晴れる日もある
朔也が、生まれて初めてアイススケートを楽しんでから二週間。 何度も転んだ結果の痣は足に数か所、尻もちの一か所。それらも、すっかり色が薄れてきていた。 「もう、押しても痛くない」 そう言って朔也は部屋着のゆったりしたズボンの裾を片足まくり、すねの中程にできた打ち身の跡を指先で押した。 「それはよかった」 男はすぐに、やんわりと止めた。本人が痛くないと言うのだから本当に痛くないのだろうが、見ると腹の底がひんやりして気が気でない。そわそわするのを、食後のコーヒーで落ち着かせる。 ひと口啜って、男はふと浮かんだ疑問を尋ねた。 「そういえばエルミンは、六月ごろに修学旅行のはずだが、今年はどこに行くかもう聞いたかい?」 問いかけに朔也はわずかに目を伏せた。 「俺は、行かない」 金銭的な問題だろうかと、男は言葉を詰まらせた。 朔也は、手にしたカップの中にしばし視線を注いで、それから男を見た。 伺うようなその上目遣いに、男は見覚えがある気がした。 秘密の話を打ち明ける時の子供の目だと、すぐに気付く。 自分になら話してもいい、そう、迷っているのだ。 男は小さく身動ぎ居住まいを正した。 朔也は静かに綴った。 「傷を見られたくない。何か言われるのも、あの目も、嫌だ」 感情を一切含まない声は返って痛々しかった。 あの目。 生ぬるい想像しか出来ない。彼の味わった苦痛のほんの少しも、わかることができない。 男は背筋が凍る思いだった。 自分も、朔也の嫌がる視線を向けていたのではないか。いや間違いなく向けていた。 自分も朔也の身体の傷を見て…思い起こそうとするのを無理に押しやり、自分だけは違うと浅ましくも線を引こうとする。 しかし自分も他と同じく、嫌悪や軽蔑の凝視を向けてしまったのだ。 苦いものが喉の奥で絡む。 「鷹久は、何も言わなかった。助けてくれた」 そんな時朔也の声がした。途端に懊悩の苦しみがたちまち解けていった。 鷹久は、優しい。 淡々と控えめながら、ほんのり感情のこもった響きは耳に心地よく、強張った身が自然とほぐれていく。 行き過ぎた評価だと恥じ入る気持ちも込み上げてくるが、それさえも朔也の声は穏やかに包み込んでくれた。 自分こそ、朔也に助けられている。 優しいというものがどういうことか、頭ではわかっている。 優しい人間として振る舞うことも、できる。 だからといって芯まで本当に優しい人間では、ない。 優しい人間ではないが、朔也が優しいと言う度、自分にも本当の優しさが備わっているかのように思えてくる。 本当に自分がそのようであるかに思えてくる。 見せかけの、上辺だけの優しさが、段々と本質に染み込んでいくように思えた。 そうすると、少しずつ、本当に少しずつだが、自分という人間が好きになれるような気がした。 自分を好きになっても許される、そんな気がしてきた。 朔也が、優しいと言う度、どこかにまだ残っていた自分の中の白い部分が見つかる。 増えるごとに、少しずつ自分を好きになっていく。 朔也と過ごす時間は、そういうものだった。 不思議な子だと男は視線を注いだ。 ありがとうと、自然と言葉が出た。 朔也は少し訝るような顔になって、けれど何も言わなかった。 それからしばらく沈黙が続いた。 嫌な無音ではなかった。 気持ちが和らいだ後の心地良い静寂だった。 男は一旦コーヒーカップを置き、言った。 「代わりという訳ではないが、もしよければ、夏休みにでも、ドライブに出かけないか?」 提案に朔也は目を上げた。 男はテーブルの上で軽く手を組み合わせた。 「恐らく日帰りになってしまうだろうから、あまり遠くへは行けないが……朔也さえよければ、海でも、山でも」 朔也の唇がうっすら開かれる。 何か言いたげな口の動きを見守り、男はそこから音が発せられるのを待った。 やがて、ひどく遠慮がちな声で朔也は行きたいと応えた。 頷くか、首を振るか、そのどちらかが大半だった反応からすれば随分な変化に、男は立ち上がって喜びたくなるのをぐっと堪え、微笑みかけた。 「いつ行けるか、もう少し間近にならないとはっきりした事は言えないが、夏休みに入ったら海か山へ、行こうか」 朔也は小さく、だがはっきりと頷いた。 男は笑みを深めた。 自分でも驚くほどわくわくしていることに笑ってしまう。先刻とは違う感情でそわそわとする。夏休みの訪れまでまだ随分あるというのに、気持ちが急いて落ち着かない。 こんな感情、久しく持つことがなかったと男は純粋に喜んだ。 ドライブの約束を一つ取り付けただけだというのになぜこんなに浮付いてしまうのだろう。 彼がはっきり返事をしてくれたことが、まず嬉しい。 こんな人間だったのか、自分も。 らしくないとわざと嘲ってみるが、落ち着かない気持ちや待ち遠しさにふわふわする心持ちは、満更でもなかった。 楽しかった。 自然と緩んでしまう口元を隠す為、コーヒーカップを持ち上げる。 嗚呼本当に嬉しい。 コーヒーのおかわりをもらおうとして、男は手を止めた。 「朔也、少し、外を歩かないか?」 返事も聞かず男は立ち上がった。 戸惑いまじりの眼差しが向けられる。 桜を見に行こうと思って。 そう言葉を続ける。 朔也はほんの少し眼を眇めた。 確かに少々突飛だった。 自覚はしている。 しかし、いてもたってもいられないのだ。 近くを流れる川沿いの遊歩道を、一緒にそぞろ歩きしたい気分。 一緒にそぞろ歩きして、夜の桜を眺めたい気分。 この辺りももうすっかり、満開を迎えた。 昼間はとても時間が取れそうになく、また、先日の失敗を繰り返したくない。 今なら時間もある。 そして今なら、昼間ほど親子連れに遭遇する確率は低いだろう。 男は返事を待った。 「すぐ、用意する」 朔也は飲み終えた二つのコーヒーカップを手にキッチンへと向かった。 |
静かに流れる川の両岸、ずっと先まで、桜並木が連なっている。 川面を覆うように張り出した枝はまるで、岸のこちらと向こうとで手を伸ばし合っているかのようだった。 それはまさに桜のアーチで、圧倒される存在感に言葉も出ない。 朔也はわずかに顔を上げて、遊歩道の土を確かめるように一歩一歩ゆっくり踏みしめながら進んだ。 桜は一本ごとに提灯が下げられ、その姿が夜闇にくっきりと浮かび上がる。 根元に立って見上げれば、明かりに照らされた花びら一枚まではっきり見えてくるが、遠く見渡した途端何もかもがぼんやりと霞む。たちまち現実から離れて、まぼろしの世界を夢見ているような気分になった。 男は顔付きを険しくした。 二人で肩を並べて夜の桜を眺めているというのに、それはとても楽しく沁みてくるのに、その一方で何故か心が虚ろになってしまったように感じる。 彼との思い出を一つ重ねて、本当に嬉しいのに。 心の底まで嬉しさが届かないのは、どうしてだろう。 昔からの悪い癖、いつの間にか身についてしまったものにうんざりして、男は首を振った。 気を取り直し、朔也を見やる。 数歩離れた場所で足を止め、少し背伸びをするようにして頭上の桜の花を一心に見つめていた。 仕草は子供らしく可愛らしく、整った横顔は目が離せないほど美しかった。 男の脳裏に、何の脈絡もなく、もう一度彼に会いたいと無様に泣いた自分が過ぎった。 途端に頬がかっと熱くなる。 何故突然、こんな事を思い出したのだろう。 男はさりげなく朔也から一歩退き、口元を覆った。 それが返って目を引いたのか、朔也はゆっくりと顔を向けた。 内心ぎくりとするのを抑え、男は桜に目を向けた。 「見事に、満開だね」 綺麗だねと続ける。 「ここでも」すると朔也は、幹の中程を指差して注目させた「咲いてる」 見ると確かに、幹の中途から唐突にぴょこと飛び出し一輪だけ花が咲いていた。 男は、一旦頭上の桜を見てから、一輪だけの桜に目を戻した。 どちらも桜に違いはなかった。 見ていると、朔也が重なった。 大勢に混じる事は出来なかったが、それでもこんな風に、しっかりと生きている人。 「ああ。一輪だけでも、綺麗だね」 「桜を見ている鷹久も、綺麗だ」 不意のひと言に心臓が大きく跳ねる。痛いほどに。 男は瞬きも忘れて朔也に見入った。 「とても優しい目をして、綺麗だ」 朔也は思ったままを素直に口にした。 ああ、本当に胸が痛い。嬉しくて、恥ずかしくて、まっすぐな言葉の心地良さにどうにかなってしまいそうだ。 何も言えなくなった男を特に不審に思うこともなく、朔也は言葉を続けた。 「俺を見てくれる目も、いつも、優しい」 だから、そこが、と朔也は口ごもった。 男は期待に目を見張った。 いつもあと一歩のところで言葉を飲み込んでしまう朔也。 けれど今は少し違った。 きっぱりと言葉を切るのではなく、言いたそうに口ごもった。 夜と桜の雰囲気がそうさせるのだろうか。 ようやく聞けるかもしれないところまできたひと言の期待に、男は小さく身震いを放った。 一歩、朔也に踏み出す。 その時不意に強い風が吹いて、桜の枝がいっせいにざわざわとしなった。 さあっと視界を過ぎる無数の白い花びらに紛れて、金色の翅の蝶がゆるやかに羽ばたき舞い上がっていく。 風よけにわずかに顔を伏せた男は、目の端に捕らえた金色の輝きに瞬きを繰り返した。 こんな時間に蝶が飛ぶのだろうか。 顔を上げて確かめようとした時、朔也の手が伸び腕を掴んだ。 押しやる勢いに圧され、男は思わず数歩よろけた。 「どうした、朔也」 見やると、必死さに満ちた強張った瞳が真っ向からぶつかってくる。 さっきまでとは、がらりと空気が変わっている。 まるで何かに怯えているようだった。 「どうしたんだ」 もう一度尋ねる。 桜が、と、喘ぐように朔也は言った。 いったい、何に驚いたのだろうか。 男は落ち着かせる為にゆっくり頷いた。 「桜が、どうした?」 「桜……散ったのが、見えたから」 声を震わせ、朔也は途切れ途切れに言った。 要領を得ない言葉に心のどこかがぎくりとする。 妙な焦燥感が胸を過ぎる。正体は分からない。 男はそれを後回しにして、朔也の気を落ち着かせることを優先した。 桜の花びらが散る様が、何かを彷彿とさせたのだろうと推測する。 彼の心に残る、未だ言葉に出来ない怖い何か。 腕を掴む力は思いの他強く、細い指が食い込んでさすがに少々痛かったが、顔には出さず、男は手の甲をさすって宥めた。 「朔也、大丈夫だ」 少しして、朔也は手の力を緩めた。しかし手は離さなかった。 まるでどこにも行けないように繋ぎとめているように思えた。 何と言えば、彼の中の怖いものは去るだろうか。 男はしばし考えを巡らせ、言った。 「また来年も、その次も、桜は咲くから」 男の言葉に小さく口を開き、噤んで、朔也はじっと顔を見た。 大丈夫だと、男は眼差しで語りかけた。こういう時、彼は何を考えどんなことを自分から読み取ろうとしているのだろう。 微動だにしない凝視を受け止め、朔也の気が落ち着くのを待つ。 また少し強い風が吹き抜け、再び白い花びらが降り注いだ。 髪や顔をかすめていく花の雨に朔也は眼を眇めた。 男にはそれが、泣きたいのを我慢しているように見えた。 自分にはわからない、とてつもなく恐ろしい何かに脅かされ、今にも泣き出しそうに顔を歪めた朔也がしようもなく不憫で、男は持ち上げた手で頬をさすってやった。 一人で戦うことはないと、自分も力になると、思いを込めてあたためる。 手が触れ、朔也は目を閉じた。 鷹久、と熱のこもった声が零れる。 ここにいると応え、男は静かに肩を抱き寄せた。 朔也の身体はひどく強張り、震えてさえいた。 彼の手にまた力がこもる。 いったい彼は、舞い散る桜に何を見たというのだろうか。 身体の震えが収まるまで、男はじっと抱きしめたままでいた。 一秒でも早く、彼の恐れるものがなくなってくれればいいと思い、その片隅で、自分のことをこんなにも思ってくれる彼に喜ぶ。 彼の怯えを喜ぶとは――己の罪深さを恥じる。 それでも喜びは抑えきれなかった。 せめてもの罪滅ぼしに、自分は決して朔也を脅かす存在にはなるまいと、心から誓う。 |
誓うだけ、無駄だ。 光の届かない暗闇のどこかで、男を嘲る声がした。 |
ぼんやり光るどこかの部屋で、少年に声が被さる。 自分が誰か分かるかと、声が名前を聞く。 誰がお前に教えてやるものか。 そう思う間に口から零れていた。 日下部朔也 結構、と声は言った。 怒りが湧いたが、それは別の力となって身体から溢れた。 特定の形を持たず、見えもしなかったが、自分自身であることはわかった。 存在を感じられた。 さあ戻りなさい、と声は言った。 朔也はきつく眦を決した。 別の場所から、おいで、と男の声がした。 朔也ははっと息を飲んだ。 こんなところにいる場合ではない。 彼を守らなければ。 自分の生きる意味を守らなければ。 散りゆく桜の向こうに見たものを、覆す為に。 するとずっと下の方から、とてつもなく邪悪な声がした。 朔也は奥歯を噛み締めた。 お前にはやらない。 とても言葉では表現出来ぬ邪悪な存在に向かって、吐き捨てる。 嘲笑うように、それは勢いよく迫ってきた。 明確な恐怖をもたらしたが、昔に味わったものに比べればどうということはなかった。 そしてまた、男を失うことに比べれば、恐怖でもなんでもなかった。 だから朔也は一歩も退かず、男を守って立ちはだかった。 飲み込まれる寸前、身体全体が熱くなった。 別の自分自身が、力を放ったのだと理解する。 不思議な高揚感があった。 しかし浸る暇はなく、相手が放った攻撃によって胸を貫かれる。 真っ黒な呪いに手足は痺れ、喉が詰まって息ができなくなる。 朔也は最後の力を振り絞り、男の名を呼んだ。 |
目を覚ますと、ソファーでくつろぐ男の肩に頭を乗せ、うたた寝していた。 とてつもなく恐ろしい何かを見た気がして、朔也はしばらく動けなかった。 からからに乾いた喉で男の名を呼ぶ。 男は短く応えた。 優しい低音を耳にした途端、恐ろしい何かは瞬く間に消えていった。 朔也は安心して息を啜り、小さく首を振った。 |