晴れる日もある

 

 

 

 

 

 日中はまだ夏の名残を感じさせるが、朝は段々と冷え込むようになってきた頃。
 朔也の母親と妹が、母親の実家近くの山中から白骨遺体となって発見された。
 遺体の状況から、事件ではなく、無理心中によるものと警察は判断した。
 死後、十五年近く経過しているという。
 恐らく、朔也を置いて出ていったすぐ後に、二人は山中で命を絶ったのだろう。
 報せは、朔也に多大な衝撃を与えた。
 体調を崩し、食事もろくにとれず、しまいには点滴が必要なほどに衰弱した。
 普段から口数が少ないが、更に黙し、状態を聞き出すのさえ苦労した。
 そんな彼を誰より身近で見守り励ます人間がいた。
 その人物の献身のお陰で、ひと月も経つ頃にはすっかり回復し、以前のように学校に通えるまでになった。
 世間は、御影町を襲った隔離事件の興奮からそろそろ解放されつつあった。
 研究所内部の事故として処理されたその事件。幸いなことに死者は出なかった。
 事件と深い関わりがあるとされる、セベク支社ビル、そして聖エルミン学園双方には、連日のようにマスコミ関係の人間が押し寄せた。
 もちろん、親会社である佐伯グループにも追求の手は伸びた。
 町全体を襲った異変だが、真相を知る者はごくわずかだった。
 その内の一人、南条は、いつものように学級委員の雑事を片付けると帰路についた。
 自室で着替えた後、屋敷の西側へと向かう。
 長い渡り廊下からふと見上げた空は夕焼けに染まり、ところどころに浮かぶ雲の影が彩りを添えていた。
 階段を下りて突き当たりの部屋へ。
 ノックをすると、少しして中からどうぞと声がした。
 南条はドアを開けた。
 窓辺の椅子に腰かけ、書物を手に男が座っていた。その膝の上には、朔也が抱き付くように跨って座り、男の肩に頭を預けて眠っていた。
 身体はすっぽりと、暖かそうな縞模様のブランケットにおおわれていた。
 初めて目にした時にはあらぬ勘違いをして、さしもの南条も取り乱した。
 男は、笑顔で南条を迎え入れた。
 読んでいた本を傍のテーブルに置き、向かいの椅子を勧める。

「ご覧の通りなので、おもてなしできなくて済まないね」
「気にしなくていい」
「冷蔵庫にあるジュースか、棚の紅茶、どちらでもお好きな方を」

 カップの位置は見ての通りだ。
 男は壁に並ぶ冷蔵庫と棚を指差した。
 断ろうとした南条だが、せっかくなので好意に甘えることにした。
 熱いものと冷たいもの、冷たい方を選ぶ。冷蔵庫の棚に並ぶ一本の小瓶。
 すっきりとした甘さのグレープジュースが、喉を下っていく。
 それから南条は、ようやく見慣れた光景にふうと一つ息を吐いた。

「まったく、学校ではあれだけ隙なく振る舞えるというのに、ここではこれか」

 甘ったれめ。
 安心しきった顔で眠る朔也に、声を抑えて言う。しかしその顔は少しも馬鹿にしたところはなく、どこか穏やかな眼差しをしていた。
 彼は帰宅後、必ずこうして男の腕の中で一時間ほど眠るという。
 母親と妹が無理心中をした、その衝撃は計り知れない。たとえ長年、捨てられたことから恨んだ相手だとしても、親への想いは完全には消し去れない…複雑な心境だろう。一番の心の支えである男に安らぎを求めるのもよくわかる。
 理由は他にもある。

「これまで、要らぬ苦労が多かったからね。その分を今、取り戻しているのさ」

 男は朔也との約束を守り、彼が話してくれた過去についての一切を他人に漏らしていない。南条が耳にした『要らぬ苦労』は、南条には、異変について言っているだけだった。
 それらを目付きで確認した男は、ふっと口端を緩めた。

「それに私も甘ったれだからね、丁度いい」朔也の背を優しく撫でる「君も、あの人に甘えてはどうだい。本当に気持ちが良いよ」

 南条はむっとした顔で唇を引き結んだ。しかし、男の声が誘う優しさを感じ取り、ふと笑う。
 しばし朔也の寝顔を見た後、南条は静かに言った。

「それにしてもこれが、悪魔相手に一歩も怯まず剣を振るった人間とは、とても思えんな」
「私もだよ」

 二人は目を見合わせた後、遠くを見やった。
 御影町を襲った隔離の異変は、男がセベクビルの地下で秘密裏に開発していたある装置によって引き起こされた。
 空間移転装置―デヴァシステムは、それ自体は人類にとって非常に有用な発明だったが、男は当初、それを別の目的の為に使おうとしていた。
 忌み嫌い呪うこの世を、人間を消し去る為に。
 企みはしかしいつしか男の中で消えてゆく。
 きっかけは朔也との出会いだった。
 彼との日常を送る内に、胸にわだかまっていた破滅の夢は薄れていった。
 そのことである一人の少女の怒りを買ってしまった。
 同じ夢を共有していたが、裏切られたと、勘違いしたのだ。
 男は、救いを求める彼女を、身捨ててなどなかった、救う手立てを考えていた。
 間に合わなかったのだ。
 デヴァシステムと霊的にリンクしていた彼女は装置を乗っ取り、男の心に封印されたもう一人の男…邪なる人格と共に世界を破滅に導こうとした。
 そして、自分の『内側』で育てていた異世界から、悪魔を出現させた。
 神話に見られるような、禍々しい外見をした悪魔の群れが、町に溢れた。
 同時期、金翅の蝶に導かれ、もう一人の自分であるペルソナの力が発現した者がいた。それが、事件の真相を知るごくわずかな者たち。
 その中には朔也もいた。
 始まりは、あの日の病院。
 南条、稲葉、黛が園村の病室を訪れた頃、朔也がロビーで老紳士に助け起こされた直後、突然大きな地震が起こった。
 それをきっかけに、死者が蘇るという信じ難い事態が起きたのだ……。

「もし日下部がいてくれなかったら、俺はきっと今も、抜け殻のようになっていただろうな」

 大事な人間を失って、生きる支えを失って、死んだように生き続けていたことだろう。
 南条は軽く目を伏せた。
 男は言った。

「聞いた話では、リハビリは順調だそうだね。良かった」
「ああ、もう大分元通り動くようになった」

 蘇った死者どもは、生者の血と肉を求めて、朔也たちに襲いかかった。
 混乱にも怯まず、老紳士を守って朔也はペルソナの力を振るって死者を退けた。

「日下部はあの時、守り切れなかったことをしきりに気にしていたが、俺にしてみれば間違いなく、山岡の命の恩人だ。最悪の事態を思えば、腕の骨折程度で済んで本当に……」

 山岡自身もそう言っていたと南条は付け加える。

「朔也は、奪う者が大嫌いなんだ。奪われるのは本当に悲しいこと…いつも言っていたからね」

 男はもう一度、ゆっくりと朔也の背中を撫でた。

「だからと言って、自分の命を引き換えにしようとするのは馬鹿者だ。自分自身が奪う者になってどうする」

 お前から、日下部朔也を奪おうとした。
 そう言う南条だが、口調は一切責めていなかった。むしろ、彼を称えていた。
 男は少し困ったように笑った。

「そうだね。でも……朔也のそういうところを、私は好きになったんだよ。自分にはない、彼の強さがね。奈落に向かってゆくばかりだった私を、力尽くで引き上げるように、連れ戻してくれた。文字通り命がけでね」

 彼には一生、頭が上がらないよ。
 笑う男に、南条は頷いて応えた。そして考える。
 もしも自分が誰か大事な人を守る為そういう選択を迫られたら、どうしても避けようがなかったなら、自分も迷わず同じことをしただろう。
 頭の中で空想するだけなら、いくらでも思い浮かぶ。
 だが、実際行うとなれば並大抵の覚悟ではない。
 朔也はそれを、一切の躊躇なく行った。
 デヴァシステムを乗っ取り、パンドラとなった彼女の怒りを鎮める為に、自らの命で補おうとしたのだ。
 男が心変わりした原因そのものだからだ。代価としては充分なはずだ。
 狂い咲きの桜が舞い散る中、朔也は立ちはだかった。
 代わりに自分を連れていけ、と。
 その場にいた男は、もちろん引き止めた。そして悟った。以前、夜桜の下で彼が見せた怯えは、この瞬間を『見た』からなのだと。
 あの時彼が見たのは、死にゆく男の姿。 
 だからこその、身代わりなのだろう。
 そんなことはさせられない。
 朔也は引き止める男をじっと見た。

――今まで、いろいろしてくれてありがとう。

 万感の思いを込めて告げ、踵を返す。

――駄目だ朔也、どこへも行くんじゃない。どこにも行かなくていい。私の傍にいなさい!

「あの時、初めてね……」男は穏やかに微笑んだ「朔也が心から笑った顔を、見たんだ」

 どこにも行かなくていい。

 真に欲していたひと言を手にして、彼は心から喜んだ。
 少しびっくりしたような顔になり、それからゆっくりと笑みを浮かべた。

「固く閉じられていた蕾が、ようやく開いたようでね。本当に……」

 男は口元に手をやり、言葉を詰まらせた。

「そう言えばあのあと、誰か泣いたな」

 南条の口調は、今度こそからかっていた。
 男は、勘弁してくれというように笑いながら大きく首を振った。
 笑いの余韻は、じきに悲しみに翳った。
 その瞬間を思い出したのだろう。
 怒りに染まった彼女の呪いにより、朔也は瀕死の状態に追い込まれた。
 浅い呼吸を繰り返しながら、必死に男に何かを云おうと口を動かした。唇は、死にたくないと綴っていた。けれどどうしても声は出なかった。悔しさに顔を歪ませ、朔也は泣きながら息を引き取った。
 男も声が出せなかった。ただただ首を振り、力なく横たわる身体を腕に抱く。やけに重かった。命の失せた身体というのはこんな風に重いのか。初めて知った。知りたくもなかった。
 突き付けられた現実。
 死にたくない……そうだろうとも。
 彼は、たとえどん底の頃であっても、死んでしまいたいと思ったことはなかったのだ。
 自分でいることが嫌になって、何もかも投げ出したくなっても、彼は一度としてこの世界を恨んだことはない。
 死にたいと思ったことはない。
 一生手に入らないかもしれなくとも、一つの強いものを求めて、生き続けてきたのだ。
 そしてようやく、手が届くところまできた。
 それほど勇敢で、どんな困難にもめげずに生き延びてきた人に、自分はなんてことを。
 自分は結局、何一つ手にできない。
 資格が無いのだ。
 人を、世界を呪った報いだ。
 いっそ笑ってしまいたくなる。
 愚かさに涙が溢れた。
 その一粒が朔也の頬に降りかかった時、復活は起きた。
 彼を守る為に発現した、最上位のペルソナ太陽神の力によるものだ。
 朔也は宿ったペルソナの力で、彼女の怒りを鎮めることに成功した。
 もちろん一人だけの功績ではない。
 その場に集った南条や稲葉、そしてなにより、彼女自身の強い心によるものだった。
 そして異変は収束に向かった。
 もはや町に悪魔が溢れる事態は起こらないだろうが、 あれ以来、朔也はペルソナの力を宿したままにしていた。
 二度と再び、奪うことも奪われることも繰り返さない為に。
 ペルソナは他にも意外な効果をもたらした。
 体力の面が大きく改善されたことと、もう一つ。
 復活は、文字通り生まれ変わるということだった。
 彼の身体に残る古い傷跡が、全て消えて無くなったのだ。鎖骨に縦に刻まれた傷も、左肘の傷も、背中の抉れた傷跡も、一つ残らず無くなった。
 唯一、身に付けていたピアスとホールは継続された。男のものである証、特別な一つだ。
 そしてこれはもう少し後で知ることになるが、ひどい時には一度に数か所も負っていた骨折痕も、生まれて一度も損傷したことのない綺麗なものに生まれ変わっていた。
 無論それで心に刻まれたものまで無くなった訳ではないが、見る度、惨めな過去を思い出すきっかけとなっていた古い傷跡が消えたことは、朔也の心に様々な影響をもたらした。
 その影響の一つとして、あの日から、朔也はようやく、男に対する自分の気持ちを口にできるようになった。
 息を吹き返し声が出るようになって、一番に口にしたのも、その言葉だった。
 そして言葉だけでなく、態度でも示すようになった。
 もう二度と男を失いたくないという気持ちから、常に傍にいて態度で示し、言葉で伝えるようになった。
 拉がれた惨めな人生の中で追い求めた、一つの強いもの。
 もう二度と離れたくない。失いたくない。
 それが、朔也がこうして男にくっついてうたた寝する、もう一つの理由だった。
 男もその気持ちを汲んで、彼が本当の安心感を得られるようになるまで、行動を一切制限しなかった。したいようにさせた。
 気持ちはよくわかるが、と少々呆れ気味の南条に、朔也はきっぱりと言った。

――俺の生きる糧になるひと言をくれる人に、もう不義理は働きたくないんだ。

 自分に意気地がないせいで、辛い思いなどさせたくない。
 この言葉は南条にも影響を与えた。
 今までも疎かにした覚えはないが、今まで以上に、周囲に心を向けるようになった。
 死んでしまったら、おしまいなのだ。
 悔やんでも悔やみきれない。
 それを目の前で見せられた、心も変わる。
 それまでは、いつか訪れることに漠然とした恐怖を感じながらも、そんなものはずっと先だと考えるのを後回しにしていた。来ることはわかっていたが、今ではないと、目を背けていた。
 必ずいつかは訪れるものだと、しっかり向き合えるようになった。
 その時にどう乗り越えるべきか、考えるきっかけになった。
 南条だけではない。
 異変を乗り越えるのに集まった仲間たち全員と、どこか奇妙ながら暖かい絆ができあがった。
 南条は、そしてみんなは、新たな心の支えを模索し始めた。
 朔也にとっての支えは男であり、男にとっての支えは朔也だった。
 お互いに、もう離れられない。

「しかし、一時間もその姿勢でいるのは、辛くないか?」

 重さも相当なものだろうと、南条はふと気になった疑問を口にした。
 男はちらりと朔也を見てから言った。

「読書をしている内に一時間などあっという間に経つし、重さもそれほど感じないのだがね……」

 と、少し深刻そうな顔付きになった。
 そして秘密の話を打ち明ける時そうするように、手の甲を口元に持っていく。
 南条は身を乗り出した。

「我慢する方が、よっぽどつらい」

 囁かれた言葉にやや困惑顔になる。
 我慢とは、用足しのことだろうかと同情しかけて、すぐに男の言わんとするところを悟る。
 自分が初見の時にあらぬ勘違いをしてしまったのを、からかってきたのだ。
 気付いて、南条はかっと頬を赤くした。
 なにせ姿勢が姿勢だ、間違えたとしても仕方のないこと。
 しかし今、そのことでからかわれるとは。
 馬鹿者、と怒鳴ろうとして、男に立てた人差し指で制される。

「……――!」

 代わりに南条は、たっぷりの不満を込めて喉の奥で唸った。
 男は声を抑えて笑い、済まなかったと詫びた。

「全くの冗談というわけでは、ないがね」
「……もう知らん」

 吐き捨て、南条は大げさにため息をついた。
 空気が収まったところで、男は尋ねた。

「ところで、私か朔也に何か用があったのではないか?」
「ああ。実はまだきちんと、山岡の礼を言ってなかったことを思い出してな」

 非日常から日常に戻り、いつもの生活へと戻る間もなく、朔也に悲報が届き、混乱は長引いた。
 ようやく落ち着きを取り戻したのは、ここ数日のことだ。

「だが、また後にする。夕食の時にでも」
「そうかい。それなら私も、私たちをここに避難させてくれた礼を、言っても言い足りないくらいだよ、朔也の療養についてもだ。さすが『南条』だね、いいスタッフが揃っている。もうしばらくは、騒ぎと無縁でいたいからね。この部屋は窓からの眺めもいいし、空もよく見える。ありがとう」

 窓からいくらか離れた日当たりの良い場所に、桜の木が一本植わっているのが見える。
 葉はすっかり黄に紅に染まりいささか寂しい気持ちにさせたが、その下では次の花をしっかり育んでいた。
 どっしりとした枝ぶりの桜の木は、満開の時を迎えたならそれはそれは見事なものだろう。

「礼には及ばん」

 男は、既にセベクの支社長ではなくなっていた。異変が起こる寸前というタイミングで、降りていたのだ。
 そのことも、彼女の怒りを買った理由の一つだった。
 そして辞めたとはいえ、直前までデヴァシステムの開発責任者の一人だったのだ、マスコミの目が男の居住するマンションにも向くのは明らかだった。
 そこで南条が手を回し、騒ぎが起こる前にここに移動させたのだ。
 朔也を除いて知っているのは、南条の他に二人きり。
 今のところ嗅ぎ付けられた様子はない。

「こんな程度では、気が済まん。俺たちの命の恩人にこんな窮屈な思いをさせているのを、歯痒く思っているくらいだ」

 朔也はともかく男は、この部屋から一歩も出られない。
 しかし男はそのことに不満はなかった。確かに窮屈ではあるが、退屈はしていない。朔也といるのだ。何の不満もありはしない。
 現在は使われていないが、この部屋は住み込みのメイド用に作られたものの為、キッチン、バス、トイレ…設備は一式整っていた。つまりこの中だけで充分生活できるということだ。浴室も広く、特にキッチンの使い心地は中々いいと男は満足していた。

「君は結構義理堅いね」
「……お前は、随分変わったな」

 少し声の調子を変えて、南条は言った。

「そうだね。もうとっくに手遅れだと思っていたが、案外どうにかなるものだな。君も、良い前例ができたのではないか」
「それにしてもまさか、あれだけの地位を手放すとは……」
「目的が変わって、あそこにいる意味がなくなったからね。やることもなくなったし、特に未練もなかったよ」男は軽く息を吐いた「朔也と一緒に、私も一度死んだようなものだ。そして……全ては朔也のお陰だ。朔也にだけは、嫌われたくないからね。私の世界だし……それに彼は、奪う者が大嫌いだから」

 危うくそうなるところだった。
 男は遠くを見やり、肩に乗る朔也の頭に軽く頬を寄せた。
 特にその目が、と南条は思った。

「以前見た時とは大違いだ。まるで別人だ」
「あの頃はね……あの頃のままだったら、朔也に出会えていなかったら、きっと今頃私は……面白いことにね、あの頃のことはまるで、自分の前世を思い出すような感じなんだ。紛れもなく自分だが、ぼんやりともやに包まれて、自分ではないような……」

 男は少し下向きにしていた目を南条へ向け、自分の額を小突いた。

「とはいえ、完全になくなったわけではない。もしも君が、上を目指す為に何らかのアドバイスが欲しいというなら、私でよければ力を貸そう。有効に使ってくれるなら、私も嬉しい限りだ。近い将来、日本一の男になる人間に少しくらい恩を売っておくのも、悪くはないだろう」

 どこか楽しげな男の声に南条は口端を軽く持ち上げた。

「以前の貴様が言ったなら、俺は即座にいらんと跳ね退けただろうな」
「それはもう、きつい目で、敵意たっぷりにね」

 茶化す声音で男は言う。
 南条は少々渋い顔になった。

「まあそうむくれるな。気が向いたら、いつでも来るといい」

 楽しげな顔付きをいささか引き締め、これは朔也にも言ったのだが、と男は切り出した。

「私は一度……深淵を覗いた」

 深淵に覗かれた。
 南条はわずかに眼を眇めた。

「今は平穏だが、いつまた誘惑に揺らぐかわからない」

 何を、馬鹿な、そう言う南条だが、這い寄る混沌の恐ろしさは、身をもって経験しているだけに、声に最後まで力が入らなかった。

「けれどこうして逃げ伸びたわけだからね。朔也のお陰だが。逃げることは不可能ではないわけだ。だから次もまた、逃げるさ」
「もし……」

 逃げ切れなかったら。
 問いかける南条の目をしばし見つめ返し、その時は、と男は言った。

「今回のように朔也に迎えに来てもらうよ」

 もうお願いもしてあるんだ。

「……本当に、変わったな」

 少し呆けた声で南条は言った。
 男が誰かを頼る、それを自然に口にするというのが、どうしても慣れなかった。
 頼るということはそれだけ相手を信頼しているということだ。
 この男には、最も縁遠いものだったはずだ。
 それが、今では。
 南条の目が、朔也に注がれる。
 瞬きも忘れて見つめる南条に男は軽く唸った。

「君の目から見て、私はどんな風に変わった?」
「いろいろ……悪くはない」

 南条は言葉を濁した。はっきり口にしようとした時、山岡のイメージが浮かんできたのだ。いつの時も自分を支え、見守ってくれる、優しい雰囲気が重なって見えた。
 それを言うのが、急に癪に障ったのだ。

「本当に欲しかったものを、見つけたからだろうね。一生手に入らないものをね」
「一生……?」

 南条は訝る声を漏らした。
 男が言っている本当に欲しかったものとは、彼の腕の中にいる朔也のことに他ならない。
 しかし南条から見れば、もはや二人はこのまま不変のように思えた。
 男は微笑んで首を振った。

「いいや。相手の気持ちにあぐらをかいて、怠けたり驕ったりしたら、たちまち相手は離れてしまう。心は冷えてしまう。自分の心もね、腐ってしまうよ。今いっときは良くても、それが変わらず続くわけではない。いつでも、より良いものを選んで、考え、見続けていく必要がある。それこそ、一生ね」

 ああ、金や物で繋ぎ止めることができたら、どんなに楽か。
 心にもないことを言い、男は軽く肩を竦めてみせた。
 金や物。それらで本当に心を繋ぎとめておくことができると思っている人種を軽蔑している南条は、男にではなく別の誰かに向けて、唇を歪めて笑った。
 南条の心情を察し、男はいたわるように見つめた。

「そして朔也は、私以上にそれらをしてくれる。あの事件の後から、とてもよく私の話を聞いてくれるようになった。恐らく玲司が何か言ったのだろうね。あんまり聞きたがるので、困るくらいだ」

 そう言いながらも男の顔は笑っていた。
 点滴の状態を脱し、流動食ならどうにか喉を通るようになった頃、朔也はずっと閉ざしていた口をようやく開いた。
 最初に出てきたのは、誰より身近で見守り励まし続けた男に対する感謝と敬愛。そして謝罪。
 男はそれらを受け取り、容赦した。
 それから朔也は、自分の気持ちを述べるとともに男の心により近付こうと多くの言葉を口にするようになった。

「自分のことで精一杯だろうに、一生懸命、何をすれば良いことに繋がるか考えてくれる」

 二人きりの時、朔也は今までにないほど自分の考えを口にし、男の言葉を聞こうと努めた。
 それまで、男はそんなことをしたことがなかった。誰にも、親にさえ、そこまで踏み込ませたことはなかった。
 それ故、口にするのがためらわれるものが思いの他多いことに、その瞬間になって初めて気付くこともあった。
 激しく動揺することも少なくなかった。
 自分の中ではとっくに何でもないことになっていたと思っていたものに、強く揺さぶられる。
 そんな時朔也は、男を抱きしめた。自分がされて嬉しかったことをお返しして、男を慰めようと心を砕いた。
 何日にもわたって点滴だけで過ごした腕は、また昔のようにやせ細って、痛々しいほど貧弱だったが、とても力強くあたたかかった。
 男には何よりの癒しとなった。

「時々、どうしても埋められない私たちの差を思い知らされ、苦しく感じることもあるが……」

 男はそこで一旦言葉を切り、夕暮れ時に染まる庭木を見やった。
 それは例えば、子供時代の境遇の違い。虐待のこと。そのせいで壊れたもの。再び作り上げた故のいびつな器。
 そういった様々な苦労から生じる問題が、二人の間には横たわっていた。
 ゆっくりと南条に視線を戻す。

「その重さもまた、いいものだよ。だから私も、それ以上のものをお返ししたくなるんだ」

 これがまた難しいのだけれどね。
 どこか嬉しそうな男に、南条は考え込むように黙った。

「そういう君も、以前とは随分変わったよ。誰かが傍にいてくれることに気付くと、人は変われるものだね」

 どう変わったか聞きたくないわけではないが、南条はそれ以上追及しなかった。
 ただ静かに頷いた。

「日下部からも聞いたとは思うが、城戸が会いたがっていた」

 男がここにいることを知っている数少ない者の一人。
 男は軽く頷いた。
 二人の関係…異母兄弟であること、玲司が強い憎しみを『神取』に抱いていたことは、異変を元に戻す道中で偶然に知った。
 本当に恨みがあるのは男の父親に対してだが、幼少時より育った憎悪は『神取』の名に向けられるようになり、許容を越えた激怒は、度々男への奇襲となった。
 すっかり憎しみに囚われていた玲司だが、彼もまた朔也によって救われた一人だった。
 奪うことから始まる果てしのない虚しさを、朔也は、自分自身の命をもって玲司に教えた。
 死と復活が切り拓いた新たな道は、このように様々な人間に影響を与えていた。

「もう命を狙われるのはごめんだが……」男はおどけた様子で肩を竦めた「話をするくらいならできると、伝えてくれないか」
「わかった。まあ、日下部がいるからあいつも下手に手出しはできんだろうがな」

 今は『こんな』だが、とわざと目を丸くし、南条は軽く笑った。
 男も笑った。

「彼女のことも、聞いたよ」
「ああ、園村…来月にも登校できるようになると、冴子先生が言っていた」
「ほんとうに、良かった」

 微笑み、男は考え込むように軽く目を伏せた。
 しばらく沈黙が流れた。
 よくよく耳を澄ますと、かすかに朔也の寝息が聞こえた。
 本当に安心しきっているのだなと、南条は思った。少しおかしかった。

「ところで、これからどうするつもりだ?」
「そうだねえ……いずれきちんと、した事の責任を取るが、とりあえず外の騒ぎが落ち着くまで、ここでかくまってくれるかい?」
「それはまったく構わん。が、ここにいるだけでは身体もなまるだろう」
「うん、いや、日がな一日のんびり読書に没頭するのも、そう悪くはないよ」

 男は壁の書棚を見やった。
 そこには、男がマンションから持ってきた仕事がらみの専門書が並んでいた。棚の別の場所に詰められた参考書は高校生向けで、それらは朔也の持ち物だった。
 南条も同じく書棚に目を向けた後、テーブルに置かれた先ほどまで男が読んでいた大判の本を凝視した。

「……本当だったんだな」

 南条はぎゅっと眉を寄せた。それを見て男はおかしそうに笑う。

「朔也が何か言ったかい?」

 まだ信じられんと言わんばかりの重いため息を吐いて、南条は頷いた。
 長い休みを経て、ようやく復帰した朔也を気遣い、異変を共に過ごした面々はより結束を深めて集うようになった。
 それが最も濃く表れるのは昼の時間。
 みなで集まり賑やかに食事を進める。
 そこで、朔也の愛称を決定した人間が今日、前々から気になっていた彼の彩り鮮やかな弁当に我慢ができなくなり、一つでいいからおかずを分けてもらえないかとお願いしたのだ。
 断るにしてもいつもは柔らかく対処する朔也だが、この時ばかりは厳しい顔付きになりきっぱりと首を振った。
 他のメンバーが、自分で作っているのかと聞くと、彼は違うとそれだけ言った。
 後で気になり、南条ははっきり名前は言わずに尋ねた。
 そう、作ってもらっているのだと、朔也は少し嬉しそうに誇らしげに言った。
 何とも言えぬ幸せそうな顔にその時はほんのりとしたあたたかさを味わって終わったが、よくよく考えてみればどうしても結びつかない事実だった。

「……毎朝、作っているのか」

 男はゆっくり頷いた。
 どこか得意げな顔に南条は何とも言えぬ渋い顔になった。

「彼は学生という仕事を全うしている。対して私は、ご覧の通り無職だ。せめてこれくらいはしなくてはね」

 男が先ほど熱心に読んでいたのは、料理のレシピ本だった。

「中々奥が深くてね、楽しいよ。綺麗に食べてもらえると嬉しいものだ。機会があったら、ご馳走するよ」
 
 もう少し研究したら、弁当屋を開けるかもしれない。
 男はそれもいいなと笑った。

「何を言う」

 南条は取り合わず、口端で軽く笑った。

「それならば、部屋に置いてきた本全てを」書棚に詰まった専門書をぐるりと見回す「ここに運ばせるはずがなかろう」

 昨日も読んでいたではないか。
 鋭い目を持つ南条に男は微笑み肩を竦めた。

「まあ半分は、本気なのだがね」

 片手でぱらぱらと本をめくる。
 南条は男の横顔に目をやった。そして、もしよければの話だが、と切り出した。

「うちに加わらないか? それだけの頭脳を燻らせておくのは、もったいない」

 そんな大層なものではないよ…男は声に出して笑った。

「私にできるのは、ほんの少しのアドバイスくらいだ。それにそんなことをしたら『南条』まで余計な騒ぎに巻き込まれるだけだよ。申し出はありがたいがね」
「適当に言っているわけではない。考えてみてくれ」

 男はただ黙って笑い、南条を見た。

「君が総帥の座について、それでも考えが変わらなかったら、私も考えてみるよ」

 嘘とも本気ともつかぬ口調で男は言った。
 からかい交じりの大人の声に南条は少し眼を眇めた。

「これでも考えてはあるんだ。少し前から準備は始めていたし。騒ぎが落ち着いたら起業して、それから……、朔也と交わした約束を果たさないとね。君は余計な心配をせず、自分のトップを目指すといい」

 男の笑みはゆったりと大らかで、以前南条が目にしたものとは大違いだった。
 仏頂面もいつしか緩む。
 南条はしばし自分の手のひらに目を落とした後、男を見やった。

「俺に、できると思うか?」
「君は可能性の塊だよ。私には見えなかったものが、君にはきっと見えるだろう」

 どこか眩しそうに目を細め、男は続けた。

「君の手が、この世界でどんなものを掴むのか、どれだけのことを為し得るか。これからどういったことをしてくれるのか……楽しみにしているよ」

 そしてふっと頬を緩める。

「これは、頭の片隅にでも置いていてくれればいいのだが、親を、徹底的に利用してやれ」

 話の唐突さに面食らった後、嫌悪感を示し、南条は顔をしかめた。

「そう、今はそれでいい。今はその潔癖が必要な時だ。自分だけの力で全てできると、信じなさい。だから今は聞き流して、けれど忘れず、頭の隅の方にでも置いていてくれればいい」

 そして必要な時がきたら、親でも何でも、利用してやれ。
 何と言ってよいやらわからず、南条は戸惑いにもごもごと口を動かした。そしてひとまず、わかったと頷く。

「それにしても本当に、変われば変わるものだな。君が、よりにもよって私に、そんな事を聞くとはね」
「……お互い様だ」

 南条は少し口をへの字にして言い返した。それから、そうだねと微笑む男に合わせて少し笑った。

「そうだ、俺が直接見た訳ではないのだが――」

 南条は、クラスメイトの一人が読んでいた週刊誌に、セベクの支社長、死亡か…という見出しの記事が載っていたことを男に告げた。
 読者の気を引く為の、低俗な週刊誌らしい見出しだと、南条は鼻で笑った。
 男はさもおかしそうに肩を震わせた。
 それではまた後で、夕食の時に。ごちそうさまとジュースの礼を添えて南条は退室した。
 男はしばし見送り、窓の方に向き直った。
 夕暮れが広がる空は高く、美しい。
 明日もまた、朔也の大好きな晴れた空が見られることだろう。
 しばらく空を眺めた後、男は口を開いた。
 歌声に自信はないが、ふと歌いたくなったのだ。

 夕焼け小焼けで日が暮れて

 以前朔也がくれたものだ。
 後半に差し掛かったところで、歌声が二つになった。
 朔也が目を覚ましたのだ。
 寝起きのかすれた声が、歌の雰囲気によく似合った。

 からすといっしょにかえりましょ

 歌の余韻が消える頃、朔也は静かに愛してると言った。
 初めてその言葉を耳にしたのは、彼が復活を遂げた後。
 それからもう何度も告げられているが、言葉は変わらずに男の胸を締め付け、幸福な気持ちにさせた。

「……私も愛しているよ、朔也」

 そして言葉を口にすることは、更なる幸福感をもたらした。
 しばらくの間、抱き合って一つの影になる。
 男は、腕の中に最も大事な人がいることにあらためて感謝する。
 それは唯一、朔也の両親に思うこと。
 母親は、朔也を残し娘と共に命を絶った。
 父親は、朔也を残し投身自殺を図った。
 いずれも、一度は朔也を一緒に連れて行こうとして、思いとどまった。
 今となっては、真相はわからない。だから男は、朔也のせめてもの慰めに、君に生きていてほしかったのだと、口にした。
 本当のところは誰にもわからない。
 だから、そう思って生きることで、彼らを弔ってあげなさい。男は言った。
 朔也は何も言わなかった。ただ、納得するように小さく、頷いた。
 男は二人に密かに感謝した。
 もし彼らが朔也を連れていってしまっていたら。
 こんな気持ちを持つことなく、死んでいたことだろう。
 世界を、人間全てを道連れにして。
 破滅に向かうばかりだった昏い夢を断ち切り、呪いから解放してくれた人――
朔也。

「愛してる……」

 男は朔也にそして自分に言い聞かせるように、もう一度想いを口にした。
 それからゆっくり腕をほどき、顔を洗っておいでと笑いかける。
 男の腕の中で眠って安心し、すっきりした顔が、顔を洗ったことでよりぱっちりと目覚める。
 さっぱりしたという顔で洗面所から戻ってきた朔也をまた膝に座らせ、男は言った。

「約束してから大分経ってしまったが、明日、以前言っていたパエリアを作ろうと思う」

 明日は君の、誕生日だ。
 今のところ自由に外に出られない男には、それが精一杯だった。
 だから精一杯、彼の喜ぶことに力を注ごうと思うのだ。

「他に何か食べたいものはあるかい?」

 朔也は小さく首を振り、楽しみにしていると言った。

「ああ、楽しみにしていてくれ。もう材料は頼んであるからね。では、何か欲しいものは?」

 尋ねる男の目を真っ向から見つめ、ただひと言名前を呼ぶ。

「もう、君のものだよ」

 男は小さく笑った。
 口元に穏やかな笑みを浮かべ、朔也は一番欲しかったものに抱き付く。
 男は微笑み、抱き返した。
 命を刻む身体は、こんな風に重い。本当に心地良い。
 少しして、朔也は口を開いた。

「したいことなら、あるんだ」
「言ってごらん」

 促すと、少し恥ずかしそうに目を揺らししながら、自転車に乗れるようになりたいのだと言った。

「泳げるようにも、なりたい」

 今までそれらに触れる機会がなかったのだ。身体の傷を見られるのが嫌で、水泳の授業は徹底して避けてきた。自転車を買ってもらえる余裕はなく、また、必要と思われるほど目を向けられもしなかったからだ。
 彼はほとんど何も、与えられたことがなかった。
 本当に、ぎりぎりの生活だった。
 親戚の家ではもちろんそんなことはなかったが、彼は自ら『余分』であるからと何もかもを遠慮し、諦め、遠ざけてきた。
 今ようやく、そういったことをしたいと思える余裕が出てきたのだ。
 男は小さく、何度も頷いた。

「スケートを教えた時も思ったが、君はバランス感覚が優れているから、すぐにでも乗れるようになるよ」
「教えて、くれるか」
「もちろん、私でよければ」
「なら、それが欲しい」
「お安い御用だ」

 朔也は嬉しそうに口元を緩めた。
 部屋の窓を見下ろす位置、桜の木の枝に、金翅の蝶がとまっていた。
 辺りはすっかり夕闇に包まれ、しかし蝶の周りだけはほのかに輝いていた。
 やがて窓辺に朔也が立ち、男と何やら楽しげにお喋りを交わしながらブラインドに手をかけた。
 朗らかな笑い声が聞こえそうな笑顔が、ブラインドの向こうへと遠ざかる。
 見届けた蝶は、金翅をゆっくり羽ばたかせ、飛び立っていった。

 

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