晴れる日もある

 

 

 

 

 

 あの日も雨が降っていた。
 薬の幻覚症状で朦朧とした父親に犯された日も、雨が降っていた。
 全部があの日に壊れ、生まれた。
 雨が降っていた。

 

 

 

 男がやってくるまで、もうあと五分もなかった。
 朔也は廊下の中ほどに座り、手をついた。
 手をついたのは単に、玄関のドアを見上げるのにその姿勢が丁度良かったからだ
 低い視線は、小さい頃の自分。
 毎日のように父親に殴られ部屋の隅で怯えていた頃の自分。
 そして毎日のように玄関を見上げては、いなくなった母親が今にもそのドアを開けて入ってくるのではないか。
 妹と一緒に、今にもそのドアを開けて帰ってくるのではないか。
 そんな愚かなことを考えていた頃の自分。
 お母さんはいなくなってしまった。
 妹と一緒に、どこか遠くに行ってしまった。
 自分を残してどこか遠くへ。
 だからもう、玄関のドアを開けて入ってくるのは、自分に暴力をふるう父親か見知らぬ人のどちらかしかない。
 もう二度と、自分が望むような人は入ってこない。
 悪意でなく自分を見て、名前を呼んでくれる人は。
 もう二度と――。
 朔也は息を飲んだ。
 全身に緊張が走った。
 ドア越しに足音が、近付いてくる。

 

 

 

 チャイムを鳴らす。
 鳴り響く間に合鍵を取り出す。
 時計を確認する。
 伝えた時間に差異はない。
 いつかのように、入れ違いで不在なのだろうか。
 少し、つまらないなと心の中で零して、男は合鍵を差し込んだ。
 一日降った雨に濡れた傘を気にしながら、ドアを開けて中に入る。
 鍵をかけて振り返り、ぎょっとする。
 廊下のすぐそこに、朔也がいた。
 今まで一度もしたことのない、強制したこともない、まるで三つ指ついて迎えるような格好で朔也は座っていた。
 正座をして手を前につき、そこから玄関を見上げている。
 まっすぐ見上げてくる、挑みかかるような眼差しと目を見合わせて数秒、ようやく男は口を開いた。

「……どうした?」

 言葉が喉の奥で絡んで上手く出せない。
 雨の降る日、彼は特に不安定になる。
 だから、こんな、びっくりさせるようないたずらを仕掛けてきたのだろうか。
 今まで見てきた限りでは、彼がこんないたずらを思い付く人間だとは、とても思えないが。

「待ってた」

 目付きは今にも飛びかからんばかりに強く勢いがあるのに、声音は意外にも穏やかでそして思いがけないひと言で、男は大いに戸惑う。
 待っていたと言われるのは初めてのことだ。

「玄関のドアを開けて、あんたが来るのを、待ってた」

 素直に浮かれていいのか迷っていると、心のどこかをぎくりとさせる違和感が一瞬過ぎった。
 その正体が何か、男は見極めようとする。
 朔也は立ち上がるや踵を返し、洗面所からタオルを手に戻った。

「ありがとう」

 受け取って、男は考える。 
 雨の日の何が、彼を不安定にさせるのか。
 雨の日に何かが起こった…何か辛い記憶と結びついているからだろうか。
 自分も雨の日が嫌いになりそうだと、男はぼんやり思った。
 ただ鬱陶しさからくるものもある。
 そして雨が降って彼が不安定になる度、これまで築いてきたものが一瞬にして崩れる、なかったことになる、ふりだしに戻る…そんな気分にさせられるからというのもあった。
 呆気なく背中を向けて立ち去る朔也の姿に、男は小さく首を振った。
 後を追うようにして廊下を進む。
 ダイニングテーブルの上には、雨の日の朔也を象徴するように、すらりとしたコップに小さな黄色い花が生けてあった。
 彼の肩越しに目を向けた時、何の脈絡もなく唐突に、ある考えが浮かんだ。
 男はそれをよく反芻せず、口にした。

「誰を…本当は待っていたのかね?」

 言葉にあからさまな反応を朔也は示さなかった。
 歩みが止まることも、肩が弾むこともなかった。
 しかし内面では劇的な変化があったのだろう。
 その胸に一体何が去来したのか。
 数歩進んで立ち止まり、朔也はゆっくり振り返った。
 暗い、ぼんやりと濁った目付きを向けられ、男はそこで初めて己の過ちに気付いた。
 腹の底がぞくりと冷える。
 少しばかり恐ろしいことが起こる予感がした。

 

 

 

 テーブルの端から水が垂れ、一滴また一滴と床の水たまりに落ちて音を立てた。
 それ以外に聞こえるのは、朔也の荒い息遣いだけだった。
 動きを封じられると朔也は素直に腕に収まるが、拒絶だけははっきり表して、竦めた肩や掴まれた腕に怒りを漲らせていた。
 こうして背後から拘束されるのは、朔也にとって恐怖の対象でしかないことはわかっていたが、男は動きを封じ続けた。
 でなければ、今頃、テーブルの上で倒れただけで済んだ花を生けたコップは床に落ちて、粉々に割れていただろう。
 椅子が一つ壁まで蹴り飛ばされただけでは済まなかっただろう。
 鋭く抉ってきた拳に顎か頬を殴られていたかもしれない。
 意外にも彼は喧嘩慣れしているようで、動きは素早かった。
 多少心得があるお陰で、どうにか無傷で済んでいるが。
 こんなことで彼を見限るなんてありはしないが、本当に、雨の日が恨めしい。
 いや、恨むべきは浅はかな自分か。
 それから少しして、始まった時と同様、朔也は唐突に力を抜いた。
 激しい怒りに満ちた息遣いも、既に収まっていた。
 男は腕を離そうとした。
 同時に朔也は口を開いた。

「それが……間違いだってわかってるのに、どうしても変えられないものがあるんだ……」

 自分を思い浮かべ、男は静かに頷く。
 朔也は小さな動作で振り向いた。
 男は拘束を解き、一歩退いた。
 互いの身体が向き合う。
 眼差しは意外にも穏やかで、先程見たものが嘘のように鎮まり返っていた。
 また少しして、朔也はぽつりと言った。

「……本当はこんなことがしたいわけじゃない」
「それもよくわかっている」

 男の答えに、あんた、おかしいと、幻のように儚い囁きが朔也の口から漏れた。

「それでも君が、好きだよ」

 同じもので苦しんでいる朔也に静かに告げ、男は正面からゆっくり抱きしめた。
 男の腕の中で、朔也は深く息を吐いた。
 まるで、今まで禁じられていたのがようやく許されたとばかりに深く、ゆっくりと。
 安心しきったため息に男もまた安堵した。
 しばしじっと腕に収まった後、朔也は床の掃除に取りかかった。
 男は、テーブルの上で倒れたコップと花を救った。
 たっぷりの水を汲み、静かに花を生ける。
 たった一本だから強烈に目を引く、可憐な黄色い花。
 元のようにテーブルに持っていくと、朔也はそれを両手で受け取った。
 小さくともくっきりとした五枚の花びらを見つめた後、朔也は目を上げた。

「……本当に、鷹久を待っていたんだ」

 花のコップを手に朔也は夢見心地で言った。
 男は心から詫びた。

「もう、いい」

 朔也は穏やかな顔で首を振った。
 許しの響きが逆につらかった。
 ようやくのこと胸の内を聞かせてくれたというのに、なぜあんな聞き方をしてしまったのだろうと悔やむ。

「……朔也」

 呼びかけると、テーブルに置いた花からわずかに顔を上げ、朔也は応えた。

「次も、待っていてくれるかい?」

 ゆっくりと眼差しが向けられる。
 考え込んでいるのか、それとも迷っているのか、しばし沈黙が続いた。
 男は息も詰まる思いだった。
 やがて、ほんの少しだけ朔也は頷いた。
 申し訳なさに男は打ちひしがれそこで唐突に違和感の正体がわかる。
 あの時朔也は『あんた』と言った。普段は名前を呼ぶところを、あんた、と。
 どうしようもない怒りに支配されてしまう時以外で、彼がそういう呼び方をすることはない。
 しかし、あの時から怒りにかられていたかといえば、そうは思えなかった。
 それ以前に、彼が何故怒りに振り回される時名前を呼ばなくなるのか、理由もわからない。
 けれどその追究は無意味かもしれないと、男は思った。
 人の心だ。自分のことでさえ、本当にはわからないものだ。
 ただ、あの時の『あんた』は、怒りではない何か別のものだと思えてしようがなかった。
 頼りない勘に過ぎないが、やけに強く心に浮かぶ。手放しで信じてもいいくらいに。
 そんなあやふやなものに寄りかかった時、何故だか笑みが浮かんできた。
 彼を不必要に混乱させてしまった済まなさに胸がずきずきと痛んだが、同時に甘い喜びも湧いてくる。

 

 

 

 向かい合って静かに食事を進めながら、男は思った。
 雨の日が嫌いになりそうだったが、それを訂正したいと。
 何故なら、雨の日ごとに遠ざかっていると思われたのが、本当はより彼に近付いていっているのがわかったからだ。
 不安定ながらも、彼は歩みを止めないでいるのがわかったからだ。

 

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