晴れる日もある

 

 

 

 

 

 昨日、会社を出たところまではなんとか覚えている。
 けれどその先、つまり今にいたるまでの記憶がまるでない。
 こうして五体満足でベッドに寝ているのだから、無事に家まで帰れたという事だろう。
 あの状態で車を運転し、よくも事故を起こさなかったものだ。
 朦朧とする頭で振り返ってみて、初めてぞっとなった。
 嗚呼…それにしても頭が痛い。
 締め付けられるような痛みに顔をしかめ、額に手をやる。
 そうしなくても、既に熱が出ている事は知っている。
 しかもかなり高い。
 自分に渋い顔をしてみせる。
 そんなに無理をしたつもりはないし、自分の身体はもっと頑丈だと思っていた。
 情けない。
 今日が休日でよかったと思いながら身体を起こす。
 時間はとうに昼を過ぎていた。
 昨日の夜からまったく何も口にしていないが、何か食べたいという欲求は湧いてこなかった。
 ただ、やはり水分は取っておいたほうが良いだろう。
 ふらつく足で何とかキッチンにたどり着き、コップ一杯の水を飲み干す。
 そこでふと。
 唐突に、朔也の顔が思い浮かんだ。
 いや、これは…昨日の記憶だろうか。

 今にも倒れそうになりながら、やっとの思いでマンションに帰り着き、玄関を開ける。
 すると中には朔也がいて、すぐさま異変を感じ取った彼は私に手を差し伸べた。
 肩を借りて寝室に向かい、冷たい汗に濡れた服を着替える。
 彼はてきぱきと着替えを手伝い、汗を拭ってくれた。
 最後に、とても心配そうに、額に手を当てた。
 記憶はそこで途切れている。

 私は額に手を当てた。
 彼の感触が残っているような気がした。
 けれど、部屋のどこを見回しても、彼の気配は感じられない。
 夢かもしれない。
 こうだったらいいと、頭の中で作り上げただけのものかもしれない。
 今、誰より彼に会いたいと思う。
 熱のせいで、ひどく心が弱っていた。
 でなければ、こんなに悲しい気持ちになったりしない。
 彼とは、他の誰より多く顔を合わせているのだから。
 随分逢ってないわけじゃない。
 いつでも逢える相手だ。
 けれど今、ここに、彼がいて欲しいと思う。

「情けないな」

 自分自身に言い聞かせるために、わざと大きな声で呟く。
 ため息をついて、寝室に戻った。

 彼は今ごろ、学校で授業を受けている。

 高熱のせいか、横になっても中々眠りにつく事が出来ない。
 それでも、次第に暮れていく窓の外をぼんやり眺めているうちにいつしか深い眠りに落ちていた。
 すっかり日が沈んでしまった頃、ふと目を覚ます。
 すると不思議な事に、目の前に朔也の顔があった。
 ベッドの傍に立ち、じぃっと見下ろしている。
 また、夢だと思い、それでも嬉しくて、私は唇に微笑を浮かべた。
 しばらくの間、二人は互いの目を見つめてただ瞬きを繰り返していた。
 徐々に意識が覚醒していく。
 それにつれて、辺りに漂う甘いいい匂いに気付いた。
 シナモンと、蜂蜜と、ジャムと…胸いっぱいに吸い込んで、とうとう、これは夢ではない事を理解する。

「朔也……」
「出来たから」
「え?」

 何が出来たのか考える以前に、本当にそう言ったのかどうかあやしいもので、素っ頓狂な声で聞き返す。

「昨日、食べたいって言った」

 ……昨日?
 昨日、何か食べたいと言っただろうか
 必死に思い出しながら身体を起こす。
 夢ではなく、現実に目の前にいる朔也をよくよく眺めると、服のあちこちに白い粉がついていた。
 なんだろうと目を凝らすと、彼は不意に背中を向けて歩き去っていく。
 開け放した扉の向こうに姿が消えて、すぐにまた戻って来た。
 手にはトレイを持っている。

「……?」

 トレイの上には、ジャムがたっぷりかかった黒パンのようなものが三切れ、白い皿の上に乗っている。
「初めてだから、あまりうまく作れなかった」
 ぶっきらぼうに言って、トレイを膝の上に寄越す。

「本に載ってたので、これが一番簡単そうだった。でも……あまりうまく作れなかった」

 シナモンと、蜂蜜と、ジャムの甘いいい匂い。
 かすかに湯気を立ち上らせているそれは、朔也の作った焼き菓子。
 昨日、甘いものが食べたいといった私の為に、朔也が作ってくれたもの。
 服についた白い粉は小麦粉だったのか。
 思わず、目の奥が熱くなった。

「食べたくなければ無理しなくていい」

 食べたくないから手をつけないでいるのだと勘違いした朔也は、済まなそうに言って皿に手を伸ばした。

「いや、すまない。そうじゃないんだ」

 慌ててフォークを手に取る。

「ありがたくいただくよ」

 ジャムがこぼれないよう気をつけながら、一口かじる。
 途端に口いっぱいにシナモンと蜂蜜の香りが広がって、今まで忘れていた空腹感を満たし、心を満たし始める。

「……美味い」

 感嘆のため息と共に呟き、朔也を見上げた。
 笑顔にこそなっていないものの、喜びに似た光を目に浮かべて私を見ている。

「美味いよ、とても」

 けれど目が合った途端困ったように忙しなく辺りを見回し、朔也は俯いた。

「良かった」

 がっかりしているような口ぶりにも、もう大分慣れた。
 これでも、彼は喜んでいるのだ。
 ただ、うまく自分の感情を表せないだけだ。
 それだけのこと。

「朔也は食べないのか?」
「俺は……」

 尋ねると、伝いにくそうに口ごもり、上目遣いにこちらを伺う。
 何を伝いたいのかすぐには分からず、とりあえず待った。
 けれど中々口を開こうとはせず、ただ見るばかり。
 やがて諦めたように目を逸らし、朔也は少し後退さる。 
 瞳に自己抑制の幕を下ろし、決してそれ以上近寄ろうとしない様に胸が痛んだ。
 だが手遅れになる前に、私はようやく訴えようとしている事が理解できた。

「もしよかったら、ここに座って、一緒に食べないか」

 言ってもすぐに朔也は近付いてこなかったが、部屋を出て行こうとするのはどうにか引き止める事が出来た。
 ようやく許してもらえた幼児のようにおどおどと、朔也は足を踏み出す。

「せっかく作ってもらっても、一人で食べたのでは味気ないからね」

 食べやすいように小さく刻んで差し出す。
 ためらいがちにベッドに座り、朔也は口を開いた。
 今にもこぼれそうなジャムに気付いたのか、慌ててフォークに噛み付く。
 その様子があんまりおかしくて、つい笑ってしまう。

「美味いだろう? 自分で作ったものだから、余計に」

 口をもぐもぐ動かしながら、朔也は素直に頷いた。

「でも、ちょっと甘過ぎた」
「これくらいの甘さが、私は好きだよ。ありがとう」
「……そうか」

 そう言うと途端に美しく整った顔を強張らせ、かたい声と共によそへ向けた。
 一瞬言葉を誤ったかとぎくりとするが、称賛され戸惑っているのだとわかった時どうしようもなく愛しさが込み上げた。
 彼はあまり、感情を表すのが得意ではない。
 居心地悪そうに身じろいで、けれど間違いなく、喜ぼうとしていた。
 きっともう少しもしたらごく普通に笑って、一緒に喜べるようになるだろう。
 その時彼は、どんな顔をするのだろうか。

 

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