晴れる日もある
はじめは、言葉もなく顔を強張らせるばかりだった。 次第にほどけてくると、言葉を覚えたてのようなぎこちなさでありがとうと言った。 それから少し進展した今、美味いと口にすると朔也は顔を上げて目線を送るようになった。 相変わらずにこりともしないが、顔付きは随分穏やかになった。 これがもう少し進んだら、笑顔の一つも見られるようになるのだろうか。 初めて作ったという割には上出来のスペイン風オムレツを口に運びながら、男は正面に座る朔也を見やった。 ゆっくりとした優しい動作で黙々と食事を続けている。 それが、美しく整った目鼻立ちと相まって、彼をより優美な印象にさせた。 しかし今日は少し異なり、何かの折にふと手が止まる。 通常それは、何か考え事をしている時の仕草だ。 彼にもそれがあてはまるのだろうか。 だとしたら、何を思い悩んでいるのか。 時折制止する手から顔へと視線をずらし、男は静かに見守った。 |
後片付けを済ませ戻ってきた朔也に、男はもう一度ご馳走様と伝えた。 頷く代わりに朔也はやや不自然に立ち止まった。 まただと、男は首を傾げた。 「どうかしたかい?」 何か尋ねたいことがあるのだろうか。 もしくは話したい何か。 朔也の視線がテーブルへずれる。 そこには、男が夜いつものように口にするウイスキーのグラスがあった。 朔也はしばしそれを見つめた後、グラスへ手を伸ばした。 「君はまだ駄目だよ」 男は笑いかけ、グラスに蓋をするように手でさえぎった。 朔也は一旦動きを止めたが、手の下からグラスを抜き取り口元へ持っていった。 少し強い口調で男が止める。 制止も聞かず朔也はグラスを傾けた。 そしてすぐに男の膝に横向きに座り、顔を近付けた。 しっかり噤んだ口元の様子から、朔也が何をするつもりなのか男は瞬時に悟る。 驚きもあるが、それよりも、零さないようにむせないように受け止めなければとそちらへ頭がいってしまう。 案の定朔也の唇が重なる。 男は慎重に受け止め、流し込まれる酒を口に含んで飲み下した。 恋人同士の甘いおふざけには程遠い、一つの作業。 「……私は、あまりこういうのを好まないんだ」 責める口調にならぬよう気を付けて男は言った。 朔也はかすれた小声でごめんなさいと呟いた。 胸が抉られるようで、男は小さく目を見開いた。 朔也の顔には、無表情で隠そうとしても隠しきれない悲しみが滲んでいた。 疲れきった眼差しは心持ち潤んで、間近で覗き込む男の心を締め付けた。 「どうした朔也……何がそんなに悲しい?」 あまりに痛々しく、男は頬に手を差し伸べた。 手のひらが触れて、朔也はしゃくり上げるように息を吸った。 目は、どこでもない遠くを見ていた。 「……そういう時、大人は酒を飲むんだろ」 「……そういう、時もある」 男は喉に詰まる声を何とか絞り出し、朔也が見ているものを見ようと努力した。 朔也はおずおずと男の膝から退くと、途方に暮れた様子で立ち尽くした。 何を訴えようとしているのか、男は無表情の下に隠されたものを掴もうと必死に目を凝らした。 「でも鷹久は、俺のこと……」 その後は胸がつかえたように、朔也は息さえも押し殺した。 口にするにはあまりにつらい言葉なのだろう。 固く凍り付いた顔で喉元を掴む仕草はとても見ていられなかった。 「……朔也」 男はゆっくり立ち上がった。 怯える彼をこれ以上刺激しないよう気を付けて動く。 朔也が自分から話をするのは滅多にないことで、もっといえばこれが初めてだ。 話をする気になった貴重な空気を壊す訳にはいかない。 慎重に肩へと手を伸ばす。 「言いたくないことは、無理に言わなくていい」 朔也はわずかに俯き、細く長く息を吐いた。 棒のように突っ立つ痩せっぽちの少年を、男は静かに抱き寄せた。 男の内面に激しい怒りが渦巻く。 朔也は言葉を詰まらせたが、大体の事情を掴むことはできた。 ありえない話ではない。 そして悲しいことに、少なくはない。 昔、誰かが、酒に酔って彼に暴力を振るったのだ。 そして心ない言葉を吐きかけて部屋の隅に追いやった。 今でも口に出せないほどに、たくさんの傷を身体にも心にも刻んで。 その時の恐ろしさはいかばかりだったろう。 男の脳裏に、五歳くらいの男の子が思い浮かぶ。 圧倒的な大人の力に打ちのめされて、力なく倒れ伏す小さな男の子の姿が、男の胸を深く突き刺す。 その男の子は、今の朔也のように悲しい目をしていた。 「もし俺が嘘をついていたら、鷹久はどうする?」 平坦な声で朔也は投げかける。 目にはあの、自己抑制の幕が下りていた。 何が起こっても、それで耐えてやり過ごすつもりなのだろう。 痛ましげに見つめた後、どうもしないと男は答えた。 どう思うかと聞かれたなら、悲しいと答えただろう。 腹立たしくもあるが、悲しい方が強い。 朔也は、どうするかと聞いた。 何かされる、そのことを恐れているから、そういう聞き方をした。 嘘をつかれれば腹も立つし悲しく思うが、それでどうする…暴力を振るうことは絶対にない。 思い出したくもない過去の記憶が蘇る。 男は即座に振り払った。 ああはなりたくない。 どうもしないと答えるより他にない。 それからしばらく、朔也はじっと押し黙っていた。 身動ぎもせず、男の腕に収まっていた。 そしてある時唐突に、本当は、と口を開いた。 「ひどいことをされるのは……嫌いなんだ」 最後は消え入るような声で朔也は言った。 とっくに分かっていたことだが、男は口に出さず、静かに頷いた。 隠し事を告白するのは、誰でも勇気がいる。 彼ならば、尚更だ。 「……鷹久は、ひどいことしない」 少しほっとした声が朔也の唇から零れた。 その言葉を聞いた時、男はまるで強く首を絞められたように感じた。 そんなことはない…苦しむ声で男は否定した。 たった一度とはいえ、自分も彼を痛め付けた、手ひどく犯した。 嗚呼そうだ、自分も同類なのだ。 酒に酔ったのではないから、なお性質が悪い。 朔也は何度も首を振った。 「……他の誰も、傷の手当てなんてしてくれなかった」 男は言葉を失う。 「鷹久だけが、俺も他の人みたいに気遣ってもらえる人間だって、教えてくれた」 そんな当たり前のことさえ、自分には与えられないものだと諦めきって生きてきたこの少年は何なのか。 こんな時、ほとほと人間が嫌になる。 「だから何とも思ってない。もう、何とも思ってない」 きっぱりとした意思を込めて朔也が言う。 「鷹久は優しい。本当に。だからもう、何とも思ってない」 本当にそう思ってると、朔也は目を上げた。 淀みのないまっすぐな眼差しをしばし見つめた後、男は小さく顔を背けた。 ずっと見続けるにはあまりに強く純粋で、いたたまれなかった。 自分のことで精一杯だろうにこんな人間まで一生懸命あたためようとする朔也の気持ちが、ありがたくて、いたたまれなかった。 否定し続けたかったが、これ以上傷付けたくない男は礼を言う。 男が笑ったのを見て、朔也はいくらか穏やかな顔になった。 そしてすぐに暗く沈む。 「本当にもう、何とも思ってないんだ……」 なのにどうしても信じ切ることができないのだと、朔也は呆然としたように吐き出した。 「仕方ない事だ。私はそれだけのことを――」 「鷹久のせいじゃない。俺がいけない。俺が、頭のいかれた汚い子供だから」 感情のない淡々とした声はかえって男を震え上がらせた。 吹き込まれた嘘を信じ切って、どこまでも自分を卑下する。 一体朔也がどんな悪いことをしたというのだろうか。 「……それでも私は、君が好きだよ」 それがどんなに心からの言葉でも、朔也の心にこびりついた呪縛を拭い去ることはできない。 頭のいかれた汚い子供だなんて、そんな言葉は嘘だと言ったところで、どうして朔也が信じてくれるだろうか。 信じるべきはこちらの言葉だということを、どうやって証明すればいいのか。 男は呪いを解く鍵を持っていなかった。 思い出したくもない過去の記憶が蘇り、男を苛む。 暴力でねじ伏せる折檻も、浴びせられた否定の言葉も、思い出したくもない。 そんなに朔也は…自分は、悪いことをしたというのだろうか。 呪いを解く鍵はどこにあるのだろうか。 今できるのは、求めてくる朔也を優しく抱くことだけだった。 信じ切ることができないと悲しむ朔也の胸に響くように、できるだけ優しく。 言葉で何度も君が好きだよと繰り返して、足りない分は身体中に愛撫して残す。 その度に朔也は身体を震わせて、しゃくり上げるように息を吸って、鷹久は優しいからと喘いだ。 感情のこもった声。 一瞬でも、自分が本当に優しい人間であるかのように錯覚してしまう。 本当のところは、もう何年も前から心にどす黒いものが渦巻いている、迷いだらけのろくでなしだというのに、朔也は。 キスの合間に目を覗き込むと、明らかな葛藤が見てとれた。 朔也は目を逸らした。 けれどすぐに戻し、ある一つの想いを込めて熱心に男を見つめ続けた。 「鷹久は…優しいから……」 その後に続く言葉を、朔也は必死に押し隠した。 その後に続く言葉を聞き取り、男の背に衝撃が走る。 頭のいかれた汚い子供は、誰かに好きだと言ってはいけない。 言えば自分の汚いものが移って、相手も汚れてしまう。 朔也はそう思い込んでいるのだ。 そう思い込んで、必死に言葉を飲み込んでいるのだ。 気付いた男はおののく。 こんな、とっくに汚れている自分を守ろうとしていることに。 自分を、清廉に見てくれていることに。 好きだと言ったも同然、子供の浅はかさと笑うべきところだろうが、男は笑えなかった。 泣けてしようがなかった。 悲しさが込み上げ、それ以上に朔也の深い愛情が嬉しかった。 どこが、頭のいかれた汚い子供なものか。 未熟な部分も確かにあるが、人の心を思いやれる、情け深い優しい子ではないか。 身体いっぱいで感じたくて強く抱きしめる。 彼の中で熱が膨れ上がる感触がした。 朔也の口からおののいたような声が上がり、そんなかすかな響きさえも腹の底をぞくぞくとさせる。 強く抱きしめてくる腕が訴えるものに応え、男は何度も朔也の耳元で好きだよと囁いた。 朔也は泣きそうになって、うわ言のように鷹久と繰り返した。 結局最後まで朔也は後に続く言葉を口にすることはなかったが、最後までしっかりしがみついたままの腕が、言葉以上に男の胸を強く打った。 |
朔也は、信じ切れないと言って嘆いた。 信じないではなく、信じ切れないと言った。 そしてそれを嘆いた。 信じようとしている表れだと思えば悲しみはなかった。 卑下するばかりの閉じた世界から抜けだそうと、もがいているのだ。 こんな自分を信じようと、必死に努力しているのだ。 決して短くない間、朔也はひどいことばかりを見続けてきた。 だからすぐには優しさを信じられない。 それでいいと、男は思った。 少し優しくされたからと簡単に流されるような自分の無い人間ではないことが、密かに、嬉しかった。 他人同士、近付くのはたやすくない。 間違った行き止まりの道に途方に暮れることもある。 だから、彼に惹かれるのだ。 それに…そうだ、話すこと自体が、信頼している証ではないか。 そう思えば、悲しみはない。 |
喜びはゆっくりと近付いてくる。 じれったいほどゆっくりと――確実に。 |