晴れる日もある

 

 

 

 

 

 住宅街の一角、一方通行の狭い路地の中ほどにある駐車場の前に立ち、朔也はそのまま五分ほど過ごした。
 たったの五分に何を思ったのか。
 少し離れた場所に停めた車の中から眺め、男は様々に頭を巡らせた。
 十数台ほどの車が駐車できるスペースを持つその駐車場には、以前は、二階建ての古びたアパートが建っていた。
 かつて朔也が父親と住んでいたアパート。
 五分ほどして戻ってきた朔也は、ありがとうとだけ言い口を噤んだ。
 それ以上は何も話したがる素振りを見せなかったので、男も尋ねることはしなかった。
 朔也が再び口を開いたのは、空港に直結するホテルの一室に入り、二人きりになった時だった。
 持ってきたそれぞれの荷物を置き、ソファーに落ち着くと、朔也は言った。

「もうあまり、腹は立たなかった」

 窓辺の丸テーブルを挟んで向かいに座った男は、目を見合わせ頷いた。
 今日、彼は三年間通った聖エルミン学園を卒業した。
 非現実的な現実を共に戦い、過ごした彼らに、少しの涙と笑顔とでしばしの別れを告げる。
 その後、式に参加した叔母と共に親戚の家に寄った。
 卒業証書を見て、彼らは自分のことのように喜んでくれたと、車の中で待機していた男に朔也は告げた。あんなに善良な人たちをたとえいっときとはいえ憎んだ自分が、本当に恥ずかしい。朔也は再び後悔を口にした。
 それから、母親と妹の墓参りに向かった。
 長いこと気持ちの整理がつかなかったが、卒業式という区切りの今日、ようやく向き合うことができたのだ。
 そして最後に、昔住んでいたアパートに立ち寄り、回顧した。
 もっと滅茶苦茶に気持ちが揺れるかと思っていたが、実際立ってみると、思い浮かんだのはこれだけだった。

「ばーか、って。それで終わりだった」

 あっさりと言い放った朔也に男は少なからず驚く。けれど、それでこそ朔也だ、とも思う。

「君は本当に、心が強いね」

 男の称賛に朔也はしばし考え込み、傾げた首を小さく振った。

「全部、鷹久のお陰だ」

 あの頃必死に作り上げた偽の仮面を、本物にしてくれた人へ、朔也は柔らかく微笑む。
 母親が自分を置いて行ってしまったこと、父親からの暴力、それらについて男は恨んでいいとも憎むなとも言わなかった。
 それらはたまたま自分の身の上に起こったことに過ぎない。自分が悪いから起こった訳ではない。男は言った。
 その言葉に自分は本当に救われた。
 今でも思い返せば心が痛む。何がいけなかったのだろう、あんなこと、起きなければよかったのにと思う日もある。
 そんなつらさをあるがままに受け入れて乗り越え、『明日』のことを考えられるようになれたのは、すべて――。

「鷹久が、いつも話を聞いてくれたからだ」

 時々襲う悪夢に苦しめられた時も、無性に怒りが込み上げてきた時も、隣に必ずいてくれた。何も言わず並んで座って、心が鎮まるまで無言で励ましてくれた。

「ありがとう」

 身に余る讃辞を厳粛に受け止め、男も微笑った。

「そう言ってもらえると、私も救われる。私の方こそ、君がよく話を聞いてくれるお陰で、随分と心が軽くなったよ」

 それを聞いて朔也は晴れやかな、誇らしげな顔付きで男を見つめた。
 はにかむ若者に口端を緩め、男は遠く思い出す。出会ったばかりの朔也を。あの凍り付いた無表情を。しかし瞳は裏腹に何かをがむしゃらに求めていた…今の彼は、控えめながら素直に喜怒哀楽を表し、元からあった他者への気遣いの心をより深めて、豊かな人間性を見せるようになった。
 自転車に乗れるようになった。泳ぎも得意になった。
 そして先日、車の運転免許も取得した。
 できること、やりたいことの幅が豊かに広がってゆく。
 心の余裕は身体にも変化をもたらし、男との身長差がほんの三センチではあるが縮まった。
 ある時気付き、目の高さが近付いたことにお互い喜ぶ。
 雨の日に花を飾る「癖」は相変わらずだが、その意味合いは大分変わった。
 以前は鬱々と羨むだけだったが、今は、強さのお手本として敬愛するようになった。
 男は祝福し、小さなガラスの花器を贈った。
 自己抑制の幕で己を遮断していた瞳もすっかり見違えた。
 物事を力強く見据えて輝き、どんな時も鋭く、見誤らない。煌めきは日ごと男を魅了した。
 それは日々の糧となり、力となり、男に幸いをもたらした。

「チケットを、もう一度確認しておこうか」

 男は荷物から取り出した封筒をテーブルに置いた。

「うん、あるよ」

 受け取り、朔也は目を通した。
 二人は、明日の午前の便で海外に立つ。
 男が以前朔也に約束したこと。この世界に隠された様々な喜びを、二人で見つけに行く為。
 また、朔也の希望でもあった。
 具体的な行き先を知っているのは、親戚の人間の他今のところ南条だけだった。
 彼には異変の後、騒動が収まるまでしばらく彼の屋敷に避難させてもらい、随分と世話になった。
 大分ほとぼりが冷めて、改めて責任を取る為男が戻る際も、帰ってくるまで朔也を何かと気遣った。
 しかし彼は、それだけでは気が済まないと言っていた。
 このホテルまでの車の手配も、快く引き受けてくれた。
 どうやら、一生かけて恩を返すつもりでいるようだ。
 今回の出発に関しても、出来る限りの協力を申し出てくれた。恐縮してしまうほどに。
 それだけ、彼にとっての『心の支え』は大切なものだった。
 男も朔也も、その気持ちを汲み、有り難く受け取ることにした。
 期間はひと月を予定している。
 来月戻ってくるのは、丁度その頃に満開を迎える桜を楽しむ為だ。
 それも、男が朔也と約束したことの一つだった。

――また来年も、その次も、桜は咲くから

 咲き誇る季節を二人で楽しむ。
 その先のことは決めてあるが、まだ決まっていない。
 今の事業を継続するつもりだが、まったく新しいことを始める計画も持ち上がっていた。具体的なことは帰国した後、二人で話し合って決める予定だ。
 男は、朔也が三年生に進学する少し前に起業して、順調に業績を伸ばしていた。
 以前の伝手とコネを大いに利用し、軌道に乗せた。
 男が手放したものは多いが、ほとんどは不要だったし、かえって清々した部分が大きい。手元に残ったのは昔馴染みの伝手と、かけがえのないもの…朔也。そう、彼がいてくれるのだ、二人ならば何の不満も不安も、ありはしない。
 そして男は夏が訪れる少し前、起業する際朔也と交わしていた約束通り、いずれは、具体的には高校を卒業したらフルタイムで働いてもらうのを前提に、短時間のアルバイトを持ちかけた。
 朔也は二つ返事で引き受けた。
 それはかねてから…男に進路を聞かれた時から胸に秘めていた野望だった。
 同じ所で働きたい、できれば男の下で働きたい、そう願っていて、しかしどうしても口に出せなかったのだ。
 だから、男から新たな事業を始めると聞かされ、夏休みに入ったらアルバイトとして雇いたいと言われた時は、耳を疑った。
 しばし呆然とし、震えながら喜んだ朔也の顔は、男の大事な、そして愉快な思い出の一つとなった。
 こうして朔也は願い通り男の下で働くこととなった。
 朔也は知識の吸収も早く、教えたことは一度で覚え、機転もきいた。働きぶりは堅実で責任感も強く、男の右腕としては申し分なかった。
 といって全てが順調という訳ではなく、時に困難にぶつかることもあった。
 朔也には失敗を過剰に恐れる傾向があり、本人もそれを自覚していたが、完全にコントロールするには時間が必要だった。
 慣れぬ内は当り前の、失敗とも呼べない失敗に激しく動揺し、深く落ち込んでしまうのだ。
 朔也はそれを悟られぬよう、作り笑いで隠した。昔の悪い癖が出たのだ。
 それと同時に、ソファーの足元で過ごす行動も再発した。
 以前と違うのは、積極的に接触してくるという点だった。
 足元に座った後、片足に腕を巻き付けるようにしてしがみつき、ぴったりと密着するようになった。
 驚きはしたが、男は決して責めることも突き離すこともしなかった。不安な時心細い時、人のぬくもりを求めるのはごく自然なことだ。何よりも心を癒してくれる。
 そうやって克服しようと懸命にもがいている人間を、どうして突き離すことができるだろう。
 自分がどんな問題を抱えているか、どうしなければならないか、朔也はわかっているのだ。
 それを言葉にして相談してくることはなかったが、代わりにこうした形での協力を求めてきた。
 応えねば、男が廃る。
 喜んで膝を貸す。
 男の方が心配になるほど、朔也は自分を厳しく律した。早く認めてもらいたい、役立つ人間になりたいと、痛ましいほどの努力を重ねていた。
 自分のやり方で乗り越えねばならないのだという本人の意思を尊重し、男は余計な口を挟まなかった。
 彼のような性格の人間には、厳しいあるいは優しい言葉をかけるよりは見守って本人に任せる方がよく、口出しはあまり効果がないことを、男はこれまでの経験で知っていた。
 ひどい悪循環に陥ってしまった時や、こんな失敗をするから母親に捨てられたのだと関連付けて考えてしまいそうな時だけ助言を与えるにとどめ、自ら納得し回復するのを見守ることにした。
 失敗に触れない代わりに、成長した部分を丁寧に取り上げ、称賛した。補佐をしてもらえたお陰でこれだけ仕事がはかどった、楽になった、そう言って、ことある毎になくてはならない一員であることを強調した。 実際彼はそうだった。
 始めの内はこうして苦労することもあったが、自分の働きがはっきりした形、報酬となって渡された時、一変する。
 自分がこれだけのことをしたのだという結果は、男の言葉と相まって朔也に大きな自信をもたらした。
 責任感はより強まり向上心も芽生え、そこから朔也は飛躍的に変わっていった。
 悪い癖はほどなく消え、片足だけあたたかい状態はまた隣に戻った。
 自信を持つことにも大分慣れ、さらには欲も出てきた。
 良い傾向だと男は喜んだ。欲がなければ、目標も未来も具体的に思い描くことはできないからだ。
 彼の意欲の一つは、一緒に海を渡り色んな国をめぐってみたい、というものだった。
 その為に金を貯めようと、より一層仕事に励んだ。
 無論欲を出せば、失敗することもある。しかしもう、朔也は以前ほど失敗を恐れることはなかった。落ち込んだ時、男の膝に助けを求めることは何度かあったが、始めの頃のようにひどく長く引きずることはなくなった。
 回復するにはどうすればいいか、何が必要か、段々とわかってきたからだ。
 最も欠かせないのは、男の存在だった。
 男の方も、朔也はかけがえのない存在だ。
 今日という区切りの日を迎えることができたのも、互いに支え合いここまでやってきたからだ。
 そしてこれから…明日のことは、全くの白紙だ。
 住む場所だけは残してあるが、どう生きるかは、これから二人で決めること。
 とにかくどこでもどんな仕事でも、お互いに、二人共に進むと心に決めている。

「さて朔也、ごちそうするから、よければコーヒーでも飲みに行かないかい」
「じゃあ俺は、ケーキをおごるよ」
「それは嬉しいね」

 喜ぶ男に笑いかけ、すぐに朔也は神妙な顔になった。
 向かってくる問いかける眼差しを受け止め、男はどうしたと尋ねる。
 鷹久、と朔也は小さく言った。

「俺から、離れていかない?」

 心細さに満ちた声が男にすがりつく。
 男は穏やかに笑った。
 どうしても拭い去ることができない不安。
 度々こうして浮上しては、彼を脅かす。
 今のように、幸せに向かうばかりの時には、特に。
 自分も長いこと振り回されてきた。覚えがある。それを考えれば、彼の心のなんと強いことか。
 だから彼に惹かれた。彼に救われ、ここまで来ることができたのだ。
 自分の本性…奪う者の気質を備えていると知っても尚離れず、助けてくれた人。こんなに思ってくれる人から、どうして離れられる?
 彼のお陰で自分は、もう、一人朽ち果てて消える恐怖に怯えなくていいのだ。
 滅多に人の分け入らぬ山奥の、冷たい土の上で誰に知られず果てることもなければ、高いビルの上から飛び降りて終わることもない。
 男はまっすぐ見つめて言った。

「もちろんだとも。一生をかけて、証明するよ」以前何かの折に言った。不安になったら何度でも聞くといい…だから彼は聞き、自分はこう答える「君こそ、私の傍にいてくれるかい。どこにも行かずに、ずっと、私の傍に。君がいないと、仕事も人生もお手上げなんだ」

 おどけた様子で男は肩を竦めた。
 朔也は誇らしげな顔できりと口を引き結んで、絶対にと言った。身を乗り出し男の頬に手を伸ばす。
 男も身を乗り出し、手を受け取る。あたたかさに自然と笑みが零れた。

「鷹久と一緒なら、どこへだって行ける。俺の世界だもの」
「それを聞いて安心した」触れる手を握りしめ、ゆったり微笑む「私も、君と共に生きるよ」

 二人の視線がしっかりと重なり合う。
 双方の顔に浮かぶ微笑みはしかし、硬い強張りも含んでいた。
 お互い、この時間が長くは続かないのを知っているからだ。
 もちろん、お互いの意思で相手から離れるのではない…無情にも引き裂かれるのだ。
 きっと、近い未来に。
 だから二人は言葉で約束を交わし、行動でもって証明し、無駄な抵抗を試みる。
 悔しいではないか、奴の思い通りになるなんて。
 思い切りあがいて、人間の諦めの悪さを思い知らせてやるのだ。
 男は目を逸らし、何か思い付いたとすぐに戻した。

「これを、預かっていてくれるかい」

 ボタンにかけた金具を外し、懐中時計を朔也の手のひらにのせる。

「これ、鷹久――」
「これは、私の大切な宝物の一つだ。預かっていてくれ」

 男は、朔也の手に時計を握らせ、両手でしっかり包み込んだ。

「君にチェーンを選んでもらった。その、思い出をくれた。特別なものだ」

 朔也は問いかける眼差しでじっと男を見た。

「君がこれを持っていてくれれば、私はそれを目印に君のところへ戻る」

 たとえ何があってもね。

「私の世界も、君なんだ。まるで正反対の愛しい人。君と共にいることが、私の生きる意味なのだろう。だから何があろうと、必ず朔也のところへ帰るから」

 朔也は一回、しっかりと頷いた。

「俺も迎えにいく」

 以前約束した通りに。
 凛々しい顔付きで誓う彼に愛してるよと告げ、男は手を引きながら立ち上がる。
 朔也は引かれるまま立ち上がって男に寄り添い、唇に軽く触れた。
 すぐに離れた彼に不満げに片眉を上げ、男は笑いながら腰を抱き寄せた。
 目を見合わせてから、もう一度、今度はより深く口付ける。
 充分愉しんで顔を離すと、どちらからともなく笑いが零れた。
 お互いの腕の中に、大事な存在がある喜び、明日の旅立ちに膨れ上がる期待と楽しさ、少しの不安、まだ見ぬものへの憧れ。
 それらが身体の中に留めておけなくなり、笑いとなって口から零れ出たのだ。
 楽しくてたまらないと男が言うと、自分も同じだと朔也は言った。
 そしてまた笑う。
 ひとしきり笑って、男は先へと朔也を促し、静かに部屋の扉を閉めた。

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