暗く沈んだ音の無い部屋。
 水の滴る振動。
 蠢く何かの気配。
 上も下も分からぬ部屋に私の手足を感じる。
 少しぬるい、纏わり付く粘液。
 私は目を開けているのか、それとも闇を見ているのか。
 感じるのは、振動と、気配と、私の手足。
 そして纏わり付く粘液。

「見ろ」

 不意に声がした。
 耳元で。
 頭の中で。
 私は反射的に目を開く。
 暗く沈んだ中で認識する貌は脳が感じ取っているらしく、全て消失した夜の闇にそれだけがくっきりと浮かんでいる。
 黒い髪に黒い目、白い肌の――少年。
 血がぞわりと騒ぐ。
 昂奮に似た抑揚が唇にのぼる。

「嬉しいか」

 また声がした。
 身体中に歓喜が駆け巡る心地好い声。
 私は涙を零さんばかりに喜び、自然に両手を持ち上げてその白い肌に触れる。
 頬を包む手に少年もまた喜び、上からそっと手を重ねた。
 今までの記憶、生きてきた中でも見た事もない美しい微笑みに、心が震える。
 何故こんなに嬉しいのかわからないのに。
 少年が誰なのかわからないのに。
 嬉しいのだ。
 知っているのだ。
 嗚呼、消滅するまでずっとこのままでいたい。
 このままでいい。
 唐突に、少年の手が力を増す。
 握り潰さんばかりの圧迫に手の骨は軋み、私はまさかと不安がりながら少年を凝視する。

「この手でまた『僕』を抱けるのが、嬉しいか」

 変わらぬ美しい微笑みと、少年の右手に現れた銀のナイフとを交互に見つめ、瞬きを忘れる。

「この手でまた『僕』を抱けるのが、嬉しいか」

 形良い唇が同じ言葉を綴り、ためらいもなく私の手を切り裂いた。
 手の甲に赤い亀裂が走り、血が滴る。
 私はため息をもらし、もう片方の手も同じように切り裂く少年をぼんやりと見つめる。

「この腕で」

 痛みという毒を持った蛇が、赤い亀裂となって両腕に無数の傷をつくる。

「この身体で」

 今度は、脇腹に痛みが走った。
 それでも少年の微笑みは崩れず、まるで麻酔薬のように感じられるそれに私は釘付けになる。
 次第に切り刻まれていく身体を曝したまま。
 うっとりと、少年を見つめる。

「表情でさえも」

 頬にナイフが刺さる。
 ぶつりと皮膚を突き破り食い込む刃の感触におぞましさを感じたが、間近に寄せられた微笑と至福に一瞬で消え去る。
 流れ出た瞬間から熱を失い凍り付く血の粘りが、不思議と心地好い。
 傷付けられ、切り裂かれる事に恍惚を感じている。
 全て消失した夜の闇に、血が赤く光り飲み込まれていく。
 私はそれをぼんやりと見送る。
 これほどの官能と引き換えならば、いくらでも失って構わない。
 真っ赤に濡れ傷だらけになった腕を、少年はおもむろに掴むと、自分の肩にまわさせた。
 安心しきった様子で胸に顔を埋めてくる少年を、私は恐る恐る抱きしめる。
 瞬きした瞬間に消えてしまうのではないかと、びくびくしながら。
 それは杞憂に終わった。
 抱きしめて、少年の存在を腕に感じても、消えはしなかった。
 安堵し、頬を寄せる。
 切り裂かれ、血を溢れさせたままで。

「また『僕』を抱けるのが嬉しいか」

 腕の中で少年の声がした。
 確実に失われていく生命を忘れ――そもそも私は生きているのかいないのか――嬉しいと答える。

「嬉しいか」
「嬉しい」

 込み上げる喜びに涙が滲む。

「嬉しいか」

 確かめるように呟き、少年は唇をゆがめた。
 翳の邪悪さに、背筋が凍り付く。
 私はそこでようやく、自分の身体が冷たい事に気付いた。
 はじめから冷たかった事に気付いた。
 私は死んで『いた』のだ。

「ならば」

 驚愕し、震える私を見下ろして少年が言う。

「もっと喜ばせてやる」

 感動すら覚えた声が、耳障りな音に変貌する。

「数え切れぬほど抱いた『僕』に逢わせてやる」

 やめろ
 やめてくれ
 同じ顔で喋るな
 お前は偽者だ――
 私は愕然とする。

「その代償に」

 少年の指が私に近付く。
 自らの涙と、睫毛に触れる少年の指とが、最後の光景となった。
 直後、瞼から食い込む指先の激痛に、私は全てが消失した闇に絶叫を迸らせた。
 その後は。
 完全な闇だけが続いた。
 這い寄る混沌の振動と、気配と、少しぬるい粘液が、私の中に入り込んできた。
 運命からは逃れられない。
 私も、彼も。
 それがどうしようもなく、悲しかった。



 なのに顔は笑っていた。

 

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