晴れる日もある
どこか遠くから、さーっと雨の音がする。 始めは聞き流し、すぐにはたと気付き男は目を開けた。 明け方のホテルの室内。 ほのかに明るく空気はやや冷たく、隣のベッドにいるはずの朔也の姿が見当たらない。 そこでぴたりと雨の音が止んだ。 少しして、静かに扉を開け閉めする物音がし、ああ、朔也が用足しを済ませたのだ…ようやくのこと、理解する。 雨音は手を洗っている音だったのだ。 ほっとして、持ち上げていた頭を枕に戻す。 今の音で起こしてしまったと思わせたくなかったので、男は目を閉じた。 と、微かな足音がすぐ傍で止まる。 顔の辺りでふわっと空気が揺れたかと思うと、あたたかい手のひらが頭に触れてきた。 どうしたと、目を開けて尋ねる。 目の前には、いつかスケート場で見た、心をむず痒くさせるあの慈愛に満ちた眼差しをした少年がいた。 「起こしてごめんなさい」 気にすることはないと男は笑う。何か云いたいことがあるのだろうと、予感めいたものが胸に過ぎる。 申し出は妙なものだった。 「頭、撫でてもいいか?」 「うん? どうぞ」 頬を緩める。 男は、彼に撫でてもらうのが好きだった。彼の手はとても優しくて、心地良いのだ。 いささか照れ臭くもあるが、本当に気持ちが良い。 何を思っているのだろうと思案していると、ほっとするため息が耳に届いた。 愛しさがぽっと胸に咲き、心をあたたかくさせた。 「起きるにはまだ少し早いね。よかったら、隣においで」 誘うと、ありがとうという囁きと共に朔也は身体を寄せてきた。 男はしっかりと抱き寄せ、軽く目を閉じた。 ひと呼吸の後、朔也は静かに口を開いた。 「昔を、思い出したんだ」 「いつの頃だい?」 男は目を閉じたまま聞き返した。 「小学校に上がったばかり」 明け方のひんやりした空気に、朔也の低い声が零れる。 「何を思い出したか、聞かせてくれるかい」 頷く揺れが、隣から伝わってきた。 そしてまたひと呼吸おいて、朔也は語り出す。 小学校に上がっても、夜中に粗相をして度々布団を汚していた、あの頃。 以前、聞いたことがある。 男は目を瞑ったまま頷いた。 混乱した環境で、精神的な安定が得られないせいで、本来ならとっくに収まっているはずの失敗をしてしまうのだろう。 こんな話、恥ずかしいだろうに。 それでも話をしたい彼の気持ちを尊重し、男は口を噤んでいた。 また少し沈黙があり、つかえながら、朔也は続けた。 「それで、ある時、夜…やっぱりしてしまって、夜中に目が覚めたんだ。近くでは父親が、酒に酔って寝ていた」 大きないびきが怖くて、目を覚ました父親にまたぶたれるのが怖くて、震えながらずっと顔を見ていた。 言葉で激しくなじられ、罰と称して鬱憤晴らしのような暴力を振るわれる。 靴べらで叩かれることが多かった。 背中や尻をこれでもかとぶたれるのだ。 ある時などは、水の張った浴槽に顔を沈められたこともあった。 今度は何をされるんだろう。 アパートの二階で、すぐ近くに街灯があったから、その光が入って、ぼんやりだけど顔はよく見えたんだ。 本当に怖くて、苦しくて、がたがた震えながら寝顔を見ていた。 そうか…男は呟き、より強く抱きしめ背中をさすってやる。 言い尽くせないほどの怒りや憎しみがあることだろう。それでも彼は「ばーか」のひと言で過ぎたことと過去へと手放し、乗り越えた。 本当に強い人。 心が震える。 「トイレから戻って、鷹久の顔を見たら、急にそれを思い出したんだ」 男は目を開け、ゆっくり朔也に向けた。 「私の寝顔は、どんなものかな」 目を見合わせてから、朔也は言った。 「撫でたくなった」 愛してる。 呟きながらまた頭を撫でられ、男はむず痒そうに笑った。 「私もだよ、朔也」 ため息にも似た微笑を漏らし、朔也は嬉しげに身じろいだ。 もう少し、いいか。 ごくささやかな声が空気を震わす。 男は同じくらいの小声で応えた。 「昨日は、上手く言えなかったけど、お父さんとお母さんのこと」そこで朔也は一旦言葉を切り、男の手を求めた「あの……許すというのとは、違う気がするけど」 男も握り返す。 「仕方なかったんだな、って思えるようになったんだ」 幼かった為に、その頃何があったのか、朔也はほとんどまったく覚えていない。 母は妹と出てゆき、酒に溺れた父と自分が残された。 父親は元から酒にだらしなかったのか、それとも母に出ていかれた悲しみから逃げる為に、酒に溺れたのか。 以前、男に尋ねたこと。 大人は悲しい時、酒を飲むこともある。 だとしたら、父の逃げも、仕方がなかった。 「俺も本当に、悲しかったから」 酒に逃げて、自分を見失うのも、わからなくもない。 「俺だって、よくない事に逃げた」嘲笑めいたため息を漏らす「俺もお父さんと同じなんだ」 「いいや」 小さいがはっきりとした声で言って、男は目を見合わせた。 「君はお父さんやお母さんとは違うよ」 下手な慰めならいらないと顔をしかめる少年に笑いかけ、男は言う。 「君は違う。とても強いよ」 何故なら。 「君は逃げたままではなかった。変えようと努力して、ついにここまで来た。道に迷った私を、ここまで連れてきてくれた。君は本当に強い子だよ」 ありがとう、日下部朔也 男は、命の恩人の名を、大事に綴った。 朔也はわずかに睫毛を震わせると、そっと息を啜った。 「覚えているかい? 以前私の事を、神様かと聞いた」 朔也は小さく頷き、今もそう思っている、と、熱く呟いた。 男は穏やかに笑い、口を開いた。 「私からすると、君こそが神様だよ」 朔也は伺うように男の目を覗き込むと、頬に向けてゆっくり手を伸べ、優しく撫でさすった。 二度、三度。 それから、穏やかな顔付きで目を閉じ、男の頭を胸に抱き寄せた。 男は小さく驚き、すぐに満足そうに微笑んだ。 彼は己がどうあるべきか、ついに見出したのだ。 口端を緩め、朔也はありがとうと言葉を紡ぐ。 髪をすく手に自分の手を重ね、愛していると男は応えた。 登りくる朝日が、窓のカーテンを白く浮き上がらせる。 窓の向こうにはきっと、旅立ちの日にふさわしい晴れた空が広がっていることだろう。 男はもう一度、愛しているよと囁いた。 頭上で、愛しい人がふふと笑った。 |