晴れる日もある

 

 

 

 

 

 卒業までもう間もなくの、比較的穏やかな週末の朝。
 約束の時間ぴったりに尋ねてきた朔也を見て、男は頬を緩めた。
 髪を切り、小ざっぱりした姿につい笑みが零れる。もう何度もこの前後を見ているが、切ったばかりの姿はいつ見ても可愛らしさがにじみ、自然と目尻が下がった。

「いいね。似合うよ、とても」

 指の間に通すようにして、髪をすく。
 切ったのはほんのわずかなものだが、長さに慣れていた指がちょっとした違和感を味わう。
 はにかむように肩を竦め、朔也は小さくありがとうと呟いた。
 その仕草もまた可愛らしかった。
 すっきりした耳元で、白金の輪がきらりと光る。
 何気なく目を向けた時、前よりも露わになったうなじが見てとれ、わけもなく胸が高鳴った。
 ゆっくり唇に触れる。
 首にぶら下がるようにして朔也が腕を回してきた。
 男も抱き返し、もう一度髪を撫でる。

「では、行こうか」

 今日はこれから、富士山が見える場所へと車で向かうことになっていた。
 朔也のリクエストによるものだ。
 先週男がドライブに誘った時、行き先の希望を聞いたところ、いくつか場所を調べたのだが、と、地図を差し出された。
 高台の公園と、郊外の海岸。
 いずれもこの時期ならば澄んだ空気の向こうに富士を望める絶好の場所だった。
 遠くて大変なら、なしでいい。鷹久の行きたいところに連れていってほしいと、添えられる。
 そう言われて、希望に応えない馬鹿者はいない。
 それを見越しての計算など朔也は決してしない、だからこそ男は、すぐさま快く了解した。
 たとえ本当は計算があったとしても、無論、承諾したが。
 彼が喜ぶことを、一番目に置きたい。
 それは無意識の自分の為かもしれないがとにかく男は、できることに全力を注いだ。
 出発から小一時間ほどで目的地に着く。
 男が選んだのは高台の公園だった。
 海岸から望む富士も見ものだが、今の時期海からの風は凍るようで、身体に堪える。下手をしたら体調を崩してしまうだろう。せっかく楽しんでも、後から具合を悪くしたのではつまらない。高台も風は強かったが、海辺ほどではない。
 朔也には、あまり寒い思いはさせたくなかった。 
 出会ったばかりの頃、彼はいつも薄手のコートを羽織っていた。
 だから男は、てっきり、寒さに強いのだと思っていた。大きな間違いだった。
 自分は頭のいかれた汚い子供だから、あたたかい場所にいてはいけないのだという間違った思い込みと、深い罪悪感とに囚われて、憐れに震えていたのだ。
 そんな呪縛もようやく薄れ、他人からの言葉にも怯えを示さなくなったので、男は、良い機会だと二度目の聖夜に手袋とマフラーを贈った。
 ちょうど今、彼が身につけているのがそうだ。
 寒くはないかと尋ねると、朔也ははるか前方の雄大な姿に向き合ったまま、ほんの小さく頷いた。
 すっかり心を奪われて、声も耳に入らぬ様子だった。
 男は、むしろ嬉しかった。
 朔也に倣い、富士に向き合う。
 傍に歩み寄ると、以前港町で戯れに教えた言葉が彼の口から零れた。
 すぐに風にさらわれてしまったすげーのひと言に、男はますます愛しさが込み上げるのを感じた。
 嗚呼本当に、そのひと言に尽きる。
 彼と見る世界は、とても色鮮やかで美しい。

 

 

 

 朔也が調べたのは、富士が望める場所だけではなかった。
 帰り道に寄ってほしい場所として事前に渡されたのは、都内でも評判の洋菓子店だった。
 一番の目玉はアップルパイで、男の好物の一つ、甘いものに当てはまる。
 それは、自分の我が侭を聞いてくれた男への朔也なりの礼だった。
 何と言えばよいやら、男は途方に暮れる。
 色んなところへ連れていくと、約束した。
 朔也の為に、自分の為に。
 だから、こんな風にお返しなど考える必要はないのだ。彼が楽しいなら、自分も充分楽しいのだから。
 だのに朔也は受け取るだけを好まない。
 自分にもできることを一生懸命考え、与え、尽くす。
 だから男は途方に暮れる。
 真っ先に浮かんだのはもちろん、喜びだった。同じくらい、それ以上に、泣いてしまいたい気持ちが込み上げる。
 こんなにもひたむきに思ってもらえることが嬉しくて、信じられず、未だにみっともなくうろたえてしまう。
 行ってくると、少し混雑した店内へ入ってゆく朔也を見送って十分ほど後、どこか誇らしげな顔で箱を手にさげ、彼は戻ってきた
 もしも人目がなかったなら、抱きしめて何度も礼のキスをしたことだろう。
 嬉しいことを素直に嬉しいと味わう自分を笑いながらも、男は、どこまでも舞い上がった。
 マンションに戻り、箱を冷蔵庫にしまう。
 ここなら遠慮もいらないと、男は抱き寄せ口付けた。
 触れた頬は、驚くほど冷え切っていた。
 風邪を引かせてはいけないと、バスルームへ誘う。
 そっちこそ冷たいと、朔也は両手で男の頬を包み込んだ。じわっとぬくもりが染み入る。
 そのまま、連れていってくれてありがとうと、彼は極上の笑みを見せた。
 たまらずに男は腕に抱き、唇を重ねた。
 抱き合う形になり、しばし一つの影になる。
 その後湯船に浸かったかどうか、記憶が定かではない。
 いつベッドに移ったやら思い出せない。
 しかし、彼の身体をまさぐる手の指の先まで温かいのなら、組み敷いた身体がほんのりと上気しているなら、そうしたのだろう。
 目線で誘われ、彼の中に分け入った時、より確信する。
 湯上りの熱さと心地良さに、男は半ば我を失って貪った。
 歓喜の姿勢で男にしがみ付き、全身を引き攣らせ朔也が喘ぐ。

「たかひさ……あっ…もう、いく……」
「もう少し、私を……」

 男は縋るように腰を抱き寄せ、震えながら呻いた。
 朔也は何度も頷き息を啜った。
 男を飲み込んだそこに力を込め、動きに合わせて腰をよじる。
 吸い付くような愛撫に男はかすれた声を漏らし、より強く腰を打ち込んだ。
 だめ、ああ…だめ。
 激しさを増した攻めに朔也はいっそう切羽詰まった声を上げ、それでも必死に堪えて男を待った。

「出すよ……朔也」

 耳たぶにかかる囁きに低く呻き、また頷く。
 はやく、きて。
 直後隙間もないほど埋め込まれ、奥に昂りが放たれる。
 内側の奥深くでわななく熱に泣きそうな声を上げ、朔也は身悶え白濁を吐き出した。
 痙攣は一度で終わらず、男の腕の中で名を呼びながら二度三度と繰り返し仰け反った。
 力強く支える腕に安心して身を預け、駄々をこねるように身じろぐ。
 つらそうな呼吸はすぐに収まり、深い喘ぎが続いて、それもじきに止む頃、朔也は全身を弛緩させて男にもたれかかった。
 愛してる。
 言葉と共に、少し疲れた様子の手が、男の髪をまさぐった。
 存在を確かめるかのような動きに男は笑い、うっとりと浸って目を瞑る。

「私も愛してるよ朔也……」

 そう言って抱き直す。
 笑うようなため息が、男の耳をくすぐった。
 たったそれだけでぞくぞくっと身体の芯が痺れ、彼の中に入ったままの熱の名残が勢いを取り戻す。
 膨れ上がる感触におののき、ごくりと喉を鳴らし朔也が喘ぐ。
 男の腕が優しく仰向けに横たえさせる。
 真上になった顔を熱っぽく見つめ、朔也は擦り付けるように腰を蠢かせた。
 複雑に収縮して甘食みする内部に男は眉根を寄せ、しばし技巧に酔う。
 欲望のまま腰を打ち込む。少し浅いところを、せっかちに。
 それが彼のいいところを刺激したのか、だめ、いっちゃう、と、滅多に聞けぬ甘ったるい声が漏れた。
 忙しなく息が漏れる唇をわななかせ、緩く首を振ってまた、だめ、と濡れた声を零す。
 激しく突き込んでくる男を押しやるように、腰に手を当てる。
 朔也は、見せることにも聞かれることにも恥じらいはなかった。行為の最中はいつも、素直に言葉を口にした。少し上ずった高いよがり声が漏れる度、男は目も眩む快感に幾度となく酔った。
 それでも今のように舌ったらずに甘える仕草は滅多にないことで、男は己が異常に興奮するのを止められなかった。
 押しやろうとする朔也の右手を握り、手の甲に接吻する。それだけでは足らず、指先を咥え、吸って、舌を絡める。
 流し込まれる淡い快感に朔也が震えを放つ。
 男はその手を彼の頭上に持っていくと、シーツに押さえ付けた。
 表情は変わらなかったが…やはり、彼の目にわずかな怯えが過ぎった。
 男はもう片方の手も同じ場所に押し付けると言った。

「両手でしっかり掴まって。私は、ここにいる」

 彼は、強く押さえ付けられるのを嫌う。昔の記憶が過ぎるから。
 だから男は、一方的な拘束にならぬようしっかり目を見て告げる。
 濡れた睫毛を何度も瞬かせ、朔也は頷いた。無防備に、どこまでも落ちてゆく身体の支えに、男の大きな手を両手にしっかり掴む。
 男は朔也の両手を片手に任せ、空いたもう一方の手で彼の胸元をまさぐった。
 小さな一点を責めると彼の身体がひと際大きくわなないた。
 合わせて内部がきゅうっと締め付けを増す。
 脳天が痺れる快感に甘く酔い痴れ、男は突き込みを続けた。
 頬を朱に染め、朔也は動きに合わせて高い悲鳴を切れ切れに漏らした。喘ぎの合間に何度も気持ちいいと繰り返し、首を振りたくる。
 幾分短くなった癖のある黒髪を乱し、朔也は我を忘れた様子で大きくよがった。
 嬌声を紡ぐ濡れた唇を塞ぎ、男は深く舌を絡めた。
 口内で蠢く男の舌に噛み付かんばかりに吸い付き、高い悲鳴と共に朔也は昂りを放った。
 渾身の力を込めて握りしめる朔也の手を同じだけ握り返し、男はしばし動きを止めた。
 達した余韻で内部が絞り取るように蠢くが、こらえ、受け流す。
 長い潜水からようやく陸に戻ったかのような激しい息遣いが、朔也の唇から絶え間なく漏れる。
 それがいくらかおさまり、朔也の身体から少し強張りが抜けたところで、男は動きを再開した。
 苦鳴が上がる。
 続けざまに責められるのはさすがにつらいだろう、朔也は大きく身体をしならせた。
 それでも男は自分を止められなかった。
 朔也を求めるのを抑えきれなかった。
 朔也はきつく眉根を寄せ、おかしくなると訴えた。
 眦には涙が滲んでいた。よく見ると零れた跡もあった。
 男は手を押さえたまま覆いかぶさり、涙の跡に接吻した。

「いいよ……私に全部見せて……全部だ」

 目を見合わせ、朔也の下部に手を伸ばす。触れると、朔也の唇から苦しげな吐息が漏れた。そこは何度も放った熱のせいでどろどろに濡れそぼり、いやらしく乱れていた。
 見ると、より興奮が高まった。
 男はそっと手に包み、まだ柔らかなそれを優しく撫でまわした。
 先端を親指で舐めると、たちまち芯を帯びて硬くなる。
 同時に朔也の唇から嬌声が迸り、見えない手となって男の身体じゅうをまさぐった。
 男は手にした若い熱を扱きながら、激しく腰を打ち込んだ。
 朔也はびくびくと身体を痙攣させ、高い声で泣き喚き、宙に浮いた足で何度も空を蹴った。押さえ込む手から逃れようと暴れ、身をくねらせた。
 それだけ切り取れば、ただ彼を痛め付けているものだが、強過ぎる快感に啜り泣きながらも朔也はもっとと求めた。
 気持ちいい、もっと、お願い。
 欲しがってよがる姿に後押しされ、男は更なる高みを目指した。
 喘ぎ声、呻き声、肉を穿つ音も相まって、淫靡な空気が二人をねっとりと包み込む。
 何も考える余裕もないほど、二人は互いを求めて溺れた。
 名前を呼び合い、息も止まる程の甘美な快感に酔い痴れ、一つに溶けてゆく。

 

 

 

 ベッドに並んで横たわり余韻に浸る二人を邪魔せぬよう、天井近くで空調は静かに稼働していた。
 熱が鎮まると、身体のべたつきが気になりだして、早くシャワーを浴びたいと思うのだが、男は朔也の髪をすくのをやめられずにいた。
 ほんの少し短くなっただけなのだが、手は覚えているもので、あとちょっとと物足りない気がして何度もたどってしまう。
 それが面白く、また単純に楽しかった。
 横向きになって身体を丸め、眠るように目を閉じた朔也の顔を眺めて、男は髪をすく。
 何度目かの時、閉じていた瞳を開き、朔也はそっと息を啜ると、卒業式までに、と漏らした。
 男は手を引っ込めた。

「卒業式までに、母と妹の墓参りに、行こうと思う」

 声は小さく、今にも消え入りそうだったが、強い意志が込められているのは間違いなかった。
 どこか痛むのか、朔也は険しい顔付きで眉根を寄せた。
 恐らくそれは本当の痛みではないだろう。身体の痛みではなく、心から発せられるもの。
 時が、きたのか…男はわずかに眼を眇めた。
 去年の末に朔也が起こした、ちょっとした騒動が頭を過ぎった。
 未だに何がきっかけだったのか朔也は口にせず、また自分もあえて聞かずにいるがとにかく、彼は去年の末、突然思い立ちある場所を目指して家を出た。
 それは、彼が四歳の頃彼を駅に置き去りにして妹と共に無理心中をはかった母親が、まさに命を絶った場所。
 彼女の生家近くの山奥深くが、朔也の目的地だった。
 しかしその時は、まだ決意が固まりきっていなかった。そのせいで彼はたどり着くことができず、また帰るに帰れず、夜遅くまで連絡が取れない状態が続いた。
 心配かけてしまったことを悔い、たどり着けなかった自分を嘆き、彼はすっかり疲れ切ってしまった。
 男は言った。
 必ず、その時は来る。
 見極める為に待ってみるといい。
 わかる時が来るのだ。
 そしてついに、彼は見つけたのだ。
 そうかと、男は短く応えた。
 他に言葉が思い浮かばなかった。彼がようやくそのことに向き合えるのは、いいことだと純粋に思った。しかし口には出さなかった。出せない。彼の中の、踏み込んではいけない場所なのだ。控えて、その代わり想いを込めて髪をすく。

「ずっと、行かなきゃって思ってた。でも」

 途切れてしまった言葉をいたわるように、男はゆっくり頭を撫でた。
 でも。
 二度目の言葉は、響きが変化していた。
 険しかった表情がふっと和らぐ。

「ようやく、色んなことがうまくいくようになってきた」

 色んなことが、楽しいと思えるようになった。
 朔也の眼差しが、まっすぐに男を捕らえる。

「俺にどんな価値があるのか、それはどうやったら見つけられるのか――鷹久は、たくさんの事を教えてくれる」

 自分は何も手にできない、そんな資格なんてないというのは、間違いだと、教えてくれる。

「見つけ方、歩き方を、教えてくれる」

 感謝のこもった熱っぽい瞳に男は小さく笑う。
 朔也も笑い返した。
 だから先に進めると思う。
 そのきっかけにする為に髪を切ったのだと、朔也は続けた。
 男は頷き、大丈夫だよと投げかけた。

「君の思う通りにしなさい。すべては君のもの、君の自由だ。したいと思うこと、何でも試してごらん。今まで以上に、世界が開けることだろう。君の手は、一体どれほどのものを掴むことができるだろう…楽しみだよ。もし私が必要になったら、いつでも言ってくれ。私はいつだって、君の隣にいるよ」
「ありがとう、鷹久」

 朔也はこれ以上ないほど幸せそうな顔になって、男に腕を伸ばした。
 男は抱き返し、胸にすり寄ってくる朔也に頬を寄せた。

 

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