晴れる日もある
ソファーでくつろぎ、酒を嗜む男の足元に、定位置となったように朔也は膝を抱えて座っていた。 身体をすっぽり包み込んだ厚手のブランケットは男がやや強引にかけてやったもので、病み上がりの彼を心配してのことだ。 時刻は夜の九時を少し過ぎた頃。 時計の針の音はとても静かで、室内には穏やかな沈黙がただよっていた。 男はこの時間、昼間の反省や仕事の改善といったものをそう目まぐるしくなく頭にめぐらせ、あるいは何も考えずただぼんやりと、一日の終わりを静かに過ごすことにあてていた。 朔也と暮らす…といっても別の階別の部屋だが、彼と過ごすようになってからは、主に彼のことが頭を占めるようになった。 始まりは本当に奇妙で、そして最悪だった。 いっときは嫌悪感さえ抱いた。 ごまかしを取り払い、自分の素直な気持ちに耳を傾ければ、朔也が傍に居てくれればいいと強く願っていた。 今では、自分を二の次にしても彼の助けになれたらなどと思っている。 何がどうなるか、なってみないと本当にわからないもの。 あまり近くに他人がいるのは正直煩わしく、不必要にさえ思っていた。 それがどうだ、微妙な距離まで近付いた朔也に、寄りかかってもらえたら…などと密かに思っている始末だ。 もうあとほんの少しの隙間が、切なくて苦しい。 そういえばと男は思い返す。 あの日の昼間、朔也が見せた拒絶めいたものは何だったのだろうか。 昼間はまだ少し熱が高かったが、夜には大分回復して、用意した卵粥もほぼ食べきれるまでになった。 その時の彼の様子は、昼間とは打って変わりまたいつも通りでさえなかった。 いつも通りの、淡々とした仮面ではなかった。 表情は変わらないものの、ひどく大事そうに卵粥を匙ですくい口に運んだ様を思い出し、男は思わず頬を緩めた。 冷凍しておいた白飯と卵で作った、何の変哲もないものにそこまでされて、返って申し訳なさが込み上げた。 美味いも不味いもなく、最後にありがとう、ごちそうさまと囁くだけだったが、とても貴重なもののようにひと口ずつすすってもらえただけで、男には充分満足だった。 彼は本当に、言葉を押し殺す。 自分ごときが何かを言ってはいけないと、ひどく萎縮しきっていた。 その辺りの事情と、原因、そして彼が時折豹変する際の『あんた、おかしい』は、関連があるのだろう。 いつになるかはわからないが、いつか朔也の心が落ち着いて、そして話せる日がきたらいいと男は思った。 手にしたグラスをゆっくり回し、ひと口傾ける。 その時、膝に重みが加わった。 どきりとして見ると、朔也の身体が傾いで、足にもたれかかっていた。 無遠慮な重みから、自分の意思でもたれたのではなく眠ったのだと悟る。 少し足に力を入れて支え、男は思案する。 ベッドに運ぼうかそれともこのささやかな接触をしばし楽しもうか、思い悩む。 まださほど遅い時間ではない。 だから、眠くなったというよりは、気が緩んだ、気を許したというのがより近いだろう。 誰かの心ない言葉によって、朔也は汚いもののように部屋の隅に追いやられた。 それを彼は、当り前のように受け入れていた。 誰にもそんなことを言う資格はないのに。 従う義務などないのに。 刷り込まれた言葉によって、朔也は部屋の隅で小さく過ごす。 そんなことはないと、そんなことはしなくていいと、男は言った。 どうにか朔也はその呪縛から離れることに成功したが、根強く残るものによって素直に隣に座れずにいた。 足元にくるのだって、相当心を奮い立たせたに違いない。 それがようやく、気を許して眠るまでになった。 かすかに寝息が聞こえてくる。 男の位置からは今は見えないが、何度も目にしたあの寝顔が思い浮かぶ。 年相応に幼くあどけない顔を思い出し、男は目を細めた。 そこでかすかに、呻きのようなものを耳にする。 窮屈な姿勢で苦しいのだろう。 ベッドに連れて行こうとグラスを置いた瞬間、朔也の身体がびくりと跳ねた。 直後足にしがみつかれ、男は小さく驚いた。 「どうした、朔也」 呼びかけるが、朔也は心ここにあらずといった様子で左右を見回した。 呼吸はひどく荒い。 溺れそうになったものの最後の命綱と言わんばかりに、朔也は男の足にしがみついて喘いだ。 そして空気の流れさえ聞こうとするように、肌に耳に神経を集中させた。 痛い程の緊張と、怯えが伝わってくる。 朔也が味わっているだろう怖さが男にも伝播して、胸がずきりと痛む。 尋常でない様子から、男は何か良くない夢を見たのだろうと推測した。 「大丈夫だ。ここには、君と私しかいない」 男が言うと、朔也は左耳のピアスを掴み呻いた。 その仕草に男はどきりとする。 肩で息をつく朔也に、もう一度大丈夫だと声をかける。 そしてややためらいながら、朔也の頭に手を乗せる。 案の定彼は全身で反応したが、振り払うことはしなかった。 乱れた呼吸は、徐々に鎮まっていった。 なんて可哀想な朔也…男はありきたりの同情を募らせかけて、猛省した。 彼の目はまったく憐れを誘ってなどいない。 いつもの自己抑制の幕でごまかしたりせず、立ち向かおうとしていた。 負けまいと踏みとどまっていた。 だから同情はお門違いだ。 強さと勇敢さに心を打たれる。 その一方で少しばかり嫉妬もしてしまう。 息遣いが元に戻った頃合いに、隣へおいでと、男は言った。 朔也はごくわずかに顔を上げた。 「おいで、朔也。大丈夫だから」 さあ、と促す。 朔也の目がまっすぐ男を捕らえる。 何かを確かめ、探っていると男は思った。 嘘やごまかし、下心や不純物などあれば、容易に見抜いてしまうに違いない。 自分は果たして彼の信頼に足る人間だろうかと、男は小さく喉を鳴らした。 朔也は顔を伏せると、動きづらそうにしながらも男の隣に座った。 男は内心ほっとする。 「寒くはないか?」 頷き、朔也は抱き寄せる手に逆らわず男の肩に寄りかかった。 ひどく遠慮した重みに男は胸を痛める。 彼が戦うべきものは、本当に多い。 少しでも力になれればと男は願った。 「……あったかい」 とてもそうは聞こえない声で呟き、朔也は少しずつ緊張を解いた。 何も聞かず受け入れてくれる抱擁が、拉がれた心を優しくあたためる。 朔也は安心しきった顔で目を閉じ、ゆっくり息を吸った。 もう一度、左耳のピアスを確かめる。 肩を抱く男の手は本当にあたたかい。 胸の奥まで熱く沁み込んでゆく。 |