晴れる日もある

 

 

 

 

 

 エレベーターを降りるや、男は足早に朔也の部屋に向かった。
 昨晩珍しく熱を出した彼が、気になって仕方なかった。
 珍しい以前に、高校一年で出会い、間もなく二年に進級する今まで、ちょっとの体調不良も見かけた事がないだけに、流行りの風邪だとわかっていても過剰に心配してしまう。
 心配する理由は他にもあった。
 何がそうさせるのか、彼は、ベッドで休む事を嫌がった。
 男がどうにか言いくるめて無理やりにでも押し込んで、渋々従うといった状態だった。
 だから、具合が悪いのをおしてベッドを抜け出しているのではないか…そんな心配もあって、自然歩く足は早まった。
 合鍵を使い、静かに玄関に入る。
 リビングに足を踏み入れてすぐ、男はぎくりと動きを止めた。
 朔也の部屋の扉が、開いているのだ。
 呼びかけながら覗き込む。
 果たして無人だった。
 男はすぐに玄関に取って返した。靴があるか確認する為だ。
 学校指定の革靴も、普段はいているスニーカーも、きちんとそこに揃っていた。
 それを認めると同時に左手の扉が開き、肩で息をつきながらよたよたと朔也が出てきた。
 どうやら用を済ませていたようだ。
 男はほっとし、朔也はびっくりした顔になった。
 高熱に苦しんで潤んだ目が、心持ち大きく開かれ男を映した。
 あまり見られぬ明確な表情の変化に男は内心面食らいながら、仕事の都合で少し時間が出来たから様子を見にきたのだと説明した。
 数秒硬直した後、朔也は乾いた唇で男の名を呼び、両手を伸ばした。
 今度は男が驚く番だった。
 仕草が、親に抱っこをせがむ子供そのものだったからだ。
 はっきりそうとわかる心細さに満ちた声が、男の保護本能に深く食い込む。
 男はしっかり抱き止め、背中を撫でさすってやった。
 肌から染み込んで身体の奥深くまで届き、骨身に充分浸透するように、さする手のひらに慈愛を込める。
 思いの他強い力でしがみついてくる朔也の火照った身体から、病の匂いがうっすらとした。
 浅い呼吸と、独特の匂い。
 男は顔をしかめた。
 触れあった箇所から、彼の苦しみが伝わってくるようだった。
 気のせいでも、胸が痛くなった。
 男は買ってきた物の袋を肘にかけ、朔也を抱え上げた。
 部屋まで運び、ベッドに横たえる。
 朔也は首にしがみついたまま手を離さなかった。
 男は無理にほどこうとせず、しばらくそのままでいた。
 身体が小刻みに震えていた。
 恐らく高熱からくる反射的なものだろう。
 しかし男には、怖さに怯えてのものにも思えた。
 彼はいつも、頑ななまでに自分を抑え言葉を飲み込んだ。
 聞かれた事に最低限答えるだけで、自分というものを固く禁じていた。
 解放するのは、行為の時くらいだ。
 それにしたって、全部ではないようだが。
 彼の怖さや怯えがどこからくるのか、男は無理に聞く事はしなかった。
 彼が話してもいいという気持ちになるまで、待つつもりでいた。
 それがここで暮らす際彼と交わした約束だ。
 恐らくは、胸が悪くなるほど陰惨な内容だろう。
 本当に聞く勇気が自分にあるか、男には疑問だったが、受け止めたいと思っているのは事実だった。
 言いたい事の代わりにしがみついてくる朔也を、こうして抱きしめてやれるように、受け止めたいと思っている。
 少しして、力尽きたのか朔也はだらりと腕を下げた。
 男はゆっくり身体を起こし、寒くないようしっかりと毛布をかけてやった。
 彼と離れた事で、気のせいでなく寒くなる。
 自分も、寒さよけの毛布が欲しいと、男は密かに思った。
 食欲はないと、朔也は首をごくわずか振る。 
 男は足元に置いた袋から、買ってきた清涼飲料水を取り出し、ストローをさして朔也の口元に持っていった。
 恐る恐るといった風情で、朔也は口を開けた。
 よほど喉が渇いていたらしく、くわえるや結構な勢いで飲み込むのを見て、男はほっとしたように笑った。
 同時に胸の奥がずきずきと痛くなる。
 一体誰が、彼をこんな風にしてしまったのだろうか。
 自分は比較対象にならないが、彼らはもっと活発に笑い、怒り、大いに喜んで時に泣くものだろう。
 しかし朔也は…男は考えを中断させた。
 彼への侮辱に繋がるように思えたからだ。
 気持ちを切り替え、男は笑いかけた。
 全部で三本買ってきた、残りの二本を、すぐ手が届くベッド脇の棚に置く。
 それから、戻らねばならない時間になるまで男は静かに朔也の頭を撫で続けた。
 その間朔也は目を閉じていたが、眠ってはいないようだった。
 毛布をかけていても寒気が襲うのか、時折肩を竦めたりして小さく身じろいだ。
 やがて時刻がやってくる。
 男は、仕方なく時計を見た。
 撫でる手を離したら目を開くだろうと予測した通り朔也は目を開けて、強張った顔付きになった。
 つらそうに瞬きしながら、それでも必死に男の顔を見る。
 気のせいでなく、引き止めていた。
 もちろん、男もそうしたかった。
 留まりたかった。
 何も言わない彼でも、傍にいて見守るだけでも、ここにいたかった。
 だって、こんなに近くなった事はないのだ。
 あんな風に抱きついて頼ってもらえるなんて、こんなに懸命にしがみついて離すまいとするなんて、彼を苦しめている高熱にさえ感謝してしまう。
 愛しさが後から後から込み上げてくる。
 男は、朔也の左耳に手を伸ばした。
 朔也の目が手の行方を追って動く。
 そしてまた男を見上げる。
 視線を受け止め、男は額に手を当てた。
 少し、下がっただろうか。
 眠りなさい、男は促す。
 眠って、次に目が覚めたら、またここにいるからと、そう約束する。
 朔也は推し量るような目付きで長い事男を見つめ、それから顔を背けた。
 壁の方に向き、もう男を見ない。
 何かを断ち切る鋭い仕草に男は戸惑う。
 拗ねているのだとしたら…嬉しさを滲ませようとするが、今の動きはそういったものとは違って見えた。
 呼びかけながら、男はもう一度頭を撫でてやった。
 朔也は時折瞬きを交えながら壁をじっと見つめていた。
 その眼差しはきつくはなかったが、ひどく読み取りにくかった。
 熱で潤んでいるせいか、泣きたがっているようにも見えたし、一方で何も考えてはいない、ただ偶然視線の先にある壁を見ているだけにも思えた。
 そしてまた、何か深いものを考え込んでいるようにも見えた。
 いずれにしても、自分には推測も出来ない何か大きなものと戦っているのは、間違いないだろう。
 もっと自分をほしがってと望む彼の飢えを、どうにかして満たしてやりたいと思うのに、手立てはなかった。
 その事が本当に悔しかった。
 時間が押し迫る。
 朔也といたがる自分を引きずり、部屋を立ち去る。
 静かに扉を閉めた後、男は深く息を吐いた。
 ほんの何日か前、同じベッドで朝を迎えた時、彼が見せてくれたあの嬉しさと、おはようのひと言が、無性に恋しくなる。
 気付けば眦に少し涙が滲んでいた。
 忌々しげに拭って、濡れた指先を揉みつぶす。
 朔也がほしいのはこんな同情ではないのだ。
 分かっていても、また涙が滲んで、男を悩ませた。

 

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