晴れる日もある

 

 

 

 

 

 ゆっくり走る車の後部座席に身を沈め、男は窓から外を眺めていた。
 といって何かを見ている訳ではない。
 顔をそちらに向け、ぼんやりと目を開けているだけだった。
 日も落ちて大分経つ、夜独特の刺すような明るさが連なる街並みを、ぼんやりと目に映す。
 別段眠気はない。
 ただ、疲れていた。
 身体ではなく心が、ぐったりと落ち沈んでいた。
 それでも、自宅であるマンションに続く通りに入ったところから、少し浮上を始めた。
 車に乗り込む前、朔也に連絡を入れた。
 本当は今日は、寄らないつもりでいた。
 彼に迷惑をかけてしまう時間帯の帰宅になりそうだったからだ。
 しかし男は朔也に連絡を取った。
 朔也は、それがどんなにつらいものであっても逆らわない。
 そこにつけこんで何かをしようとか、無理難題を押し付け従わせたい、屈服させたいなどと、考えたことは一度としてない。
 それどころか、もっと自由に自分の意見を口にしてくれたらいいのにと、常々思っている。
 だが彼のこれまでの、踏みにじられるばかりだっただろう人生を思えばそれは無理というもので、だから自分は…自分だけは彼を困らせないよう気を付けた。
 滅多に変わらぬ表情に目を凝らし、眼差しの動き一つ逃さずに、彼が押し殺す声を聞き取ろうと努めた。
 彼を理不尽に困らせたくない。
 苦しめるような真似はしたくない。
 それを常に第一に考えた。
 憎む誰かと、同じにはなりたくない。
 だが今夜ばかりは、どんな無理も聞いてくれる彼に甘えたい気分だった。
 相変わらずの素っ気ない声が、分かったと応え、続けて食事はどうすると聞いてきた。
 空腹ではなかったが、心の為に、彼の作ってくれたものを口に入れたかった。
 男は、済まないがと前置き簡単なものを、と伝えた。
 また朔也は分かったと応えた。
 そして通話は切れた。
 男は目を閉じ、深く息を吐き出した。
 他人からすれば、随分素っ気ないやりとりと思うだろう。
 しかし男にはそれで充分だった。
 充分、心があたためられた。

「支社長、間もなくご自宅に到着します」

 運転手の言葉と共に車がマンションの駐車場に滑り込む。
 男はありがとうと応え、身支度を整えた。
 明日の打ち合わせをして別れ、エントランスに向かう。
 自然と足が速まる。
 朔也の部屋の前、男はいつものようにチャイムを押した。
 ゆっくり開いた扉の向こうに朔也の姿を見た途端、胸が一気に熱くなった。それまで無理にせき止められていた血のめぐりが、再開されたかのようだ。瞬く間に全身の隅々まで熱さが行き渡る。
 そんな錯覚に男は小さく息を吐いた。
 身体がいくらか、軽くなった気がする。
 迎え入れてくれた朔也に、訪問するにはかなり遅い時間帯であることをまず詫びる。

「気にしなくていい」

 試験勉強をしていたから。そう言ってくれる朔也に礼を言い、男はリビングに向かった。

「こんなもので、よければ」

 朔也がぶっきらぼうにテーブルを指差す。その態度は、自信の無さの表れ。狭い世界で踏みにじられ、卑下するばかりだった子供が身に付けたものの一つ。それでも大分、改善されてきた。
 用意されていたのは、塩むすびとバターの匂い立つオムレツ。惣菜の小鉢。
 そこにあたたかい一杯の味噌汁が出された。

「ああ……充分だよ朔也。済まなかったね」

 ここまで時間と手間を裂いてくれたことにしみじみと感謝する。心遣いに泣きそうになる。
 端に添えられた漬物がまたにくらしい。
 男は座った。
 向かいに朔也が座る。
 わざわざ付き合う必要はない。勉強に戻ってほしいと、男は口を開いた。
 しかし言葉の半ばで朔也の真意を悟る。馬鹿な自分に気付く。
 しまったと思った時にはすでに言葉を出しきった後だった。
 朔也は美しく整った顔をほんのわずか強張らせた。
 それはどこか悲しそうに見えた。

「一人の食事は、つまらないから」

 やはり、朔也は自分を気遣って残ってくれたのだ。男は浅慮なおのれに苦い顔になる。

「でも邪魔なら、向こうに行ってる」

 慌てて首を振り、引き止め、君の言う通りだと必死に弁解する。
 一人の食事はつまらない。味気ない。本当に美味くないものだ。
 時間を無駄にさせてしまうのを悪いと思いつつも、男は頼み込んだ。
 どうにか、向かいに座っていてほしい旨が伝わる。本心から言っていることをわかってもらえる。
 するとほんの少し、朔也の目付きが和やかなものに変わった。
 必要とされること。
 それが朔也の表情を穏やかなものにした。
 自分と同じだと、頭の片隅で思う。
 男は安堵し、いただきますと箸を取った。
 彼に見つめられる食事は少々気恥ずかしく、また申し訳なさもあったが、それ以上に心地良かった。
 二人でいることの空気を、しみじみと味わう。
 食べ終わる頃を見計らって、緑茶が出される。

「ありがとう」

 香りも一緒にひと口啜る。
 気付けば、車内で感じたあの身の置き所の無いような焦燥感は、すっかり薄れていた。
 しかし完全に消えた訳ではない。
 心の深いところでまだ、どろどろと流れている。
 耳の奥底でかすかに響いている。
 それはまるで小さな子供の上げる悲しい泣き声に似ていた。道に迷った子供の、心細い泣き声。
 男はそれを強引に断ち切る。
 向かいで、ゆっくり緑茶を啜る朔也に口を開く。

「今日は、泊まらせてもらえるかい?」

 朔也の目が瞬きをする。そこに気のせいでなく喜色が走ったのを見て、男も嬉しくなる。自分が邪魔者でないことに安堵する。
 独り寝も、寂しいものだ。
 朔也は小さく頷き、着替えの用意に取りかかろうとした。

「それは自分でする。朔也、おいで」

 立ち上がりかけた彼に手を差し伸べる。
 テーブルを回り込んで傍まできたところを、胸に顔を埋めるようにして抱きしめる。

「……するのか?」

 驚いたようなしばしの沈黙の後、朔也はズボンに手をかけた。
 男はそれをやんわりと止めた。

「そうじゃない。ただ少し、こうしていてほしい」

 またしばらく沈黙が続き、それから朔也の控えめな声がした。

「嫌なことが、あったんだな」

 敏感に察した彼にどきりとする。
 咄嗟に違うと言いかけて、男は飲み込んだ。
 心配させない為に?
 本当は嫌なことではない?
 自分でもわからなかった。
 心配させたくないのは、本当だ。
 だがこの有り様では、とても通用しないだろう。
 それに実際のところは、彼に心配してほしい気持ちがまったく無かったとは言えない。
 自分でもよくわからない。
 目的に向かって、着実に前に進んでいる。障害はあるが、退ける為の手札は揃いつつある。
 何一つ、嫌なことなどありはしないはずだ。
 予期せぬ今日の出来事だって、いつものこと、心に何の引っかかりも残しはしない。
 だというのに、何故こんなに心が疲れているのだろうか。
 本当は、やはり、嫌なことなのだろうか。
 何が嫌なことなのだろうか。
 自分がよくわからない。
 苦しさから逃れようと、男は深呼吸した。
 その時朔也の手が、ゆっくりと頭を撫でた。

「鷹久が時々俺に、こうしてくれるのが、とても気持ちいいから」

 あんたほど上手く出来ないけど、と朔也はまたゆっくりと頭を撫でた。
 男はありがとうと笑って、もう少しだけ腕に力を込めた。

「朔也は本当に、優しい子だね」

 自分がされて嬉しく感じたことを返してくれる朔也に、心が震えた。
 ごく当たり前の、とても貴重な気遣いに息が楽になる。
 撫でる手の心地良さに浸っていてある時ふと、泣き声が聞こえなくなっていたことに気付く。

「ありがとう。もう大丈夫だ」

 男はゆっくり身体を離した。
 朔也の目がまっすぐ向かってくる。
 その眼差しは心配でたまらないと、はっきり語っていた。
 男は何かを云うように口を動かした。
 思えば、こんな風に自分をさらけ出したことは今までなかった。
 唐突に彼に甘えた自分が恥ずかしくなる。
 彼をこうまで心配させてしまった自分が情けなくなる。
 こんな顔までさせてしまうとは――何と言って詫びるべきか。
 男は朔也の両手を取った。
 頭で思うより先に言葉が口を突いて出る。

「君が好きだよ、朔也。本当に」

 心から。
 男はわずかに声を震わせた。
 朔也のあたたかい手が、いつになくしっかりと男の手を握り返した。
 あたたかさと強い意思とに、思わず胸が高鳴る。
 朔也は手を握ったまま、少し強めに引いた。
 促されるままに男は立ち上がった。
 いつの間にか朔也の目が違う色を湛えて潤んでいた。
 挑発的な眼差し。
 何をする気なのか悟り、男は一歩進み出た。
 朔也が一歩退く。男は一歩進む。また朔也は後退し、一歩ずつ男を誘導した。
 男は小さく息を飲んだ。
 ゆっくり踏みしめる一歩ごとに、肉欲が高まってゆく。
 思った通り洗面所にたどり着き、男は朔也に口付けた。
 キスの合間に一枚ずつ服を脱ぐ。
 半分は朔也に脱がされる。
 代わりに男は朔也のシャツのボタンを外し柔らかな部屋着のズボンを脱がせた。
 浴室の洗い場に移動して、また舌を絡める。
 男の首にしがみついていた朔也の手が、ゆっくり男の背中をさすり腹部にたどり着く。
 存分に舌を吸った後、朔也は男の喉元に唇を寄せた。
 それから胸に。
 それから腹に。
 それぞれへ愛撫しながら朔也は徐々にしゃがみ込み、半ば頭をもたげた男のものに口を開く。
 熱い粘膜に受け入れられ、男は喉をひくつかせた。
 朔也は全体に唾液をねっとり絡めると、付け根の辺りをさすりながら先端を何度も吸った。
 唇が、舌先が、絶妙な強さで男のいいところを刺激する。どこがどう感じるかわかっている、的確な動き。
 湿り気を含んだ淫靡な音が、締めきった浴室に響く。
 男はまたごくりと喉を鳴らした。
 こんな風に翻弄してくる彼の技巧に喘ぎそうになる度、頭を過ぎるものがある。
 男は下を向いた。
 喉奥まで飲み込んで、えずきもせず平気で口淫を続ける朔也を見下ろす。
 どこで覚えたのか、他の誰にこんなことをしたのか。
 それらが気になり中々没頭できない。

「いいよ……とても」

 醜さを悟られまいと、声でかき消す。
 朔也は目だけで見上げて、笑うように細めた。
 褒められて、喜んだのだ。していることはとても淫らなのに、反応は子供のそれだ。彼の単純さと一途さに胸がずきりと痛む。
 嫉妬めいた何かがどろどろと渦巻く。
 それでも時折上回る刺激が襲いかかり、声が漏れそうになる。
 男は慌てて口を手で塞いだ。
 朔也は吸い付いていた男のそれから顔を離すと、ゆっくり立ち上がった。
 男は気まずそうに目を瞬いた。
 朔也は手を外させ、何か云うように小さく開いた男の唇に接吻した。
 舌を吸いながら、かたくなった自分のものをこすり付け、両手に包んで一緒に扱く。

「んっ…ん……」

 腰が抜けそうになる程の快感に、男はもう声を抑えきれなかった。
 疲れているせいだろう、いつもより感じやすかった。
 朔也の巧みな指の動きも相まって、あっという間にのぼりつめる。
 まるで彼に激しく抱かれているようだった。
 余計なことなど考える余裕もなくなる。
 今日という日に疲れたことも、子供の泣き声も、彼にまつわる嫉妬めいたものも何もかも――余計なことなど、すべて頭から吹き飛ぶ。
 ただただ行為に溺れる。
 手の動きに合わせて腰を揺すり、男は半ば無意識に朔也の肩に掴まった。
 朔也は今にも泣きそうな顔で恍惚に浸り、何度も喘ぎながら手淫を続けた。
 蕩けた表情が男の目を釘付けにした。
 内股が引き攣る。震えが止まらない。立っているのがやっとになる。

「っ……朔也!」

 射精の瞬間凄まじい快感が襲う。
 何とか叫びを噛み殺す。
 朔也もまた口の中で呻き、二人同時に白濁を吐き出す。
 達した後の軽いけだるさから、男は壁にもたれ、同じようにもたれてくる朔也を抱きとめた。
 しばらく、二人分の荒い呼吸が続いた。
 収まった頃、朔也がまたキスをする。
 しっかりと目を見つめてくるキス。
 男は意識して見つめ返し、もう大丈夫であることを伝えた。
 安心した様子で朔也は舌を絡めた。
 男は目を閉じる。
 熱が鎮まって、またぶり返してきた。
 こんなこと、どこで覚えたのか。
 他の誰にしたのか。
 訊くだけ愚かな疑問が底の方で波打つ。
 全てを承知の上で、彼との付き合いを始めたはずだ。どうでもいいことと男は押しやる。
 どこで、誰にしていようと、今は自分を喜ばす為にだけ繰り出してくる。
 弱った自分を慰める為に、彼なりに励まそうとしたのだ。
 自分の中にあるものを全部使って、一生懸命やったのだ。
 それで、いい。
 朔也を心から愛おしく思う。
 子供らしからぬ欠けた部分と、子供らしい単純さ、そして一途さを抱えた、優しい人。

「君が好きだよ……朔也」

 男は腕を回し、そっと抱きしめた。
 心をぐったりとさせる疲れは消えて、今は、心地良い夢現に包まれている。
 全て、朔也のお陰だ。
 嗚呼本当に、彼が好きだ。

 

 

 

 だのに何故、心は迷うのだろう。

 

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