晴れる日もある
朔也の失敗は本当に、失敗とも呼べない種類の異なるものだった。しかし彼にとっては紛れもなく失態で、間違えたことは何より恐れるものだった。 動揺していたのはほんの一秒二秒だったが、目に見えて顔は青ざめ息遣いも乱れていた。 それらをどうにか飲み込んだあと、朔也は、笑顔でわびを口にした。 今度は男が動揺する番だった。 見覚えのある人懐こい笑顔…昔の悪い癖。 彼にとって失敗はそれほど恐ろしいのだ。 以前とは見違えるほど快活になった。 感情の赴くまま笑うことを楽しむようになり、少しずつではあるが、自分の意見を口にできるまでになった。 それが、たった一つの失敗で塗り潰されてしまった。 作り笑いでごまかしたまま、朔也は変わらぬ仕事ぶりで淡々と作業をこなしていった。 その下では、どれほどの恐ろしさを味わっていることだろう。 声をかけるべきか。 それなら何と言えばいいか。 果たして彼がそれを望んでいるかどうか。 終業までの小一時間、男は見極めることに費やした。 お疲れさまでしたと笑顔を向ける朔也に応えながら、男は何も言わない方がいいと結論に達する。 彼が持っている回復力に任せることにした。彼にとって一番自然なやり方。 傷付きやすく脆いように見えるが、決して弱くはない。今日まで生き伸びてきたのがいい証拠だ。 死をも突っぱねて復活した。 本当に彼は強い。 とはいえ、昔のように不安定になってしまった朔也を見るのは忍びなかった。胸が痛んだ。 自分の命の恩人でもある。新しい道を切り拓いてくれた、かけがえのない人。 そんな人が苦しんでいるのだ。 彼をこの状態のまま帰す訳にはいかない。こんな、見るからに安定を欠いた状態に一人置いてはおけない。 以前は冷たい遮断の作り笑顔だったが、今は心配させたくない、あるいはされたくない強がりを含んでいる。そこには甘えもあるだろう。それだけこちらを信頼しているということだ。 突き放すなんてできない。するつもりもない。 男は、泊まるよう誘った。 朔也は喜んでついてきた。 今日ばかりはそんな気にはならないだろうと、夜は早めに就寝に着くつもりだった。 夕食はもう済ませているので、シャワーを浴びたら後は寝るだけだ。 一緒に入浴を済ませようかと考えながら準備をしていると、まるで「まとわりつく」という言葉がぴったりあてはまるほど、朔也はどこへでも後をついて回った。 ひと時でも姿が見えなくなるのが、嫌なようだった。 さすがにトイレの中まで追ってくることはなかったが、リビングからの戸口の脇にひっそりと立ち、心持ち目を見開いて待ち続けていた。 そして目が合うと、あの愛くるしい…嘘にまみれた笑顔を浮かべるのだ。 男も笑い返す。 嫌だと思うことはなかった。 ただ、困った。困り果て、どうしたら回復するだろうかと考えを巡らせる。 止めろと言うつもりはない。 それ以前に、絶対に指摘はしなかった。 彼自身、自分が何をしているか、どうしてこうなったか、わかっているからだ。 嫌がらせや、困らせてやろうという意図でやっている訳ではない。 どうしようもなく苦しんでいる表れ。 助けを求めているのだ。 言葉は一切ないが、表面上はまったく苦しんでいるようには見えないが、短くない付き合い、彼の傾向はもう理解できている。 助けを求められて、応えないのでは、男が廃る。 何を必要としているか注意深く観察し、考え、彼が一秒でも早く元通りになるよう祈る。 そんな気にはならないだろうと思っていたが、実際は逆だった。 彼は積極的に求めてきた。 シャワーを済ませ早々にベッドに入ろうとしたが、まるで襲う勢いで身体ごとぶつかり、押し倒し、のしかかって唇を塞いだ。 いささか驚いたが、納得はいった。先ほどまとわりついたのと同じ。お互いが存在していることをより強く感じ取りたいのだ。 これが、一番わかりやすい方法。 その表れか、長い長いキスの後、もっと触ってと、朔也は言った。 腹にまたがり、少しせっかちに服を脱ぎ、脱がしながら、もっと、触ってとねだってくる。 応えて男は髪を撫で、頬に触れ、胸から足からあますことなく手のひらでたどった。 朔也は満足そうに笑みを浮かべた。 その顔は、偽物ではなかった。この時ばかりは解放されるのは、昔と変わらないようだ。 胸が痛み、それでいて熱が昂る。 今にも抑えが利かなくなりそうな自身を制しながら、朔也の身体じゅうをまさぐり、一番いいところに触れる。 自分同様、すでに硬く勃起していた。ひくひくとわなないてさえいる。 朔也は仰け反って首を振り、また、もっとと言った。 言われるごとに劣欲が高まっていく。 男は両手で前と後ろから朔也に触れた。 後ろをほぐし、前を扱く。 高い声でよがり、身をくねらせ、朔也は快感に酔い痴れた。 ふと目が合う。 朔也は妖しく笑い、男のものを扱き始めた。それからすぐに自分のものを擦り付け、男を翻弄するあの技巧を披露した。 熱いものが擦れ合う感触に、思いがけず高い声が漏れる。 少し悔しくなり、男は後ろに飲み込ませた指を増やし、対抗した。 「ああっ……鷹久」 切ない声で喘ぎ、朔也は覆いかぶさるように倒れ込んできた。癖のある黒髪が肩をくすぐる。熱い吐息が肌を焦がす。 男は手を緩めず責め続けた。 悩ましい甘い声が鼓膜を犯す。 「いい……気持ち良い…もっと、触って」 自分も触るから。 そう言うように朔也はわななく手で手淫を続けた。 お互い既に涎を垂らしているのか、手が動く度淫靡な音がした。 朔也の後ろも濡れ始めて、抜き差しに合わせて潤みは広がっていった。 朔也は喘ぎ、男の肩口で何度も頭を揺すった。 「鷹久……たかひさ」 「君はどこが一番感じる?」 そこを触らせて。 埋め込んだ指で内部をゆっくりこねながら男は尋ねた。 「もう……知ってる」 「君の口から聞きたいんだ」 一瞬の静止の後、朔也は男の手を掴んだ。根元まで埋め込まれたのをほんの少しだけ引き抜く。 「指…曲げて」 言われた通り従う。 途端に朔也はおこりのように震えた。 「そこ――あぅっ! そこを、鷹久のかたいのでこすられると、からだが……!」 「ここかい?」 男が自分の意思で、朔也のいいところをこする。 たちまち朔也は息を乱れさせ、喘ぐ以外できなくなってしまう。 身体がどうなってしまうのか、一目瞭然だった。 「おねがい……もう入れてっ!」 息を詰めて朔也が懇願する。 男は満足げに笑った。 「おいで」 ひくひくと疼く朔也の後部に押し当て、誘う。 「ああ……たかひさ」 半ば陶酔した顔で朔也は男の熱いものを飲み込んでいった。 その表情だけで達してしまいそうなほど昂る。 男はしがみついてくる少年を抱きしめた。 「いいよ、朔也……いい気持ちだ」 愛してるよ 耳元で告げると、朔也の全身がしゃくり上げるように震えた。 男は上に乗った身体をしっかり腕に抱き、あまり激しくはせずにゆっくりと揺すった。 彼の一番感じる場所によく響くようにというのが最も大きな理由だったが、あまりせっかちに動くと自分が先に果ててしまうからというのもあった。 彼の中はいつも以上に熱く、狭く、貪欲に蠢いて男の物をしゃぶった。 たまらずに男は呻く。 また朔也は笑った。自分の身体で、技巧で、愛する男が感じているのを知って、喜んだ。 「愛してる……鷹久」 朔也はがむしゃらに抱き付くと、少し間延びした、甘えるよがり声を迸らせた。 ああ、もっと。 深くまでいっぱいにして。 「もっと……ああ…たかひさ」 自ら腰を押し付け、朔也はねだった。 切羽詰まった甘い喘ぎに腰がとろける。 求められる悦びに息もできない。 男は自制を忘れて、欲望の赴くまま少し乱暴に腰を打ち込んだ。肉の張った尻を掴み、何度も何度も深い箇所を突く。 大きな揺さぶりごとに悲鳴が上がる。 だめ、だめ。 熱い喘ぎがいくつも肌に零れ落ちる。 今にも破裂しそうに育った朔也の濡れたものを片手に包み、強く扱いて解放へと導く。今はここだけが素直な場所。触れば触った分だけ応え、気持ち良さそうに身震いして、甘えてくる。 男は親指の腹で先端を舐め回した。 「ああだめ――いく!」 ひと際大きな痙攣とともに白いものを噴き上げ、朔也は息も絶え絶えにうなだれた。 時折不規則に身体が跳ねる。 苦しげに息を啜りながら、それでも尚、朔也はもっと、と求めた。 「たかひさ……俺の世界――」 どうか離れていかないでほしい…無言の叫びが聞こえた気がした。 男は必死に応え、彼の中の虚ろな部分が無くなるまで抱き続けた。 |
お互い少しふらつくほど求めて、二度目のシャワーを済ます。 身体は疲れていたが、もしかしたら話をしたいかもしれないと思い、男はいつものように一杯の酒の時間を作った。朔也には温かい飲み物を用意する。嫌なことを忘れ、よく眠れるように。 その間も、朔也はついて回った。 男は何も訊かず、目が合えば笑った。頬に触れた。頭を撫で、抱き寄せて目尻に軽く接吻した。 気持ちを口にするのも欠かさない。 どうすれば彼が安心できるか、色々と試した。 どれもそれなりに効果はあるようだが、本当の意味で彼の心を癒すには至らなかった。 朔也はその都度幸せそうに頬を緩めるが、どこかに、そうすればこちらが喜ぶだろうという媚びが見え隠れした。 彼が身に付けた処世術。そうやって生き延びてきたのだ。最近はすっかり見なくなったが、消えて無くなった訳ではない。恐らく、一生消えることはないだろう。 悔しさはあったが、それは朔也に対してではない。そうしなければならなかった状況が、たまらなく恨めしかった。 今更どうにもしようがないのだが。 男は焦らなかった。 時間がある。二人で過ごす時間が。 色々なものを変えてくれた。 どうせもう残り僅かだとなおざりさに膿んでいた自分が、別の道を探すことができたのも、それがあったからこそだ。 だから今度も、必ず、出口は見つかるはずだ。 カップとグラスを置き、ソファーに腰掛ける。 待ったが、朔也は、隣に座らなかった。 しばらくひっそりと、まるで亡霊のように突っ立ち、それから男の足元にうずくまって、片方の脚にしがみつく形で腕を巻き付けた。 男は胸が締め付けられる思いだった。 ベッドの上ではあれだけ求めてきたというのに、今は脚一本に触れるのが精一杯なのか。 呼吸が苦しくなる。 男は身を屈めて、朔也の頭を胸に抱いた。 「愛してるよ、朔也」 「俺も」 朔也は首を傾げるようにして男を振り返り、笑った。 表情は嘘っぱちだが、言葉は嘘ではなかった。 含まれた響きは本物だった。 朔也は決して嘘を吐かない。最初に約束したことを守り抜いている。 そのお陰で、笑顔を保つことができた。悲しみに歪む顔を見せずに済んだ。 朔也は男の膝に口付け、頬をすり寄せた。 唇が触れた個所が熱い。 熱さを通り越して痛みすら感じた。 再び隣に座れなくなった朔也を、いつか元に戻る日が来ると信じて、男は夜毎見守り続けた。 |