晴れる日もある
ああ…とかすれた声が朔也の唇から零れる。 身体の奥深くに放たれた男の熱いものが、脳天を痺れさせたからだ。 ほぼ同時に達した身体は繰り返し震えを放ち、腕に収めた男を二度三度と抱きしめた。 男も同じく抱き返し、荒ぶった呼吸に胸を喘がせた。 少しして、朔也の身体から力が抜ける。 だらりと腕がほどけ、歓喜の姿勢が崩れてベッドへと倒れ込む。 男はいつものようにしっかり頭を支え、ゆっくり横たえてやった。 それから静かに、なるべく響かぬように、萎えた自身を朔也から抜く。 少し不満げな唸り声がした。 そんな声を漏らされ、訴えかけてくる濡れた上目づかいに見つめられると、また彼に入りたい衝動が込み上げてくることがある。 男はどうにか飲み込んだ。 当然だ、時間は深夜近く、もう何度もお互いを貪った後だ。 さすがに疲れ、眠気もすぐそこまで迫っている。 明日は…今日は休みだからと、抑えが利かなかった。 お互いに。 風呂に浸かったら、そのまま眠ってしまいそうだ。 「今、湯張りをしてくるから、ここで少し待っていなさい」 自宅の風呂で溺れかける、そんな間抜けな想像をしながら、男はナイトガウンを羽織った。 背を向け歩き出そうとした時、背後から力強く掴まれたたらを踏む。 振り向くと同時に、朔也がベッドから転げ落ちるのが目に入った。 小さな呻きに男は肝を冷やす。 「どうした、朔也」 即座に頭を支え、どこもぶつけていないか確認する。 どうやら腰を打っただけのようだ。少し痛そうに顔をしかめ、それでも朔也は両手を伸ばし尚もガウンを掴んだ。 「どうしたんだ」 もう一度聞くと、ひどく言いづらそうにしながら、置いてかないでと唇を震わせた。 そこで男はようやく、自分が禁忌を口にしたのだと気付いた。 今まで一度も、この言葉を彼に言ったことはなかっただろうか。 それとも、確立したお互いだからこそ、言葉に怯えるのだろうか。何でもない仲ならばどうでもよく、何を思う事なく聞き流せる。しかし、事情を話し、事情を理解した、特別な存在になった今、言葉も特別になった…考え込んでいると、震える声が耳に届いた。 「ごめんなさい……わかっているのに、どうしても」 怖い。 強張った顔付きで朔也は床を見つめていた。 自分がどれほど厄介なものを抱えているかわかっている。 それでどれだけ迷惑をかけてしまうかもわかっている。 わかっているのに、どうしても、怖くて縋ってしまうのだ。 「謝らなくていい。誰でも怖いものの一つや二つ、あるものだ。忘れていた私が悪い。済まなかった」 男は頭を撫でてやった。 「でも、こんなのは、面倒だ」 朔也は伏せていた顔を上げ、悔しげに歪ませる。 頭で理解できているのに、たったのひと言で血が凍るほど怖くなってしまう、こんなに厄介なことはない。 「いいや。私はそうは思っていない。本当だ。もう二度と言わないから、許してほしい」 朔也は手を差し伸べ、男の頬をさすった。 「鷹久は本当に、優しい」 「君がそうしてくれたんだ」 手を掴み、男は微笑した。 朔也の目付きが、訝るように少し狭められる。 「どこも痛めていないね」 異変がないか、男は肩から足にかけて確かめた。 何ともないと、朔也は首を振った。 男はようやく肩の力を抜いた。 「では一緒に、風呂場で待とうか」 尋ね、返事を待つ。 朔也が頷いたのを見届けると、男は腕に抱き上げ浴室まで運んだ。 シャワーで互いの汗を流した後、まだ足首までの湯船に向かい合ってしゃがむ。 ようやく肩まで浸かれるようになって、男はほっと息をついた。するとそれまで呼吸以外では微動だにしなかった朔也が、手を伸ばして、膝に置かれた男の手を掴んだ。 話が始まる合図だと、男は意識を集中させた。 「ここで少し待っていなさいって、言ったんだ」 大勢の人が行き交う駅の改札口近くで、お母さんが、そう言ったんだ。 声は引き攣っていた。 男は無言で頷いた。 妹をトイレに連れていくから、朔也はここで少し待っていなさい。大丈夫ね、お兄ちゃんだから、出来るわね。 うん、できる。 戻ってくるまで、絶対に動いちゃ駄目よ。知らない人についていっちゃ駄目よ。 うん、大丈夫。 ぽつぽつと語る朔也の低い声が浴室に満ちる。 「言う通りにした。絶対動かなかったし、誰かに聞かれても、言われた通り、お母さんを待ってるって、言った」 ちゃんと言えた。 本当にそうしたのだと訴える声音が、男にぶつけられる。 男は何度も頷いた。 「言われた通りにした。ちゃんとやった」 もう、記憶があやふやだけど、老夫婦だったと思う、その片方が、どうしたんだって聞いてきた。だから、言われた通りに、お母さんを待っているんだと答えた。 「なのに、お母さんは戻ってこない。俺は、何を間違えた?」 足が痛くなっても我慢して、ずっと立って待っていた。お母さんが歩いていった方をじっと見て、妹と一緒に戻ってくるのをひたすら待った。 男は束の間、朔也になる。見知らぬ大人が沢山行き交う中、たった一人低い視線で立ち、待ち続ける恐怖を味わう。 朔也の目は潤み、傷付いた表情がありありと浮かんでいた。 むき出しの感情は男の胸に入り込み、鈍い痛みをもたらした。 「君は、何も間違っていないよ」 「なら、どうして」繋いだ手に力がこもる「お母さんは戻ってこない」 どうして妹だけ連れていった。 何かを強く訴え、縋り付いてくる朔也の眼差しを、男はいたわるように見つめ返した。 しばらく見つめ合い、朔也は俯いた。 自分の身体に刻まれた古い傷跡を見る為に。 「俺は、間違えたんだ」 涙を含んだ声でぽつりと言う。 それから息を啜り、細く吐き出した。 長い髪の向こうに翳り、顔がよく見えない。 男の心が重く軋む。彼の為に自分にできることがほとんどないことに打ちのめされる。 ただこうして話を聞くだけしかないのだ。 「……朔也、おいで」 男は繋いだ手を引いた。 湯船を揺らし、素直に寄ってくる身体を抱きしめる。 朔也は首にしがみ付くように腕を回した。 男の耳元で、啜り泣きに似た息遣いが繰り返される。 触れ合った肌から伝わってくる早い鼓動の一つひとつが、針のように鋭く男を突き刺す。 思い込みの痛みは本当の痛みとなって、男の胸に響いた。 嗚呼、なんて痛い。 「朔也、君は何も間違っていない。君のせいではない」 何か事情があったのだ。 そうであってほしいと願いながら、男は心を込めていう。 最悪の事態も思い浮かべる。 何かの事故に巻き込まれ、あるいはよからぬ人間に目を付けられ、誰に知られる事なくこの世から…しかし、それを朔也に言うのは酷だ。 もしかしたら本人もその可能性を考えているかもしれないが、男はあえて口を閉ざした。 既に父親を亡くしている。その上母親まで、妹までこの世にいないのでは、あまりにも――。 代わりに思いを告げる。 せめてもの慰めになるよう、心を込めて君が好きだよと囁く。 口にするほどに、自分の無力さを思い知らされる。 朔也の手が男の頭を撫でる。 「俺の……世界」 零れ落ちた呟きが、男の鼓膜を甘く震わす。 男は込み上げる涙を必死に堪え抱きしめた。 朔也こそ、自分の世界である。 なくしたくない思いが、更に強まってゆく。 |