晴れる日もある

 

 

 

 

 

 こんなに、と言ったきり、朔也は呼吸すら忘れてしまった様子で硬直した。
 男はゆったりとした笑みを向けた。
 彼の反応はある程度推測していた通りだった。

「同封した明細にある通り、君の正式な取り分だ」

 息を啜り、でも、という顔で朔也は男を見やった。
 朔也が手にした茶封筒には『給料』と印刷があった。その中身を見て、彼は一時的な呼吸困難に陥ったのだ。
 男は振り込みではなく、報酬が入り次第手渡しという方法を取った。
 彼にはきっと、この方法が何より自信回復に繋がると思ったからだ。
「これは、多過ぎる」
 朔也は幾分険しい顔付きになった。
 高校一年の頃、ほんの三ヶ月ほどだがコンビニエンスストアでアルバイトをしたことがある。
 いち高校生が、ひと月アルバイトして得られる金額を、ある程度は知っている。
 今朔也が手にしているのは、それよりはるかに多い額だった。
 仕事内容は確かに比較にならないが、自分はどこまでいってもただのアルバイト風情だ。それでこの金額は、やはり間違っている。

「いや、間違ってはいないよ。最初に交わした契約書の通り、今回の仕事での君への配分はその金額だ。端数は切り捨てさせてもらっているが、計算は確かだよ」

 男は依頼主への請求書を取り出し、請求金額の欄を指で示した。

「今回は同時に三つ抱えていたから、目が回る忙しさだったろう? 入ったばかりなのに、済まなかったね。でも君は、本当によくやってくれた」

 飲み込みが早く、物事は正確で、細かいことにもよく気が付いた。

「君はそれを貰う権利がある」
「でも自分は、こんなに出来たとは思わない」

 失敗して、甘えていただけだ。
 朔也の目がテーブルの表面を這う。

「おかしいな」男はにやりと笑った「君が仕事中に甘えたことなんて、一度もなかったと記憶しているが。私も、君を甘やかした覚えはない」

 仕事中という言葉を強調する。
 実は密かに考えてはいた。彼が仕事に馴染むまで、多少のことは大目に見よう、目を瞑ろう…経営者としては失格だが、そんなことを考えていた。だがすぐにそれが、大変な思い上がりであると気付かされた。
 彼はそんなものなど望んでいないし、そんなものがなくても充分通用する技量を持っていた。厳しさを備えていた。
 厳し過ぎて、自分で自分を打ちのめしてしまった。

「君はやり通したよ。責任を持って、最後までね。そのお陰で納期に間に合い、私はこうして報酬を受け取って、無事君にアルバイト代を払うことができた」

 失敗しても甘えても、逃げたり投げ出したりせず、最後まで仕事をやり遂げたからこそだよ。

「だから、胸を張って受け取りなさい。正直に言うとね」

 そこで朔也の顔付きが強張った。悪いことを言われると思ったのだろう。男は口端を緩めて続けた。

「君があんまりできる上に飲み込みが早いから、まだ高校生だということを、時々忘れてしまうほどだったんだよ」

 まるで、もう何年もこの仕事に慣れ親しんだ人のようだったよ。
 軽く肩を竦めて笑う。
 実際仕事を始めてもらう前に、初歩的なマナーの指南本から、今の業種に役立ちそうな専門書に至るまで、手持ちの中からいくつか見繕って朔也に渡した。それは元々考えていたことで、本人からも希望があった。男は快く渡した。
 彼は、驚くほどの熱心さで吸収していった。正直退屈な部分もあるだろうに、そんなこと微塵も感じさせず、知らないものを知ることが楽しいとばかりに次々飲み込んでいった。
 本で読むのと実務とは大違いだが、事前にある程度理解してもらえていたのは大きい。だからつい男も、高校生の新人アルバイトだということも忘れて、大いに頼った。
 事実、彼はそれができる器だったし、要望に充分過ぎるほど応えてくれた。
 それだけの優秀さを見せながらしかし、朔也は他愛ない失敗にひどく怯えた。
 見るからに動揺し、落ち込み、ついには昔の悪い癖まで出てきてしまった。
 だからといって、彼は歩みを止めなかった。
 言葉以外での助けを男に求めつつ、自分の足で踏ん張り、ゆっくりとながらも前進した。
 男が心底惚れ込んだ強さを、また見せたのだ。
 その結果は、目に見える形となり朔也の手元に残った。

「君はそれだけの働きをした。私たちは、それだけのことをしたのだよ」

 わたしたち…男の言葉を口の中で繰り返し、朔也は再び手にした袋を見た。

「そう、私たちだよ。一緒に協力して、依頼主の要望に応えた。君が手にしているのは、その結果だ」

 朔也は小さく息を啜った。

「それでも、どうしても納得がいかないなら、次に生かしなさい。そうすれば君はもっとできるようになるから。君には、そうするだけの力がある。やがて自信に繋がるだろう」

 長いこと封筒を見た後、ゆっくり男へと目を移す。

「ありがとうございます。次は頑張ります」

 まっすぐ向かってくる目は凛と輝き、すっかり見違えていた。この目だと、男は嬉しくなる。
 思った通りだ。自信をもって仕事に臨んだなら、彼はどこまでも伸びるだろう。
 その変化を、成長を見守ることができると思うと、嬉しくてたまらなかった。

「期待しているよ。私の方も、安定して仕事が貰えるように頑張るから、お互いに頑張ろう」

 男は片手を差し出した「今後ともよろしく」
 朔也もすぐに応え、しっかりと握りしめた「お願いします」
 男は笑みを浮かべた、
 朔也もまた笑顔になった。
 それは久しぶりに見る、彼の自然な表情だった。
 どうやら、彼の中の苦しい時期は、終わりを告げたようだ。
 男は内心でほっと胸を撫で下ろした。

「ところで、使い道を聞いてもいいかい?」

 大事そうに袋をしまう朔也に、男は興味しんしんといった顔でテーブルに乗り出した。
 朔也は目を上げ、まずは叔母に何か贈り物をしたいと言った。いつも何かと世話になっている、その礼だ。
 それはいいことだと男が褒めると、朔也は恥ずかしそうにして笑った。

「それと、鷹久に相談したいことが、あるんだ」

 珍しいことだと、目を瞬く。

「言ってごらん」

 朔也の相談とは、リビングの一角にソファーを置きたいというものだった。
 アルバイトを始める少し前から考えていたことで、給料が貯まったら買おうと思っていたが、今回の分でその上貯金もできるほどもらえたので、予定を繰り上げ購入しようと思っているのだが…と、朔也は言った。

「いいね、いいじゃないか」

 もちろん、男に異論はなかった。
 あの部屋は現在朔也の名義であり、よっぽどの改造でない限りは何を買おうとどう飾ろうと、当人の自由なのだ。
 人並みの物欲を見せる朔也が、男は嬉しかった。以前、無表情で過ごしていた時期を越えた時も嬉しかったが、失敗への恐怖を乗り越えた今回は、もっと心が弾んだ。
 彼がそうやって一歩ずつ乗り越えるものを乗り越えていっているのが、嬉しくて楽しかった。
 傍で見守れる喜びは何にも代えがたい。
 そして次の週末、到着したと連絡を受け男は朔也の部屋を訪れた。
 玄関のドアから覗いた顔は、満面の笑みとまではいかないが、光り輝いているようだった。男もつられて浮かれた気分になる。
 さて、彼はどんな物を選んだのだろうか。
 昼の明るいリビングに足を踏み入れると同時に、男はほうと小さく声を漏らした。
 分類するならば北欧風と言うべきだろうか。木製の肘かけが美しい、二人掛けのやや小ぢんまりとしたソファーが、壁を背に、キッチンを正面に見る角度に置かれていた。
 落ち着いた木の葉色のクッションに木肘はよく合った。
 さらっとした表面の布地、クッションも背もたれも一人分ずつ分かれており、表面にはなんの加工もされていない。素朴であたたかみのあるデザインだ。
 これは良いと、男は褒め称えた。

「君の好きそうな色だね。良い色だ」

 傍に立つ朔也に笑いかける。
 朔也は少し首を傾けるようにして男を見上げた。
 口元には、心なしか自慢げに見える笑みが浮かんでおり、男の心を大いにくすぐった。
 座面は水平ではなく、少し背もたれの方へ傾斜がある。
 そして背面もわずかに角度がついており、座り心地は良さそうだ。
 男は軽くクッションを押してみた。手触りはもちろんのこと、程良い硬さが気持ち良い。
 座面を支える枠組みはきっちりとした縦横ではなく、美しい木工品の佇まいを見せていた。前面の脚は肘かけからまっすぐ縦に伸びているが、後部の脚は角度のついた座面と一体化し、緩やかにカーブを描き、接地している。

「君は中々センスがいいね。買い物も上手い」

 大きさといい色といい、この場所にぴったりだと、男は部屋全体をぐるりと見回し、称賛した。
 溢れる喜びに口元を緩めた顔で、朔也は肘かけに指を滑らせた。
 見つめる目はキラキラと輝いていて、実に愛くるしい。
 もう、試しに座ったかと尋ねると、まだだという。
 最初は、一緒に座りたいのだと、朔也は言った。

「それは嬉しいね。でもまずは、買った人が一番に座るべきだと思うんだよ。私は二番目にお邪魔するとしよう」

 男は肩に手を乗せた。

「さあ、座ってごらん」

 彼が自分で選び、自分の金で買った、お気に入りの一つ。
 朔也はぎこちなく頷くと、恐る恐るといった風情で座り、もたれた。
 表情にそれほど大きな変化はなかったが、身体じゅうから滲む喜びがため息となって漏れた。

「前に皿とか、タオルを買った時も、思ったんだ」

 朔也は両手で肘かけを撫でた。

「物を買うって、とても幸せな気持ちになるんだ」

 大げさな感想、正直に言えば、共有が難しいもの。これまで、何かを買うに当たって男が苦労したことは一度もないし、満足感はそれなりにあるが、彼ほどの喜びはまず味わったことがない。
 しかし今は充分すぎるほどわかる。
 望む物を手に入れる喜びは何にも代えがたい。

「俺にこんなことができるなんて、夢みたいだ」

 軽く目を閉じて、少年が言う。
 確かに、どん底だった頃から思えば、夢のような現実だろう。
 本当は、とささやかな声がした。

「こういうものは無駄に思えて、今も少し胸が」

 痛いような感じがすると、言った。

「でもそれ以上に、すごく、嬉しい」

 朔也は目を上げてまっすぐ男を見た。
 男は微笑みを向けた。

「その気持ちを大事にしなさい。落ち着かない痛さも嬉しさも。いつまでも、忘れずに」

 朔也は生真面目な顔になって頷いた。
 それから空いた左側を手で示す。

「では、失礼して」

 男は腰を下ろした。思った通りの座り心地に自然と笑みが浮かぶ。
 そういえば、こうして彼と並んで座るのは久々だと思っていると、隣からささやかな呟きが漏れた。

「もう、怖くない」

 確認して、喜んでいる響きだった。
 男は顔を向けた。
 朔也もほぼ同時に顔を向けた。
 しばらく隣に座れなかった時期のことを指して言ったのは明らかだった。

「怖かったのかい?」

 朔也は頷き、首を振った。

「鷹久が怖かった訳じゃないんだ」

 初めの頃は怖かったけど……あんただけじゃない。あの時は、誰でも怖かったんだ。
 わかっていると、男は目配せした。
 どう言えばいいかな、と呟き、朔也は話し始めた。

「自分のイメージなんだけど、身体が、どんどん小さく縮んでいく感じが、したんだ」

 まるで、骨や内臓を一つずつ取られて、その分小さくなっていくようだった。
 そう言って腹をさする。
 男は、朔也と同じ表情になって二度三度頷いた。

「それで隣に座っていられなくなって、でも縮むのは怖くて」このままだと、鷹久の足の爪よりも小さくなって、床の隙間から落ちてしまう気がした「本当に怖かったんだ」

 男はまた頷いた。
 朔也は、隣に座る男の腕に自分の腕を巻き付けた。ちょうど、彼が苦しんでいた期間見せたのと同じ仕草だ。

「でも、鷹久の脚にこうやって掴まっていると、縮んでいくのが止まるんだ。止まるイメージがした」

 朔也は息を啜り、安心しきったように吐き出した。
 男は横を向き、片手にしがみ付く朔也を抱き寄せ頭を撫でた。

「悪魔には一歩も退かなかった君も、仕事は手強いみたいだね」

 苦笑いのような息遣いを漏らし、自分が一番難しいと、朔也は言った。
 彼の苦悩がよくわかり、男はより力強く抱きしめた。

「でも鷹久は、そんな俺をいつも助けてくれるんだ」

 そう言ってまた深くため息を吐く。
 親戚の人間に醜い殺意を抱いてしまったことも、よくない事に逃げたのも、決して軽蔑しなかった。理解し、納得して、受け入れるだけの時間が必要だったのだと、落ち着くまで何度も抱きしめてくれた。
 ちょうど今と同じように。
 いつもこうして自分を助けてくれる。

「それは私も同じだよ、朔也」

 感謝を込めて、男は背中をさすってやった。
 朔也は抱き返し、愛してると耳元に囁いた。

「だから俺から、離れていかないで」

 ごく、ごく小さい声が鼓膜を震わす。
 それは痛みとなって男の胸に広がった。
 その一方で安心感もあった。こういった言葉を口にできるまでに回復した証は、鈍い痛みを和らげた。

「朔也。いいことを教えてあげよう」

 何だ、というように朔也の身体が少し身じろぐ。

「同じことを考えていたんだよ」
「何を?」
「君は、私の下で働きたいと考えていたね」

 進路を尋ねた時、そう思ったのだったね。
 そうだと、朔也は頷いた。

「私もあの時、同じように考えていたんだよ」

 今度の身じろぎは、驚きを含んでいた。

「君を、他の経営者のもとに置きたくなかった。どこかの企業の従業員になるなど考えたくもなかった」

「俺を?」

 男は二度ほど頷いた。

「あの少し前から、計画は始めていたんだ。自信はあったが、絶対という確証が得られるまで君には話せなかった。自分一人なら、失敗しても「ああくそ」となるだけだが、君の人生を負うからにはそうはいかない」
「俺の……俺の人生」
「そう。私は、とにかく独占欲が強いんだよ」

 だからあの事件が起きた訳だからね。
 朔也の眼がわずかに歪む。

「でも鷹久は、戻ってきたよ」

 両腕にしっかり包むようにして抱き、存在を確かめる。

「ああ。君が来てくれたからね」

 はるばるあんなところまで来られては、帰らない訳にはいかないだろう?
 朔也の抱擁が、一層切羽詰まったものになる。

「来て、ほしくなかったか?」

 根底にひた隠しにしていた願望、死への自暴自棄を、うっすらと感じ取っていただろう朔也についに言い当てられ、男はぐうと喉を鳴らす。
 ややおいて口を開いた。
「……来てほしくなかった。それでも君を望んだ。ここまで来てほしいと、思っていた」

 君が呪いを解く鍵だから。
 相反する望み、欲深い自分を吐露する。
 朔也の手が男の頭を撫でる。
 優しいぬくもりに男は小さく笑い、朔也、と呼びかける。

「君のしたことは、間違っていないよ」

 何一つ、間違っていない。
 よくない事も、恐ろしい殺意も、ここまで来るためにきっと必要だったのだ。

「私はだから、戻れてよかったと思っている」

 ありがとう朔也。
 朔也は頬をすり寄せ、大きく息を吐いた。

「俺は、人が死ぬってことが…どういうことか……知ってる」
 だからあんたは、絶対に――

 手は少し震えていた。
 大丈夫だと、心を込めて、男は抱きしめる。

「ありがとう。本当に……朔也。そこまで思ってくれる君を、他の誰にも渡すつもりはない」
「俺だって、どこにも行くつもりはない」

 断言する男に、朔也もきっぱりとした口調で答えた。
 男は満足げに笑った。

「ああ。どこにも行かなくていい。だから、朔也。私は絶対に君から離れていかないよ」

 愛してるよ。心から。

「鷹久……」

 安心しきったため息を深く吐き出し、朔也はありがとうと言った。
 しばらく抱き合い、ようやく身体を離した朔也だが、両手はまだしっかりと男の肩を掴んでいた。
 男は穏やかに笑いかけた。

「もしもまた不安になった時は、何度でも聞くといい。私は何度でも、言ってあげよう」

 君の傍にいるよ、と。
 朔也はもう一度愛していると囁き、再び抱きしめた。
 少しして、名残惜しそうにしながら、朔也は離れた。
 男も同じように、いつまでも抱きしめて掴んでいたいと思った。
 お互い小さく笑い合う。
 それから朔也は立ち上がって足早にキッチンへと向かった。
 冷蔵庫から何やら取り出し、戻ってくる。
 すぐにそれが、皿に乗せられたケーキだと気付く。
 真っ赤な苺と白い生クリームの対比が美しい、ショートケーキ。

「叔母さんには、クッキーの詰め合わせを贈ったんだ。好物なんだ。これは、鷹久に」

 思いがけない贈り物に男は目を丸くした。受け取る手がわずかに震える。

「……ありがとう。こんなにしてもらえるなんて、何と言っていいか」

 嬉しいよ。
 朔也は首を振りながら言った。

「嬉しいのは、俺の方。鷹久がいつも励ましてくれたから、ここまでこられた。それでもまだ残っているものは多くて、今はまだ、これしか返せない。でもこれから、きちんとするから」

 そんなことは気にしなくていいのだ、と言いかけて、すぐに飲み込む。
 彼はそうやって気にかけて生きる方が、より心が落ち着くのだ。
 だから自分は肯定して、応援するのが一番いい。

「ああ。期待しているよ。君の思う通りにやりなさい」

 思った通り、朔也はそのひと言で晴れやかな笑顔を浮かべた。
 自分で考えた道行を認めてもらえることが、一番効くのだ。
 その誰かが自分であるのが、本当に誇らしい。

「ところで、君の分はないのかい」

 フォークを手に尋ねる。彼は甘いものが好みではないが、一人で食べるのはいささか気が引ける。そしてとても寂しい。

「ああ、俺は」

 俺はいらない、ときっぱり断る口調だったが、瞬間強烈な既視感が男を襲った。
 それは、ずっと以前、熱を出した時のこと。彼が初めて甘いものを振る舞ってくれた時のこと。
 一緒に食べたいというひと言をどうしても出せなかった彼の姿が、不意に思い出された。
 思う間に言葉は口から飛び出していた。

「もしよかったら、ここに座って、一緒に食べないか」

 それは、あの日彼にかけた言葉。
 朔也の目が小さく見開かれる。
 どうやら彼にも、同じ記憶が過ぎったようだ。
 少し困ったような、伺う眼差しで見た後、朔也は隣に座った。
 それからそろそろと、あるものを差し出した。
 それは、男が手にしているのと同じフォークだった。
 ああ、そうか。男は小さく肩を揺すった。

「準備万端という訳か。これは失礼」

 では一緒に食べようと皿を差し出す。
 気まずそうに呟き、朔也は笑った。

「鷹久の脚に掴まっている時、これが思い浮かんだんだ。こういうことをしたいって。こういうことができるようになりたい、って。早く、鷹久の隣に戻りたい。隣に座ってこうやって……ずっと、思っていたんだ」

 ソファーを買いたいと思った時は、ただ単純にここで並んで座りたいという欲求からだった。
 途中から、欲求はより強く、内容の違ったものに変化した。
 やっと、それができた。

「君は本当に、よくやったよ」

 恥ずかしそうにしながら笑う少年の顔を、男は真っ向から見つめた。
 毎日のように見ているのに、まるで別人のように思えた。

「俺が一番、幸せを感じることだから」
「一緒に座ること、かい?」

 それもある。それ以上に幸せに感じること。

「鷹久が、美味そうに食べているのを見ること」

 自分の隣で。
 男は笑った。苦笑いして、照れ臭そうに、困ったように目を宙に漂わせ、最後に朔也を見て、深く息を吐いた。
 乗り越えた場所で二人並んで食べるケーキは、事の他美味かった。

「提案なんだがね、朔也」

 男は程良い甘さのクリームを味わいながら、片手で正面のスペースを軽く指し示した。

「今度はここに、このソファーに合うテーブルを置いてみるのはどうかな。あるいは下に、淡色のラグを敷いてみるのもいいと思うんだよ」

 心持ち目を見開いて、朔也は男を見た。

「気に入らないかい?」
「違う、びっくりした」

 まるで、自分が思っていたことを言い当てたようなのだと、朔也は少し浮付いた声で答えた。

「君も同じ考えだったのか」

 嬉しそうな男に朔也は頷く。

「一つ買うと、また一つ欲しくなるだろう?」

 それがまた楽しいんだ。生活にも張りが出る。
 段々わかってきたと、朔也は相槌を打った。

「次はどんなものを選ぶのか、とても楽しみだよ」

 男はフォークで苺をすくうと、朔也の口元に運んだ。
 何か言いたげな目配せに微笑で応え、大きく開けた口の中に放り込む。



 この日から、朔也は仕事の面でも生活面でも、飛躍的に変わっていった。

 

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