晴れる日もある
朔也は徹底して見送りを避けた。 平日、ともに夕食を取った後も、週末、ひと晩ともに過ごした後も、決して玄関先で見送ることをしなかった。 それは少しずつ距離が縮まったと思われる今も、変わりなかった。 帰宅の旨を伝えるとさっさと自室に戻り、その際ひと言も口を開くことはない。 せいぜい、ほんのちょっと頷くくらいだ。 了承の意思表示だけはするが、後はもうきっぱり背を向ける。 男は一人寂しく、リビングの戸を閉めて帰るしかない。 合鍵は持っているから戸締りの心配はない。 付き合いを始めて数か月、彼の徹底したこの態度も恐らく、幼少時の何かが原因となっているのだろう。 数日前、男を驚かせた玄関先での朔也の態度が脳裏を過ぎる。 余計な口を利いたせいで彼を混乱させてしまった失敗も、同時に蘇る。 頭を抱えたくなる。 朔也は自分を待っていた。 本当に待っていたと言った。 そこに推測も及ばないほど強い何かがあるのは間違いない。 扉の向こうへ行ってしまった誰か。 玄関のドアを開けて入ってくる誰か。 扉、その境目は、朔也にとって殊更に重要な意味を持つようだ。 迎えることには少しずつ喜色を表すようになったが、見送ることだけは頑として拒む朔也。 拒み、無視して、自分の中では起こらないことにしている。 初めの内は大いに戸惑った。 今もまだ正直慣れない。 しかし、強要するつもりも非難するつもりもない。 単なる子供のわがままではない。 誰にでもある、触れてはいけない部分。 朔也はそれが少々多いが、苦しみもがきながらも抜け出す努力を重ねている姿を見ると、途端に許してしまえた。 だから彼に惹かれる。 だから、男は朔也が好きだった。 |
今日もまた同じだろうと諦めではなく受け入れる。 いずれ変わる時がくるかもしれないと、期待を捨てていないからだ。 いつもより帰宅が遅れてしまったせいで、食事の時間がずれ込んでしまった。 朔也は文句も言わず―もっともそれ以外もほとんど口を利かないのだが―準備をした。 しかしやはり内面ではいくらか怒りのようなものがあるのか、食事の最中や、食後にコーヒーを出される際も、普段とは異なる、刺すような眼差しを向けられた。 男は困惑し、コーヒーを受け取る際、もう一度遅れたことを謝罪した。 一瞬の静止の後、朔也はごくわずかに首を振った。 彼は大抵の場合表情が読み取りにくいが、どこか面食らっているようだった。 何故謝る必要があるのか。 そういう戸惑いが垣間見え、男はますます困惑する。 どこか落ち着かない自分をらしくないと片隅で笑う。 しかし彼の前では、いつもどこか落ち着かない。 心が浮付いて、不安定になって、一挙手一投足を見守ってしまう。 ちょっとしたことで嬉しくなり、そして落ち込む。 この言葉は彼を喜ばせるだろうか。こういうことをしたら気分を害してしまうだろうか…彼にも、そういったものはあるのだろうか。 それとなく見やる。 たっぷりミルクを注いで、身体の奥まで熱が届くようゆっくりカップを傾けている。 ご馳走様と告げると、手が止まった。 美味しかったと付け加えると、穏やかな目線が向けられた。 それはいつも通りの、彼なりのあいさつだ。 それはいつもと変わりない。 ならば、数回寄こされたあの睨むような鋭さは何を含んでいるのだろうか。 強張った、刺すような眼差し。 前にも似たようなことがあった。 その時彼は、隠し事を吐露した。 ならばまた、今まで言えずにいたことを告げようとしているのだろうか。 男はいささか緊張する。 しかしそれからコーヒーを飲み終わるまでの間、朔也は口を開かなかった。 思い過ごしにしては、あまりに強烈だった。 ありがとうと添えて飲み終えたコーヒーカップを置き、帰宅の旨を告げる。 朔也は即座に立ち上がり、自分のコーヒーカップも一緒にキッチンへ持っていった。 この瞬間から、彼の中で存在は無くなっている。 男はしばし後ろ姿を見つめた後、リビングを出た。 静かに戸を閉め、廊下を進んでいると、背後で微かな物音がした。 するはずのない物音に肩越しに振り返ると、戸口に立つ朔也が目に入った。 自分でも驚くほど心臓が高鳴り、男は息を飲んだ。 手に紺色の小さな紙袋を提げている。 動きそうに…否動けそうにない朔也に代わり、男は傍まで引き返した。 どうしたと尋ねると、おずおずと袋を差し出される。 受け取った紙袋は軽く、ひんやりと冷たかった。 今まで、冷蔵庫に入れて保存していたのだろう。 中身は何だろうか。 「ウイスキーには、チョコレートが合うって聞いた」 独り言にも取れる囁きに男は小さく目を見開いた。 私に? 本当に? 袋の中を覗く。 平たく細長い箱が一つ入っていた。 それでも、まだ信じ難かった。 彼の中には、酒を飲む人間はあまり良い印象がないと思っていた。 危害を加えないと頭で分かっても、信じ切るのは難しいと、実際に口に出しても言ってきた。 彼が過去に受けた仕打ちによるもの…推測の域を出ないが、不確かながらも言葉の端々に掴んだ事情を組み合わせて、それも無理はないと納得していた。 それだけに、この思いがけない贈り物は心を震わせた。 「中を見ても、いいかい?」 朔也はごく微かに頷いた。 男はしばし迷い、丁寧に包装紙を開く方を選んだ。 箱の中には、砂糖漬けしたオレンジのスライスにチョコレートをかけたものが、セロファンに包まれ並んでいた。 チョコレートの詰め合わせと予想していたのを裏切られ、良い意味での驚きに、男は言葉も出せなかった。 わざわざ調べ、店を探し、買いに行ってくれたのだ。 自分の為に。 「気に入らなかったら、捨てていい」 ぶっきらぼうな物言いに男はゆっくり首を振った。 そこではたと気付く。 彼が睨むように何度も見つめてきたのは、この贈り物が気に入ってもらえるかどうか、心配していたからだったのだ。 そしていつ渡そうかそわそわしていたから、あのような態度になったのだ。 彼にも、あった。 嬉しさに頬が緩んでしようがない。 ありがとうと、男は目を上げた。 「食べるのがもったいないくらいだよ」 食べるのがもったいない。 心から思った。 朔也は、いつものように何も言わず視線を向けるだけだった。 けれどいつもとは大分違っていた。 柔らかく滲む嬉しさが、朔也の頬をほんのり赤く染めている。 男の胸にしみじみと愛しさが湧いた。 しかし長く余韻に浸る暇はなかった。 朔也はさっと踵を返すや行ってしまった。 幻かと思うほど呆気なく立ち去った。 しかし手の中には確かに証拠がある。 歩み寄りの確かな証拠。 だからいずれ、いつか、見送ってもらうのも夢ではないだろう。 男は今一度リビングを見やった。 見える範囲に朔也はいない。 もう自室に引っ込んでしまったのか、耳を澄ませても物音一つしない。 それでも手にした贈り物のお陰で、寂しさは感じなかった。 もしかしたら今日ばかりは、見送るこの領域に来るのが嫌なのではなくて、照れ臭かったのかもしれない。 男はふとそんなことを思った。 途端に声に出して笑いたい程の喜びが込み上げてきた。 |