爆発音が轟く直前、男は聞き覚えのある声を耳にした気がした。
 まさか、と思う。
 何度か続く爆発の混乱に上手く乗っかって、データを盗みに来た侵入者たちは逃げて行った。
 男は深追いせず、特異点の闘気も煙に巻く。
 それよりも、聞き覚えのある声の方が気になって仕方なかった。
 爆発の原因を調べに行っていた者からの報告によれば、たった一人の人間による犯行だという。
 まさか、という思いが深まる。
 ようやく確保し、先程処置室に運び込んだと聞き、男は向かった。
 間違いであってほしいと思いながら、処置室に足を踏み入れる。
 願うだけ無駄だった。
 だのに男は笑みを浮かべた。
 部屋の中央に置かれた簡素なパイプベッドの上に、いくつもの抑制帯によって四肢を拘束された青年が横たわっていた。
 手首、足首はもちろんの事、大腿や胴にまでベルトがかけられていた。多少の寝返りは打てるだろうが、他は全く身動き取れない状態だ。
 そして口には革製のマスクがかけられていた。内側に口内に含ませる為の球枷がついており、ベルトの金具にはご丁寧に鍵までついていた。
 薬か、あるいは別の方法で眠らされたのか、瞼は閉じられている。

「随分と厳重だな」
「はい、取り押さえる際かなりの抵抗を受けまして、その…噛み付かれた者までいましたので」

 男が尋ねると、二人ひと組の見張りの片方がそう説明した。

「なるほど」

 男が苦笑する。
 青年の顔や肩、腹部に痛々しい殴打の跡が残っているのはそのせいか。特に頬がひどいのは恐らく、噛み付かれた者が腹いせに何度も殴ったからだろう。
 そこまでされても使わなかったのか。男は思った。
 厄介なものを隠し持っていないか確認の為、青年は身ぐるみはがされていた。
 驚いた事に…あるいは当然とも言うべきか、彼は一丁のマシンガンの他、二丁のハンドガンそして予備の弾丸いくつかと、手のひらに隠せるサイズの小型ナイフを携帯していた。それから時計に回復の為のアイテムが少々。
 傍のテーブルに並べられたそれら銃やナイフの中、一番に男の気を引いたのは時計だった。
 蓋に美しい細工の施された、幾分古めかしい懐中時計。
 手に取り、蓋を開く。
 時計は動いていた。ただし、時刻は合っていないが。
 実にらしいと、男は笑う。
 文字盤に走る大きなひびの理由を、男は知っていた。
 時計をテーブルに戻し、男は再び青年へと顔を向けた。
 彼の身に唯一残された左耳のピアスが、天井からの灯を反射して白く輝いている

「これがマスクの鍵です。気を付けて下さい、かなり凶暴な奴ですから」
「ありがとう。では、外の見張りを頼む」
「分かりました」

 二人が出ていくのを見届けた後、男は青年に歩み寄った。頭の方に周り、伸ばした両手で頭部を掴むと、指先で慎重に探る。
 右、それから左。
 細身の体躯に似合わず青年は頑丈なようで、調べた限りではどこにも異常はみられなかった。
 安心して男は手を離した。
 直後、青年は目を覚ました。
 置かれた状況に一瞬ぎょっとするが、視線の先に男を捕らえた途端安心したように緊張を解いた。
 その様子に男は笑みともつかぬ何かを顔に浮かべ、手にした鍵で口枷を外しにかかった。

「私も、色々と君にひどい事をしたものだが…噛み付かれた事はなかったな。一体彼らは、どんな悪事を働こうとしたのかね?」
「ピアスまで取ろうとしたから」

 噛まされた口枷のせいで疲れた顎を噛み合わせ、青年は淡々とした声で言った。
 ああ、と男は納得した。

「それは済まなかった」

 左耳にした白金のリングは、青年にとって最も大事なものの一つ。大事な心のよりどころ…母親の最後の形。不用意に手を出せば、そうなるのも当然か。
 苦いものが胸を過ぎる。男は噛み殺した。

「ならばペルソナで退ければよかっただろうに。封じられた訳でもないのに、なぜ使わなかった?」
「……気が付いたら、噛み付いてた」

 ばつが悪そうに目を泳がせ青年は言った。
 おかしそうに男が笑う。
 笑い声の間青年はよそへ目を逸らした。

「彼らを逃がす為の陽動係が捕まるとは、とんだヘマをやらかしたものだな」
「僕は……違う。みんなとは別の、個人的な理由で来たんだ。ハデな爆発を起こしたのは、そのせめてもの罪滅ぼしのつもり」

 顔を背けたまま青年は言った。
 個人的な理由という言葉に男は一瞬動揺めいたものを顔に過ぎらせた。

「なら……一体何をしにここへ来た」

 そこでようやく青年は顔を戻した。

「本当かどうか、確かめにきたんだ」
「この亡霊が、本当かどうか?」
「そうじゃない。僕が三年前に見たものが、本当かどうか」
「馬鹿な子だ……そんな事の為に、わざわざここまで来たのか。こんな目にあってまで」

 青年の口端にこびりついた血を、男は指先で乱暴に拭った。

「来た甲斐があった」

 痛みに顔をしかめながらも、青年は穏やかに言った。
 そして微笑を浮かべる。
 男は呆れ果て頭を振った。動揺を嘲笑で隠す。

「……本当に、馬鹿な子だ」
「自分でもそう思うよ。お前なんか……殺したいほど憎んでいるのに」

 青年は刺し貫く鋭さで男を見た。しかしそれは長くは続かなかった。寂しげな、どこかほっとした表情で笑う。
 男は無言で青年の拘束ベルトを外し始めた。
 青年は戸惑いつつ、自由になった身体を起こした。

「この部屋に監視カメラはない。安心していい」

 言って男は、テーブルの下の棚に入れられた青年の服と靴を手に取り放った。
 足元に放られたそれらに、青年は困惑の色を浮かべた。

「来た甲斐があったとまで言われては、応えない訳にはいかないだろう?」
「……ありがとう」

 嬉しそうにする青年を、男は小馬鹿にした顔で笑った。
 殴られた痛みを堪えるのとは違う形で、青年の頬が強張る。

「さて。残念ながら私はもうとっくに死んでいるが……君の気が済むなら、三年前の続きに付き合おう」

 青年が服を着込んだのを見届けると、男はテーブルの銃を差し出した。
 青年はそれを受け取り、しばし見つめた後、首を振った。

「あの時、結局僕は撃たなかった。だから、続きなんてない」

 それに、と目を上げる。

「確認出来たから、もういいんだ」

 どこか清々した顔で、青年は肩にかけたホルスターに銃を収めた。残りの銃とナイフも各々装備する。

「あの時僕が見たものは、間違いじゃなかった」

 あの時とは大きく見た目が変わっても、それは何の問題でもないと、青年は満足そうに笑った。
 青年の言葉が意味するところを理解し、男は観念した様子で首を振った。

「まったく、君は……」

 言葉にならない。
 下手に喋ると泣いてしまいそうだ。もはや涙など流せないが。
 しっかり飲み込んでから口を開く。

「その、時計」
「……もらっては、駄目ですか?」

 青年はポケットから取り出し、男…元の持ち主におずおずと差し出した。

「いや。君に大事にしてもらえるなら、嬉しいよ」

 手を上げ、男は嘘偽りなく言う。
 青年の顔に小さく笑みが浮かぶ。

「見ての通り呪われた品だが……それでも良ければ、持っていくといい」

 自嘲気味に男は笑う。
 呪いという言葉に青年は眼を眇めた。

「これが、突然動き出したから、もしやと思って色々調べて……ここへ来たんだ」
「わざわざ呪われにくるとは、君もとんだ物好きだな」
「……いいんだ。もうずっと前に、覚悟を決めたから」

 言葉通りの強い光宿る瞳で、青年は首を振った。
 昔もそして今も、男を心底怖がらせ、だからこそ魅了してやまない綺麗な瞳がそこにあった。顔付きも大人びて、驚くほどしたたかになって、けれど変わらないもの。

「そうか」

 死人の胸にも熱いものは込み上げるのかと、男は心の中で笑った。

「君が自分の信じる道を行くように、私も、自分の進むべき道が分かったよ」

 男の言葉に、青年の顔がかすかに歪む。

「本当は少し、嫌気がさしていたんだがね。君のお陰でようやくけりがついたよ」

 呪われた者らしく、全うしよう。
 男は肩を竦め、潔く笑った。
 青年は肩を落とし、俯いた。
 その眼差しがぎょっと強張る。
 腰のホルスターに収めた銃を、男が素早く抜き取ったのだ。

「時計の代わりに、これをもらっていいかな」

 何の為にと視線で問いかける青年に笑いかけ、男は頬に手を差し伸べた。

「こんな顔で帰っては、妹御が心配するだろう。せっかくの良い男が台無しだ」

 そんな危険を冒してまでも、彼はここに来た。最も大事とする妹よりも、自分を優先してくれた。彼らとも別行動で、たった一人で。
 それこそが、男がずっと、欲しかったもの。
 その為に、どれほど愚かな罪を重ねた事か。
 言葉に出来ぬ代わりに、せめて傷を癒す。

「………」

 流れ込んでくる回復の魔法に目を伏せ、青年は小さく礼を言った。

「さあ、もう行きなさい。帰りの安全は保証出来ないが、それだけあれば、心配はいらないかな」

 青年の肩にあるマシンガンの類を指し、男はおかしそうに笑った。
 それから背を押し、促す。

「せめて最期に無様な死にざまを晒す事で、少しでも君の気が晴れる事を祈るよ」

 嘯き、もったいぶったせせら笑いを浮かべる男に、青年は首を振った。
 何か云いたげに向かってくる青年の眼差しへ、男は冷ややかに言う。

「そんな顔をする必要はあるまい? 私は、君の大事なものをいくつも奪い傷付けた……本当なら君に殺されて然るべきの、どうしようもないろくでなしだよ」

 胸に、覚えのある痛みが走る。肺を病んだ人のような、突き刺す痛みが。
 青年は弱々しく言った。

「ああそうだよ、お前なんか憎くてたまらないよ……でも僕は撃たなかった。あの時――」
「私は……私はね、また色んなものを奪って、この世界を暗くするよ」

 青年の言葉を遮り男は嗤う。

「……そんなの嘘だ」
「調べたのなら、嘘ではない事は分かるはずだ」
「調べたから……嘘じゃないって分かるんだ」

 それを確認する為に来たのだと言う青年に、男は口を噤んだ。
 彼には嘘など通用しない。
 彼だけはもう、知っているのだ。
 呪われた者同士の絆。

「……ならば尚更、駄目だ。これ以上、自分を縛る必要などないだろう? 君は言ってはいけない」
「もうずっと前に……覚悟を決めてる。お前なんか殺したい程憎んでる、一生許さない、でも……あの時」

 あの時。
 しゃくり上げ、青年は痛む胸を押さえまた首を振った。
 青年はあれから何度となく、男の顔を描いた。
 募る恨みの分だけ、それは増えていった。
 描く度に、怒りと憎しみと、そして全く別のものが育った。
 三年前のあの日から今日まで、この瞬間まで、行きつ戻りつしては育った想いに突かれるまま、男を見やる。
 数え切れぬほどの恐怖と絶望をもたらしながらも、最期に真実を語ってくれたあの目を、もう二度と見る事は出来ないが、青年の中にはしっかりと残っていた。
 男の心に確かに残っていた。

「だから僕は――」

 それへと想いを注ぎ、青年は言った。
 今日、ここに来た本当の目的を、三文字に託す。

「………」

 男は小さく息を吐いた。
 全て分かった上で、全て飲み込んだ上で、それでも尚まっすぐぶつかってこられては、もう逃げ場はない。
 青年は、もう覚悟を決めたと言った。
 自分も、覚悟を決めたはずだ。
 隠し通す時間は終わった。
 男は両手を上げ、そっと青年の頬を包み込んだ。神聖なものに触れる畏れが手を震わせる。
 どうにか口を開く。

「私も君を――」

 青年はただじっと眼差しを注ぐ。
 そこには怒りも憎しみもない。
 あるのはただ穏やかな、愛しい恋人を見つめる優しい微笑。
 翳に繋がれた死人さえも灼き尽くすほどに、熱を帯びたもの。
 受け止め、男は想いを告げた。

「君を――殺したい程、心から愛したよ……真物」

 途端に胸に突き刺さった痛みが跡形もなく消え去る。
 安心しきった顔で目を閉じた青年の頬を慈しむように何度も撫で、男は静かに口付けた。
 自然と抱き合う形になり、二人はしばしその時間を共有した。
 男の脳裏に、暗く沈んだ音の無い部屋で奴に抱きしめられた記憶が過ぎる。
 震え上がる。
 まるで違う。
 本物がもたらしてくれる揺るぎない安堵感に男は素直に身を委ねた。泣けないのが少し悔しいところだが…血の通った腕の何と心地良い事か。ざまあみろ、と心の中で奴に悪態を吐く。
 ざまあみろ。
 いくらお前が糸を繰ろうとも、惑わそうとも、人の心までは自由に出来ない。
 お前の寄こす恐怖と絶望は確かに絶大だが、彼は全てを覆す。
 この腕の中にあるものを、お前は一生理解出来ないだろう。矛盾だらけで不完全な、だからこそ大切なもの。お前にはないもの。お前が唯一敵わないもの。
 羨ましいだろう、ざまあみろ。
 こんなろくでなしにも、ほんのわずかながら救いが用意されていた。
 男は救い主に囁いた。

 ありがとう

 青年は何度も頷いた。
 やがて名残惜しそうにゆっくりと腕を解くと、わななく手で男の頬に触れる。
 邪神の所有物である証を指先でなぞる。
 男は笑い、その手を軽く握った。

「君を呪った罰が当たったんだよ」

 青年は悔しそうに顔を歪め、俯いた。
 それから目を上げ、正面に立つ男の顔をしっかりと見据える。恐怖と絶望、怒りと憎しみを植え付け、そして全く別の感情を与えた男の顔を魂に刻み込む。

「さようなら……神取鷹久」

 青年は震える唇でそう告げた。

「そういえば初めてだな、君に名前を呼んでもらえるのは」

 男は嬉しげに口端を持ち上げた。
 青年も笑い返し、そして断ち切るように踵を返した。
 前を向いて歩き出した青年の背中へ、男は願いを込めて手向ける。

 君の道行に、幸多からん事を

 青年は大きく頷いた。
 その少し後、研究所は再び爆発の混乱に見舞われた。

 

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