晴れる日もある

 

 

 

 

 

 どこか白く眩しいところで横になり、朔也はうつらうつらとまどろんでいた。
 朔也、と男の声が聞こえた気がした。
 男の暖かい手が、頭を撫でたような気がした。
 すぐに、夢を見ているのだと気付く。
 夢現の境で、こうだったらいいと願望を見ているのだ。
 目を開ける。
 途端に耳はざわめきを聞き始める。視界には、白くぼやけた病院独特の天井が移った。
 やはり夢だった。
 左肘の辺りに重い痛みを感じる。
 首を曲げて見るまでもない。覚えのあるこの感覚は、点滴だ。
 袖がまくれないので、ジャージの左半分を脱がされていた。ざらざらとした、少し硬い毛布の感触がする。
 朔也は息を吐いた。
 段々と、病院のベッドで点滴を受けている理由を思い出す。
 体育の授業中に軽い熱中症に見舞われ、万一のことがあってはいけないと、救急車を呼ばれたのだ。
 そして一番近い御影総合病院に搬送され、救急外来の一角にあるこのベッドで点滴を受けている。
 断片的に残っている記憶をたどり、朔也はもう一度深く息を吐いた。
 昨日の話にあんまり驚いたせいで、夜、しっかり眠れなかったからだろう。
 本当に驚きだった。
 今もまだ現実感がない。
 男はいつもの優しい低音で、現実だとはっきり言った。
 高校を卒業したら、男と一緒に暮らす――嬉しい。
 たまらなく嬉しい。
 自分にも、こんなに嬉しいことが訪れるのだ。
 ちらりと点滴のボトルを見上げる。
 ぽとん、ぽとんと滴が落ちる。残りはあと三分の一ほどだ。
 時間はどれくらいかかるだろう。
 ぼんやり考えていると、きびきびとした足取りで一人の看護師がやってきた。
 名前を呼ばれ、気分はどうかと尋ねられる。
 もうおかしなところはないと答えると、点滴が終わり次第帰宅して大丈夫と告げられた。
 そこでふと、小さな震えがきた。

「トイレに行っても、いいですか?」
「大丈夫よ。点滴すると、近くなっちゃうからね。廊下に出て右だから。スタンドに気を付けてね」

 急に具合が悪くなったら、トイレに緊急呼び出しのボタンがあるから、と看護師は言った。
 肘からぶら下がる長いチューブに苦労しながら用を済ませ、手を洗っていると、背後に誰かが立った。
 顔を上げると、鏡越しに睨んでくる視線と目が合う。
 朔也は少し驚いた。
 数か月前に転校してきた、同じクラスの男子だ。
 彼、城戸玲司もまた、どこか悪くして病院に来ているのだろうか。
 訝りながらうかがっていると、玲司は口を開いた。

「てめぇ、神取とはどういう関係なんだ」

 朔也は無言のまま眉根を寄せた。
 おいそれと人には言えぬ仲。
 どうごまかすべきか言葉を探していると、信じられない言葉が耳に飛び込んだ。

「奴には、恨みがある」

 額の傷を押さえ、呻くように玲司は言った。
 まさか、男が――朔也は動揺に瞳を揺らした。

「これは奴の父親にやられたものだ」

 その時から、神取一族は俺たちの仇だ。

「必ず殺してやる」

 朔也は振り返って、まっすぐ玲司を見た。額の傷が目に入る。それは胸の奥まで沁みていって、覚えのある毒のような痛みをもたらした。
 喉の奥で唸る。
 それでもどうにか朔也は玲司の目を真っ向から見た。
 持ち上げる顔の角度に奇妙な既視感を覚える。

「奪われる辛さを知っているなら、奪う者になるな」
「なにぃ?」

 凄む玲司と、怯まない朔也の眼差しがぶつかり合う。

「俺から鷹久を奪うな」

 俺の生きる意味を奪うな。

「うるせぇ!」玲司は胸倉を掴み力任せに引き寄せた「奴はな、俺とオフクロの仇なんだよ!」

 直後、刺すような玲司の目付きが驚きに揺らいだ。
 朔也の鎖骨に刻まれた古い傷跡を見たからだ。
 よく似たものが自分の額にも刻まれている。だから分かる。それが何なのか。
 視線で気付き、朔也もまた自身の傷に目を向けた。
 触れられたくない傷だと敏感に察し、玲司は手を離して詫びた。
 朔也は右手で襟を寄せながら言った。
 昔のこと。酔って暴れる父親から逃げ、アパートの階段から落ちて出来た傷。その時一緒に左肘に大怪我を負って、骨折した。

「悪かった……」

 玲司から敵意が消えたことで朔也も首を振る。
 しばし黙した後、玲司は言った。

「なら尚更、恨みが分かるはずだ」

 それにも首を振る。

「それよりも、守るべきものを守りたい気持ちの方が、強い」

 憎み、恨む気持ちがなくなった訳ではない。
 日毎に、夜毎、今だって思い浮かべるのも苦しいほど恨みは根付いている。
 しかし。

「俺が恨みに囚われることで、鷹久から自分を奪いたくない」

 憎悪に染まった自分は自分ではない。
 奪われるのは本当に悲しいから、自分は、奪う者にはなりたくない。
 朔也は静かに語った。

「てめぇは……」

 何か云いかけて玲司は黙り込む。思うところがあるようだった。
 それ以上言葉が出てこないのを見届けた朔也は、向きを変えて歩き出した。
 数歩進んだところで不意に足元がふらつき、頭から洗面台へと倒れ込む。

「あぶねぇ!」

 玲司の手が咄嗟にかばう。
 止めることは叶わなかったが、手のひら越しにぶつかったお陰でほとんど衝撃はなかった。

「……大丈夫か?」
「ありがとう」

 慌てふためく玲司と対照的に、朔也は静かに礼を言った。 

「おいおい、大丈夫かい」

 そこへ、一人の中年男性が入ってきた。

「はい」

 朔也は応えて、立ち上がった。
 弱い者を放っておけない性分なのか、単に立ち去るタイミングを失っただけか、玲司はベッドまで付き添った。

「それでも俺は、俺は……」

 何かを考え込む声で、玲司は呟いた。
 朔也は問うように玲司を見ていた。
 その時向かってくる声がした。
 見やると、大小の紙袋を手に提げた南条と稲葉、そして黛がやってくるのが目に入った。
 学級委員である南条と黛が、朔也に制服と荷物を届けにきてくれたのだ。
 稲葉は、この病院に入院中のクラスメイト、園村も一緒に見舞う為に、ついてきたという。

「遅くなって悪かったね、城戸」

 そう言って黛は軽く手を上げた。
 そこでまた一つ朔也は思い出す。
 救急車で運ばれる際、付き添いを買って出たのが玲司だったのだ。

「調子はどうだ、日下部」

 南条は荷物を差し出した。
 受け取り、朔也はもう大分いいと答えた。点滴が終わり次第、帰れると告げる。
 南条の横に立ち、稲葉はスタンドに吊るされた点滴を見上げた。

「あともうちょっとだな」
「顔色、そう悪くないね」

 良かったと、黛が腕を組む。
 ベッドを取り囲む四人は、すぐに三人になった。
 玲司が、背を向けてさっさと立ち去ったのだ。

「相変わらず無愛想なやつだな」
「にしちゃあ先生押しのけて付き添い買って出るし、ああ見えてきっと根は良い奴なんだよ」

 南条と黛はしばし見送り肩を竦めた。

「まだ調子悪いか?」

 俯いてベッドに座っている朔也に気付き、稲葉は声をかけた。
 朔也は、彼らにいつもするように人懐こそうな笑顔を浮かべ大丈夫だと答えた。
 玲司の言葉が胸中をかき乱し、気持ちが落ち着かないだけだ。
 考えてみれば、自分は男の家族のことを何も知らない。家族も、彼自身の生い立ちも、何一つ聞いたことがない。
 名字の違う城戸玲司が、どうして男の父親にあんな惨い仕打ちを受けなければいけなかったのか。
 どんな繋がりがあるのか。
 朔也はピアスに触れた。
 どうして自分はこれまで、自分のことばかりで男のことを気にかけてこなかったのだろう。
 甘えるばかりで、情けない。
 やはりどんなにしても、自分は普通には近付けないのだ。
 好きだと言ってもらえる資格などない、頭のいかれた汚い子供。
 悔しかった。
 男は、そうやって悔しいと思う感情を持つことこそ大事だと言ってくれた。悔しさに歯噛みするのは悪いことではない、そこから色々始まるのだと教えてくれた。
 他にも沢山のことを教わった。数えきれないほど、今まで知らなかった持てなかったものに触れることができた。
 その中のいくつかを、手に入れることができた。
 男がいたから、できたのだ。
 次から次へ、扉が開いていくようだった。
 扉の向こうはいつも明るく、広々としていた。
 狭い場所で縮こまっていた身体――これまでの生活――が、瑞々しい光で満たされ、大きく膨れ上がってゆくのだ。
 手の届かない場所にあったものに、今にも触れそうなほどに。
 失いたくない。
 自分も男のことが――。
 考える時間も嘆く暇も、今はなかった。
 程なく点滴が終わり、やってきた看護師に後処置を施される。
 制服に着替えたところで、稲葉が「みんなで園村の見舞いをして行こう」と提案した。

「日下部は、大丈夫かい?」

 早く帰って休んだ方がいいのではないか、黛と南条が気遣う。

「念の為の点滴だったし、俺は平気だよ」

 笑顔で返す。

「そうかい? ま、園村も、あんまり長居しちゃ迷惑だろうし、みんなでちょこっと顔見せして帰ろうか」

 黛の出す提案に異論はなかった。

「そうだ日下部、冴子先生が連絡をするようにと言っていたぞ」

 南条の言葉に朔也は頷いた。
 四人は正面玄関近くの、エレベーターへと向かった。
 南条、黛、稲葉の三人は先に園村の病室へ、朔也は連絡が済み次第向かうということで、そこで一旦別れた。

「じゃな、三階の二号室だからな」

 エレベーターの中から念を押す稲葉に頷き、朔也はロビーへと向かった。
 廊下を進んでロビーに差し掛かった途端、耳が詰まったように痛み、周りの物音が急に遠くなった。
 長椅子を埋める幾人かの診察待ちの列、行き交う人々、目に入るそれらがぼやけ消え去ってゆく。
 覚えのある感覚。これは、以前男と一緒に夜桜を見に行ったあの時と同じだ。
 ならば次に現れるものは……。
 完全に無音になると同時に、音もなくはらはらと舞い散る桜が見えた。
 推測した通りの光景が目の前に広がる。
 朔也は恐怖におののき、男の姿を探した。
 いない、どこにも見当たらない。
 朔也は恐ろしさに喘いだ。
 目の前を、桜の花びらに紛れて金翅の蝶がふらふらと舞い上がっていく。
 一瞬気を取られ、また男の姿を探す。
 するとどこからか、女の子の啜り泣きが聞こえてきた。

 たすけて。たすけて。

 途端に朔也は眉をきつく寄せた。おこりのように全身が震え出す。
 昔の自分を思い出させる泣き声と懇願が、息を乱れさせた。

 たすけて。たすけて。

 今すぐ、声の聞こえない場所に逃げてしまいたい。
 もう、終わったはずだ。
 自分には過ぎたことのはずだ。
 もう誰も、自分を虐げる者はいない。
 惨めな頃を思い出させる泣き声なんて、聞いていたくない。
 少し離れたところに、白い服を着た少女が現れる。

 たすけて。たすけて。

 助けを求めながら啜り泣いていた。
 少女が、どこかを指差す。
 朔也は反射的にそちらを見た。
 指差す方には、背中を向けて立つ黒い服の少女と――男がいた。
 音もなく舞い散る桜の向こうに男を見つける。
 立ち去っていく後ろ姿。
 朔也はいっぱいに目を見開いた。

 たすけて……たすけて……

 少女の啜り泣きは続いている。
 昔の傷を抉ってくる。
 それでも朔也は足を踏み出した。
 失いたくないと思うなら、いつか来るその日にただ怯えて過ごすのではなく、失わない為に全力を尽くせばいいんだ。
 眦を決して、一歩踏み出す。
 唐突に現実に戻る。
 落差についてゆけず、朔也はがくりと膝から崩れた。咄嗟に手をついてうずくまる。
 周りにいた数人が驚いて声を上げた。
 その中の一人が、大丈夫ですかと声をかけながら身体を支えた。

「はい、すみません、大丈夫です」

 朔也は手を頼りに立ち上がり、相手を見た。
 助け起こしてくれたのは柔和な微笑みを浮かべた、背の高い初老の男性だった。
 白髪にべっ甲縁の眼鏡をかけた老紳士は、どことなく雰囲気がクラスメイトの誰かに似ていた。
 エルミンの生徒さんですねと、老紳士は言った。
 制服についている特徴的なエンブレムでわかったのだろう。
 わざわざ訊くということは、家族にエルミンに通う者がいるからだろうか。
 そんなことを思いながら朔也は頷いて応えた。
 すぐに、二、三の驚きが立て続けにやってくる。
 名前を言い当てられたこと、老紳士は南条圭の執事であること…重なる驚きにさしもの朔也も一瞬言葉に詰まる。
 すぐにいつもの自分を取り戻すが、それを邪魔するように、恐らくこれまで生きてきた中で最大とも言える衝撃が降りかかる。

 始まりは、長椅子の女性が発した「あ、地震」という声だった。

 

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