晴れる日もある

 

 

 

 

 

 終業の時刻を迎え、お互いにお疲れ様と言い合った後、男は来週の予定…朔也の誕生祝いを自分の部屋で行いたいと、口にした。
 途端に朔也は、まず驚いた顔付きになって目を見張り、それからしばらく声を失った。
 時折唇が何か云いたげに動くが言葉は出ず、長い沈黙の末ようやく、去年、と震える声で言った。

「去年……あんなことになったから、今年は作ってもらえないかと、思っていたんだ」

 いっそ悲痛な面持ちの朔也に笑いかけ、男はまさかと軽く肩を竦めた。

「君は、全部食べてくれたじゃないか」

 嬉しかったよと告げると、自分もと朔也は答えたが、眼差しはまだ後悔を引きずっていた。

「君が背負ってたものは、去年のあの時に全部流れ出た。だから今年はきっと、何も起こらない。大丈夫、平気だよ」

 確証はない。もしかしたら今年も同じことの繰り返しになるかもしれない。来年も、その次も、やはり同じ混乱が彼を苛むかもしれない。
 だからこそ男は、自分の言葉が彼の救いになっているのを利用し暗示をかける。
 身の内でわだかまっていたものは、去年のあの時に全部流れて消えた。
 だから今はもう何もない。
 何の心配もなく、純粋に楽しめる。
 少しだけ、朔也の瞳が上を向く。
 男は目を見合わせた。
 去年の誕生日に起きたこと。
 かねてから約束していた、男の心尽くしの手料理と、自分の為の特別な一つ、豪華な誕生日ケーキを前にした時、朔也は激しく取り乱した。
 といって、料理の皿をひっくり返し、暴れた訳ではない。
 いつになく乱暴に…力が抜けたように椅子に座り、呆然と目を見開いて、テーブルを見つめた。
 混乱は外ではなく内側で起こった。
 朔也自身、自分が未だにそれを抱えていたなんて、露ほども思っていなかった。
 寸前まで、心から、楽しみにしていた。
 かねてから約束していた、あの美味いパエリアに喉を鳴らした。
 続いて出てきた二人分に丁度良いホールケーキも、その時までは本当に待ちわびていたのだ。
 だというのに、実際目の前に置かれた途端、何とも形容しがたい衝動が込み上げてきた。
 目の奥が痛むと同時に涙がどっと溢れてきた。
 抑える間もなく涙が零れ、息が乱れた。
 慌てて顔を隠し泣きじゃくる朔也に、男はしばし言葉を失う。
 こうなる予感が全くなかった訳ではないが、ここまで彼の心に食い込んでいた、残っていたとは、正直思っていなかった。
 すっかり落ち着いて、過去のものになったと、思い込んでいた。
 だが、考えてみれば当然だった。
 彼が良くない事に逃げたきっかけが、これだったのだから。
 親戚の人間に殺意を抱いた瞬間。
 幼いころからずっと夢に見続けたものを、目の前にした時、彼はどうしようもない怒りに支配された。
 それだけのものが、そう簡単に消える訳はないのだ。
 男は胸が激しく痛むのを感じた。
 これ以上の痛みがあるだろうか――。
 声をかけられなかった。
 何と言ってよいやらわからない。
 どんな言葉だろうと、何かを言えば彼が泣いているという事実に触れることになり、より強く彼の心を抉ってしまうだろう。
 だからただ、おろおろと、見守ることしかできなかった。
 すると朔也の方から、助けを求めてきた。
 ひっひっとしゃくり上げながら、両手で強くしがみついてきたのだ。
 男はしっかり抱き返した。
 深くうなだれ、途方に暮れて泣き続ける子供を胸に抱きしめる。
 永遠に続くと思われたが、実際はそれほど長い時間朔也は泣き続けなかった。
 涙が止まった後も、男は息遣いが元に戻るまで抱きしめていた。時々背中をさすり、肩に触れて、お互いがここにいることを確かにした。
 ようやく部屋に静寂が戻った頃、朔也は逃げるようにトイレへと駆け込んだ。
 激しく泣いたせいで気分が悪くなり、少し戻してしまったのだ。
 中々帰ってこない朔也を心配して男が様子を見に行くと、朔也はトイレの前で立ち尽くしていた。
 左耳のピアスに指をかけ、少し俯き加減に突っ立っていた。
 また胸が痛んだ。
 声をかけると、もう平気だと答えた。
 しかしそれはひどく細く、心許なかった。
 そのまま粉々に崩れて消えてしまうのではないかと、慄くほどだった。
 だから男は、料理が無駄になってしまうのは後回しに、何より朔也を優先し、このまま休むことを提案した。
 けれど朔也は食べたいと欲した。テーブルに戻り、料理に手を伸ばした。男が心配するほどの食欲を見せた。
 前と同じく、泣いて疲れて、かえって空腹を感じたのだ。
 トイレの前から中々動けなかったのは、こんな自分を見せるのが恥ずかしくて、葛藤していたからだった。
 それでも食欲には勝てない。何より、ずっと前から約束していたこと、待ち遠しく、楽しみに心弾ませていた。
 三日ぶりの食事かと思えるほどの熱心さが無性におかしく、またしようもなく嬉しくて、男は堪え切れず笑いを漏らした。
 すると朔也は目を上げ、じっと男を見た。
 まだ少し腫れが残り、潤んだ目が、まっすぐ注がれる。
 恥ずかしそうに、申し訳なさそうにしていたが、朔也は手を止めなかった。
 熱く滲む眼差しが語るものに耳を傾け、男も料理を口に運ぶ。
 嗚呼、彼の目が云うように、最高に美味い。
 なんて幸せだろう。
 切り分けたケーキの最初のひと口を頬張った時、朔也はほのかに笑った。
 今もくっきりと目に浮かぶ、安心しきった極上の微笑を思い出しながら、男は重ねて約束する。

「大丈夫。今年は最初から最後まで、楽しい誕生日になるよ」

 何も起こらないよ。
 一緒に美味い物を食べて、ケーキを頬張って、嬉しい気持ちだけが胸に湧くと、はっきり言葉にする。
 朔也はしばし男の目を見つめた後、ありがとうと囁いた。
 男は肩に手をかけた。

「この一年で、君は、実に様々なことができるようになった。色んなものを獲得した」

 それができたのは、鷹久がいてくれたお陰だと、朔也は感謝の笑顔で言った。
 男も微笑み、愛しい人の頬を撫でた。

「だから、覚悟を決めることだ」

 朔也の眼差しが一瞬面食らう。

「私は、君と生きていくと決めた。何があってもそれは変わらない。たとえどんなに面倒だろうが厄介だろうが、全部飲み込んでみせよう。君が私にしてくれたように」

 知っての通り、自分は大した人間ではない。弱くてずるい臆病者だ。
 それでもしっかり掴んで受け止め、まっすぐ見てくれた。

「君はそれができる強い人だ。だから君も、覚悟を決めなさい」

 以前、彼は言った。自分が一番難しいと。
 自分のことなのに、自分自身でも上手くコントロールできない部分がある。
 その瞬間までは平気だと思っていても、いつ、何が爆発するかわからない。
 自分でもわからないのだ。
 それでも男は覚悟を決めた。決意した。
 人間が面倒なものだなんて、もうとっくに知っている。
 とっくに受け入れている…だから愛しいもの。
 共に生きていくと、受け入れた。

「面倒なりに、ここまで来たんだ。この先も行けるとも」

 二人でなら。

「どこまで行けるか、一緒に試してみようじゃないか」

 笑いかける男に、朔也もまた強い笑顔で頷いた。

 

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