晴れる日もある
リビングのテーブルに座り、男はまっすぐ目を上げた。 テーブルには惣菜の小鉢や茶碗、箸が整然と配膳されており、カウンターの向こうにあるキッチンでは、朔也が今夜のメインの調理を行っているところだった。 男は、その後ろ姿を見るのが気に入っていた。 彼の動きはとにかく綺麗なのだ。 無駄がなく、どこか優雅で、一歩横にずれるだけでも目を引き付ける。 フライパンを振る仕草も、混ぜる動作も、どうしてか目が離せない。 小皿で味見する様など、どことなく色気さえ感じさせる。 いつまでも飽きることなく眺めていられると、自分ですら笑ってしまうようなことを考え、男は少々呆れたように目をぐるりと回した。 その時、短い叫びのようなものを耳にし、同時にフライパンを叩き付ける大きな音がした。 高い位置から手を滑らせて落としたのだろう。 そんな失敗を彼もするものなのだと思いながら、しかしどこか嫌な予感がし、男は即座に椅子を立って傍に歩み寄った。 小さく目を見開く。 朔也は右手で左肘の内側を抑え、ぎゅっと肩を竦めていた。 「どうした、どこかにぶつけたのかい?」 慌てて、押さえる箇所に目を向ける。 男ははっとした。 彼が押さえている場所には、古い傷跡があったのを思い出したのだ。恐らく、そこが不意に痛みを放ったのだろう。 「ごめんなさい……大きな音」 痛みに堪える声で朔也は言った。 男は一旦火を止めた。フライパンの中では、出来かけの肉野菜炒めがじゅうじゅうと音を立てていた。幸い先程落とした時、外には飛び散らなかったようだ。 「そんなこと、気にしなくていい。痛むかい?」 朔也は答えなかった。それが答えだった。痛みが引いたなら首を振るだろう、しかしそれをしないということは、未だに痛みが続いているということだ。 「どうしたら楽になる?」 何と答えればいいのだろうと、不安げな瞳が向かってきて、男の胸を抉った。 怯えているようだった。 一体何に怯えているのだろう。 傷にまつわる、嫌な記憶だろうか。 男は優しく尋ねた。 「少し休めば、治る?」 朔也は探るように男の目を見たまま、ぎこちなく頷いた。 「よかった、なら、続きは私に手伝わせてくれるかい」 言いながら男はフライパンを火にかけた。 未だに菜箸を握ったままの朔也の手から、有無を言わさず取り上げ、続きの作業に取り掛かる。 「君ほどではないが、私も一応料理は出来るんだよ」 強張った顔のまま立ち尽くす朔也に笑いかけ、男はフライパンを振るった。 「まあまあだろう?」 何が云いたげに朔也の唇が動く。 怯えは、まだ尾を引いているようだった。 失敗を怖がっている…以前こういった状況で、よっぽどの怖い思いをしたせいだろうか。 彼が怯える理由を探して頭を巡らす。 表面上は気にしない風を装い男は言った。 「調味の方は、君に任せるよ」 顔を向ける。 しばらくためらいの間を置いて、朔也は用意しておいた味噌だれを手に取った。左手に容器を持ったということは、そうできるくらいまでには、痛みは引いたようだ。 「味噌炒めか、いいね」 フライパンの中身に注意を向けてから再び朔也を見やり、タイミングを任せる。 充分火が通ったところで、朔也は容器の中身を開けた。 男は手早く箸を動かし絡めた。 「こんな感じでいいかな」 「……ごめんなさい」 「いいや。そこは、ありがとう、でいいんだよ」男は火を止めた「困った時はお互い様だよ、朔也。だから、気にする事はないんだ」 男は用意された皿にそれぞれ盛り付けた。 「ではいただこうか」 朔也は受け取った皿から男の顔へと目を上げた、 「ありがとう」 零れたやや硬い声に、男はふと笑った。 |
朔也が襟の大きく開いた服を好まないのは、鎖骨に縦に刻まれた傷があるからだ。 肌の色は元のままだが、見ればひと目でわかる。 ベッドに横たわった朔也に覆いかぶさるようにして男は鎖骨の傷に唇を寄せた。 朔也はまた、半袖の服も好まない。必ず薄手の長袖を重ねて、左肘の内側についた五センチほどの傷を隠す。 男はそこにも接吻した。 朔也は、わずかに腕を引っ込める仕草をした。 男は無理に引き止めず、顔を見やった。 そこには、ひどく傷付きやすい顔をした少年がいた。 「私が、怖い?」 尋ねると朔也は即座に首を振った。 そんなことを言うなんて、と、わずかに抗議めいた色を目に浮かべていた。 しかし身体は正直に、小刻みな震えを放っていた。 いくらかの信頼関係を結べた今でも、結べたからこそ、古い傷跡に触れられるのは彼にとってはつらいものだった。 彼の身体にはあちこちに傷があった。 それらは、男の子の好奇心からくる冒険や探検の末負った、子供ならではの笑いの種になるような怪我ではない。 傷を見られたくない。 何か言われるのも、あの目も、嫌だ。 以前彼が口にしたこの言葉。 それとなく察して、今までは避けてきたが、今は男はそれに触れたかった。 もう一歩、自分を受け入れてもらいたかった。 古い傷跡と、それにまとわりつく記憶も含めて、自分はあなたを思っているのだということを、少しでいいからわかってもらいたかった。 強張った顔のまま見上げてくる朔也の頬を優しく撫でさすり、男は言った。 「もう二度と、君にひどいことはしない。約束する――」 「知ってる」 小さくもきっぱりと朔也は言った。 鷹久は、ひどいことしない。 幾分和らいだ顔でそう続ける。 以前、良くないことをして負った傷の全てを、男は何も言わず何も聞かず、一つひとつ丁寧に治していった。 一つ傷が消える度、ほっとした顔になって、もう二度と増えない傷を、喜んだ。 「でも、分からない」 朔也は腕を持ち上げ、肘の内側に残る傷跡に目をやった。それから男を見やる。 今までそんな風に傷に触れた人間はいない。 だから朔也自身、どうなるか、どう思うか、わからない。 「だから、続けてほしい」 未知の領域に対する恐れを正直に口にし、朔也は腕を差し伸べた。 心なしか頬が青ざめていた。 男はその腕を掴み、わかったとゆっくり頷いた。 「嫌な気持ちになったら、我慢せず言いなさい」 それから古い傷跡にそっと唇を寄せる。 朔也はその様子をじっと見ていた。 唇が触れると、喉の奥で呻いた。 「まだ痛むかい?」 男は手のひらであたためるようにして覆い、尋ねる。 「痛みは、もうない。多分今日は、おかしな動きをしたせいだ。いつもはあんなこと、起こらないから」 確かに、これまで見てきた中で、今日のようなことは初めてだ。 「ただ時々、雨の日に」 疼くこともあると、ゆっくり綴る。 朔也は男の顔から視線をずらし、過去を見た。 男はもう一度唇を寄せ、それから丁寧に腕をシーツの上に置いた。束の間傷を凝視する。 この左肘の傷は、以前父親と住んでいたアパートの階段から落ちてできたもの、と朔也は言った。古い階段で、下から何段目かに裂け目があった。めくれ上がったそこで傷を作り、同時に骨折もした。しばらくギプスで過ごしたという。 階段から落ちた。 小学校に上がるくらいの子供が、そんな痛ましい怪我を負ったなんて、想像するだけで身が軋む。腹の底がぞっと冷える。 男はもう一度優しく撫でた。 そして今度は、別の傷跡に接吻する。 居心地悪そうに身動ぎ、朔也は呻いた。 まだ、拒絶の言葉は出てこない。 男は慎重に舌を這わせた。 古い傷跡をたどる度、朔也は快不快とは異なる声で呻き、落ち着く場所を探すように時折身を揺すった。 戸惑っているのだと、男は思った。 どんなにひどくしても構わない。 以前、朔也はそう言った。 ひどいこと、身体に傷を刻むこと。 そうしても構わないと、朔也は言った。 ただの推測に過ぎないが――そうすることで、身体に残る虐待の跡を消したかったのかもしれない。 あるいは、身体に残る傷は、自分が好んでやったこと、決して、親に疎んじられてのものではない…と、すり替えたかったのかもしれない。 しかしどんなに自分に暗示をかけても、心に刻まれたものは消せない。 悔しい、惨めな記憶。 それを、こんな風に優しく辿られるのは、戸惑いを生むのだろ。 どうしていいかわからないと言うように、朔也は何度も問いかけめいた呻きを上げた。 男は声の質を聞きわけながら、愛撫を続けた。 ひどくされることには…悲しいことだが…慣れていても、優しく扱われることには不慣れだった。 今はすっかり薄れたようだが、優しく扱われるのにまだ慣れていなかった頃、ひどく取り乱した声を、一度だけ上げたことがあった。 こんなの、知らない! 涙に震える声で叫び、朔也は身を固くした。それでも逃げず、委ねてきた。 逃げたがる自分と、自分自身をすべて見せることへの葛藤が、そこには垣間見えた。 男は応えて、身も心もほぐれるようできるだけ丁寧に扱った。 薄い皮膚でもって何度も接吻し、肌の内側の奥まで届くよう、心を注いだ。 最後の方でようやく緊張を解いた朔也は、まるで発作を起こしたように激しく痙攣し、高い声を何度もあげて達した。 驚きもしたが、男にとってそれは得難い悦びだった。 それまで味わった事のない、強烈な官能。 ほんの一瞬だが、魂ごと触れ合ったように思えた。 男は、少し息が乱れてきた朔也をうつ伏せにすると、腰の辺りに唇を寄せた。 瞬間、朔也はいっそう身を強張らせ唸った。 「ここは、怖い?」 一旦身を起こし尋ねる。 顔を覗き込むと、かすれた声で違うと朔也は言った。 しかし、この体勢は彼には怖いものだということを、男はすでに知っていた。直接言葉で言われた訳ではないが、知っている。 それから、朔也はどんなに嫌だと思っても、拒絶を口にしないということも、知っている。 どんなに嫌なことでも、ひどいことでも、自分は我慢して受け入れなくてはいけない、そんな風に抑え込む傾向があった。 厄介で、難しいと思うが、面倒に感じることはなかった。 憐れみなどいらないだろうが、どうしても憐れんでしまう。 そこまで自分を抑えなければならなかったこれまでを思うと、悲しくて腹立たしくて、しようもなく苦しくなる。 我慢しなくていい。 無理に抑えなくていい。 そう言うと朔也は少し迷い、それでも違うと首を振った。 男は笑いかけ、きつく握られた拳を手のひらでそっと包み込んだ。 「ひどいことをしたい訳じゃない。君を怖がらせたくはない」 「知ってる、から」 名前を、呼んでほしい。 今にも消え入りそうな声で囁き、朔也はじっと見上げた。 委ねてくる言葉と眼差しが、胸に熱く沁み込んでいく。 男は覆いかぶさると、愛しい人の名を耳元で囁いた。 「………」 朔也は何事か呟き、痩せた身体をひと際大きく震わせた。 もう一度呼びかけ、うなじに口付ける。 また甘い声が漏れる。 さっきまであった、緊張を含んだ呻きではない。 男はほっとする。 繰り返し呼びかけながら、浮き上がった背骨や、その横にある抉れた傷跡を丁寧に唇でたどる。 何度かに一度、朔也は呼び返して応えた。 甘くとろけた声がする度、身体の芯に強烈な疼きが走って男を悩ませた。 すぐにでも入れたくなるのを辛うじて堪え、尻の奥に舌を伸ばす。 瞬間、朔也の呼吸がわずかに引き攣る。 名前を呼ぶことでほどけた意識が、再び張り詰めるのを男は感じ取った。 肘をついて起き上がり、朔也は何か言いたげに振り返った。 男は一旦行為をやめて視線を受け止める。彼が一度だけひどく取り乱した場所、行為。優しい愛撫。 良くないことをしていた時は、恐らく、乱暴に犯されるだけだったことだろう。 ひどくしていいと本人が言うのだ、中には、異物で弄んだ者もいたかもしれない。 初めて朔也に出会った時のことを思い出す。 手首には縛られた跡が残り、タバコの火を押し付けたような火傷の跡もいくつも見られた。それだけでは飽き足らず、噛み跡まで残した者もいたのだ、口にするのもおぞましい行為に耽った人間がいたとしてもおかしくない。想像に難くない。 朔也は、そのことについては何も言わない。 男も、一切聞くことをしなかった。 言いたくないことは、言わなくていい。 そういう約束だ。 だから無理やりにではあるが、過ぎたこととして扱い、区切りをつけた。 だがそれで記憶まで消える訳はなく、時折過ぎっては、ひどいことをした男を苛み、良くないことをした朔也を苛んだ。 だからというつもりはないが、もう二度とひどいことはしないと約束の代わりに男は優しい愛撫でもって朔也を包み込もうと努めた。 彼の中の良くない記憶が、少しでも薄れるように。 もう二度と、ひどいことは起こらない。 それに対して、不慣れな朔也は戸惑いうろたえ、取り乱した声を上げた。 抱き合う時、何度かこうして唇で触れたが、こればかりは慣れるのが難しいようだった。 怖がらせたくはない。 自分は、彼を虐待した人間とは違う。 彼が優しいと言う通りの、ひどいことをしない人間。 嘘を吐け…頭の片隅で自嘲する。 追い払い男は、怯えて固く結ばれたそこに接吻した。 鷹久、と呼ばわって朔也は微かに震えた。 朔也の漏らす声に耳を澄まし、ゆっくりと舌でねぶる。 しばらく、湿った淫靡な音と熱い喘ぎ声が続いた。 指を一本。二本。 ゆっくり拡げていきながら、舌を這わせる。 声は時折高く跳ねて、見えない手でもって男を愛撫した。 「……気持ちいい」 溺れそうになった瞬間、聞き間違いかと思うほど淡い呟きが、朔也の口から零れた。 ようやく手にしたひと言に喜びが広がる。 堪え切れないほどの肉欲も。 今にも乱暴に抱いてしまいそうな自分を律し、男は丁寧に抱き起こした。 すっかり力が抜けた風の身体が、男にもたれかかる。 男はしっかりと受け止め、彼の好む抱かれ方を取った。 「気持ちいい……」 甘える仕草で朔也は首に抱きついた。 くったりととろけきった声が、男の腰を熱くさせる。 「もう、怖くはないか?」 「鷹久は怖くない……優しくて、気持ちいい」 いつも俺を助けてくれる。 朔也は身を起こし、間近に目を見合わせた。それから舌を出してぺろりと男の唇を舐めた。 もう、我慢できなかった。 腰を抱えて跨らせ、狭い肉をこじ開けてゆっくりと貫く。 「あ、あ、あっ」 朔也は再びしがみつき、入ってくる感触に全身を震わせた。 根元まで埋め込むと、男は恍惚に目を細めて朔也の頭を撫でた。 朔也もまた、男の頭を撫でた。 「私も気持ちいいよ……朔也」 そう言うと、笑ったような吐息が男の耳をかすめた。 朔也はよりいっそう強く男を抱きしめ、ぴったりと寄り添った肌のあたたかさにわなないた。 男は、朔也の身体と心とが落ち着くまで、抱きしめたままじっとしていた。 また耳元で、気持ちいいと朔也は零した。 それを合図に男はゆっくりと動き出した。 朔也の息遣いが大きく跳ねる。 |
達した後の荒い呼吸が、次第に鎮まっていく。 朔也は横向きに寝そべって薄く目を閉じ、余韻に浸っていた。 男は身を起こして、穏やかに見つめ頭を撫でてやった。 しばらくそうしていると、ある時不意に朔也は口を開いた。 「鷹久が触ると、傷が、なくなる気がする」 唇の名残を辿るように、朔也は鎖骨の傷跡に触れた。 鷹久は、優しい。 そしていつものように息を啜り、深く吐いた。 彼が時折する仕草。男はそれが、泣く事の代わりになっているのではないかと、ふと思った。 どれだけつらいものを、抱え込んでいるのだろうか。 自分はそれを、どれだけ薄れさせることができるだろうか。 「そんな風に君に触れたらいいと、思っているよ」 男は心を込めて言った。 朔也は目を閉じ、頷くように顎を引いた。 そして頭を撫でる男の手に自分の手を重ねる。 きっと、いつか。 祈る響きで朔也は囁く。 そんないつかなんて、本当は来ないことを、男は知っていた。 それでも朔也にだけは、そんな奇跡が起きてほしい。 男は心から祈った。 「君が好きだよ……朔也」 朔也の手にほんの少し力がこもる。 |