言葉が詰まる。
 男は極力動作を控えた。
 朔也は俯き、心底恥じた顔で和菓子を見つめ、眼を眇めた。

「人の分まで取って、食べた」

 空腹だったわけじゃない、それは覚えている。
 施設の人たちは、粗暴で卑しい六歳の子供もきちんと世話してくれた。
 ただ、人の持っている分が、何故だか憎らしく思えて、誰彼構わず奪い取って片っ端から食べた。
 とんでもなく意地悪で、卑しくて、人の嫌がることばかりしていた。
 そのころのことを思い出すから、忘れたいのに忘れられないから、甘いものを遠ざけていた。
 行き過ぎて、味がよく分からなくなってしまった。
 本当は、甘いお菓子は好きだよ。
 甘くて、美味しくて、幸せな気持ちになるよ。
 でも、だから嫌いだ。
 怖くなる。

「自分の後ろに、あの頃の自分が立っているような気がして、怖くなるんだ」

 男は飲み込むように頷いて、それから静かに尋ねた「小さな君は、どんな顔をして立っているんだい?」
 朔也の瞳がはっとしたように見開かれた。
 そんなこと考えもしなかったと言うように、訝る顔付きが向けられる。
 しばらく戸惑った後、朔也は一心に考え込んだ。
 自分自身を見ようと、懸命に集中しているのが伺えた。
 それはとても難しい作業だろう。
 なにせ、今までずっと遠ざけてきた。見ないように無視して、知らんぷりを決め込んできた。
 今になって向き合うのは、本当に難しいことだ。
 それでも朔也は努力した。
 男は、彼の邪魔をせぬよう息も潜めて待ち続けた。
 長い長い沈黙の後、朔也は息を啜り、細く吐き出して、言った。
 あげたいな、と。

「なにを、あげたい?」
「これまで足りなかった分を、あげたい」

 そんな顔をしている気がする。
 朔也は目を上げた。
 男は意識して目を見合わせた。

「そうか。じゃあ、あげよう。君が食べて満足するものを、分けてあげるといい」

 満足感を分け与えて、じっくり時間をかけて、癒していくといい。
 男の頭の中で、もしかしたらと結びつくものがあった。
 以前何かの折に親戚から聞いた話、朔也は、あまり食べることを好まないようだ…恐らくは、今話してくれたあの頃のことが影響しているのだろう。
 誕生日のケーキというものに過剰に反応して、逃げてしまったのも、この辺りが複雑に関係しているのだ。
 仕草ではなく目線で、朔也は頷いた。

「こんな話、聞かせてごめんなさい」
「そんなこと。私だって、君に色々と聞いてもらっている。お互い様だ。それに、私に話すことで少しでもすっきりできたなら、幸いだよ」そう言うと朔也はひどく遠慮がちながら、わかる程度に頷いた。男は微笑し続けた「君がどうしてその頃そんな意地悪をしてしまったのか…君自身もいくらかは想像がついていると思う。そんな自分をどうするかは、君次第だ。無理に押し込めなくていい。それもまた君なのだから。私は、仕方がなかったのだなと、思うよ。これで君を非難したり、軽蔑することはまずない。そこは安心してほしい」

 朔也はまた頷いた。表情はひどく強張っていた。
 少しして、ようやく気持ちが落ち着いたのか、柔らかな微笑に頬を緩めた。
 それから、小さな声で聞いてきた「美味しい?」
 視線は和菓子に向いていた。男も同じく皿に目を落とし、おすすめだよと笑いかけた。

「ありがとう」

 いくらか潤んだ瞳が向けられる。
 お茶を入れ直してくると、朔也は立ち上がった。
 カウンターを回り込んで用意する後ろ姿を眺めていると、背を向けたまま鷹久、と呼びかけられた。
 どうしたと、男は応えた。
 振り返り、カウンター越しにまっすぐ立って、朔也は言った。

「俺は、鷹久に釣り合わない」

 一瞬息が止まる。

「俺は、本当は、大嘘吐きで……本当に汚くて、卑しい」
「……朔也」

 そういうのはよしてくれ…喉元まで言葉が出かかる。
 今更そんな言葉、聞きたくもない。
 そんなもので気持ちが揺らぐからではない。
 そんなことはないとは、言わない。否定はしない。汚い、卑しい部分はとっくに受け入れている。
 そんなもので揺らぎはしない。
 ただ、もう、彼の口から、彼自身を卑下する言葉を聞きたくない。
 できることなら言ってほしくないのだ。
 たとえこの先、何度繰り返されようと、自分の気持ちは変わらない。
 ただ、悲しい言葉はもう、口にしてほしくない。
 そんなに自身を責めないでほしい。
 男は懸命にこらえた。
 朔也の目がとても真剣だったからだ。
 男もまたしっかりと視線をぶつけた。

「でも、少しずつできることが増えてきた。少しだけど、鷹久の役に立つことができるようになってきた」もっと努力すれば、もっとできることが増える「だから余計に思う。自分のことがわかればわかるほど、思うんだ。俺は一生、鷹久とは釣り合わない」
「………」

 卑下するつもりで言っているのではないのが、瞳から伺えた。
 朔也の眼差しには、言葉ほどの悲観は見られなかった。
 強い決意が宿っていた。
 どんなに暗いものでも跳ね返すほどの輝きがあった。
 男が愛してやまない…一生手に入らない…強さがそこにあった。
 男はゆっくり立ち上がり、カウンターを挟んで朔也と向き合った。
 朔也は一旦目を落とし、持ち上げて、続けた。

「そんな、俺は…でも俺は、鷹久についていく」鷹久に誇りに思ってもらえるように「あの日俺を見たのは、間違いではなかったと、思ってもらえるように」

 あの日というのがいつなのか、聞き返さなくても男には分かった。
 朔也が、自分の中に光を見出してくれた時のことだ。
 ひどい仕打ちをした後だった。その上金でことを済まそうとした。だというのに、彼は、そこに鮮やかな晴れ間を見たと言った。
 確かに、あの時初めて、互いの目がぶつかり合った気がする。
 宣言に男は大きく二度ほど頷いた。
 彼が至極真剣なのは充分わかるのだが、どうにも笑いだしてしまいそうでしようもなかった。
 釣り合いなどと、そんなに大げさに考えることではない。
 自分はそこまで大した人間ではない。
 ふと、目の端に黄色いものが過ぎる。
 男が以前彼に贈った、小さなガラスの花器、それに浮かべられた野の花の黄色。
 彼が手本とする、強さ、たくましさの象徴。
 男はしばし目の端で眺め、朔也に戻した。
 自分の方こそ、彼のように強さを備えた美しい人とは釣り合わない…だのに嗚呼どうして彼はこんなにも。
 男は感情の赴くまま彼を引き寄せ、その柔らかな唇に接吻した。
 自然とお互い抱き合う形になる。
 二人の間にある距離は、このくらいではないだろうか。
 ほんの少し回り込むだけで、すぐに縮まるもの。
 そうだったらいいのにと、男は心から願った。
 そのまま一時間でも二時間でもいたいと思いながら、ゆっくり離れる。
 名残惜しさに視線を絡ませていると、どちらからともなく笑いが零れた。
 男は両手に包むようにして頬に触れた。

「君を何時間も待たせてしまったあの日のこと……未だに悔しく思っている。今更変えようがないがね。君は、寒さに耐えてずっと待っていてくれた。怖い思いを抱えて、それでも私を信じようと必死に努力してくれた。そして」己の命を賭けてまで、私をこの世に連れ戻してくれた「それが間違いではなかったと思ってもらえるように、全力で君と生きるよ」

 朔也は、頬を包む男の手に一旦触れると、同じように手を伸ばした。
 形良い唇が、愛してると綴る。
 男は束の間目を瞑り、心地良さに浸った。
 そこに束の間、恐怖が過ぎる。
 彼を喪うあの忌まわしい瞬間が蘇ったからだ。
 男は小さく息を啜り、ゆっくり吐き出した。
 半ば無意識に朔也を真似た行為は、思いの他落ち着きをもたらした。
 目を開け、しっかりと見つめる。
 目の前に、手の先に、彼は間違いなくいる。
 もう二度と失いたくない。
 あんな光景、見たくもない。
 けれど、きっと、彼は自分を助ける為ならば何度でもそうしてくれるだろう。
 一切のためらいもなく、まっすぐに。
 身がよじれるほど恐ろしいのに、誇らしくもあった。
 愛してるよ、朔也。
 安心しきった笑みが手の中で広がる。

「君は、知らなくていい思いを味わって、苦しんで……それでもここまで来た。どうだい? そして来月には、海を越えて旅をする」

 興奮に似た面持ちで目を瞬き、朔也は頷く。

「全部、鷹久が俺に教えてくれたんだ。俺にもこんなことができるんだって、鷹久が。俺は、本当に――」胸に詰まる言葉に息を飲み、朔也は続けた「本当に、愛してる」

 自分も愛してるよと囁き、男はもう一度顔を寄せた。
 新たに注いだ緑茶を啜りながら、朔也は小さく切り分けた練り切りを口に運んだ。
 あまり目立たない喉仏が上下する。
 そして。
 真正面で固唾を飲んで見守っていた男は、彼の顔に広がる笑みにほっと肩を落とした。
 本当に優しくて、綺麗な顔だと、しみじみ思う。

 

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