Dominance&Submission

そして、つまり

 

 

 

 

 

 五階の高さから眺める夜桜は、また格別であった。
 児童公園のまばらな灯りに照らされて、うっすらと色づいた花びらがぼんやりと浮かび上がる。まるで吸い込まれそうな美しさだと、桜井僚は小さくため息をはいた。

「いいね」

 しみじみと呟く。
 彼から二人分ほど間を空けて、同じように眼下の桜を楽しんでいた神取鷹久は、本当にと頷き手にしたワイングラスを軽く傾けた。
 そしてもう片方の手に持っていたワインに合うつまみ…タコとオリーブを交互に串に刺したそれを、口に運んだ。
 もぐもぐと無心で味わう男にふと笑い、僚は美味いか、と尋ねた。神妙な顔で何度も頷く様に、また笑いをもらす。
 男が味わっているそれは、以前買ったレシピ本を参考に作ったものだ。作ったと言っても、ひと口大に切ったものを交互に串に通しただけで、焼いたり煮込んだりといった工夫は特にしていない。それでも男は、これまで作ってきたつまみ同様絶品だと持ち上げて、食事中は一つ味わうだけで我慢し、食後である今の時間、ワインと一緒にじっくり噛みしめていた。美味そうに食べ、美味そうに飲んで、夜桜を楽しんでいる。僚はその横顔を眺め、幸せを噛みしめた。時々吹き抜ける風はひやりと冷たいが、酒も飲んでいないのにほてった頬には丁度良かった。
 男が食べ終わった頃合いに口を開く。

「あのさ、ちょっと聞きたいんだけど」
「どうした」
「なんで、そんな離れてんだ」

 昼間はすぐ横に並んだのに、何故今は随分と間を空けているのか、不思議だった。そちらからだと、また桜の見え方が違うのだろうか。 
 うむ、と神取は言い淀んだ。酒臭い息をまき散らして、嫌われたくないからだ。
 答えを聞き、そんな事と僚は鼻を鳴らした。そもそも、男が酒臭かった事は一度もない。一度も感じた事はない。煙草の匂いはジャケットからするけど、それだって不快に思った事はない。むしろ好きな方だ。ふとした時に鼻先をかすめて、思わずどきっとした事もあったくらいだ。これは恥ずかしいので言わないが。

「鷹久って、酔わないよな。あんまり顔色も変わらないし。酔っぱらう事ってあるか?」

 しばし考え、神取は軽く首を振った。

「覚えている限り、正体失くすほど飲んだ事はないな」
「へえ。その半分でも俺にあったらな」

 いいなと、僚は羨ましく男を見やった。

「まあ体質なのは仕方ないさ」
「でも鷹久も、俺と一緒に飲めたらもっと楽しいだろ」
「いいや。そうでなくても君はこうして隣にいて、一緒に笑ってくれる」
「……笑ってくれりゃ、誰でもいい?」
「まさか。君だから好きだ」

 微笑んでいるが、その眼差しは強烈なほど真剣で、僚はわざとつまらなそうにふうんと唇を尖らせ頷いた。そんな顔でもしなけりゃ、した瞬間から真っ赤になって恥ずかしくなるほど、嬉しさいっぱいの顔で笑ってしまいそうになるからだ。だから必死に噛み殺す。本当は、めまいがするほど嬉しかった。
 今日は朝からずっと、顔が赤くなるような事ばっかりだ。

「俺はね」

 自分の好みを述べる。
 優しくしてくれるなら誰でもいい
 俺の事見てくれるなら誰でもいい
 そして俺の言葉を聞いてくれるなら誰でもいい
 そして俺の作る料理好きだって言ってくれるなら誰でもいい
 そして――
 そして――
 そして――
 始めは「誰でもいい」の言葉にあまり面白くなさそうに聞いていた神取だが、延々と連なる「そして」を聞く内に表情は段々と変わっていった。笑いを堪えるそれだ。
 数え切れないほどの「そして」に続く「誰でもいい」に我慢出来なくなり、とうとう腹を抱えて笑い出す。
 僚は少しむっとした顔で誰でもいいんだと唇を尖らせた。

「そうか」

 目の前にいる人物の特徴を一つももらすまいと羅列した彼。
 彼が挙げたものが全て当てはまるのは、この世にただ一人。
 つまり。

「私の事だね」
「違う、誰でもいいんだって」
「でも君が言っているのは、私の事だろう」
「さあ、知らない」

 僚はぷいと踵を返し室内に戻ると、ソファーに埋もれるようにして座り、そっぽを向いた。背後で、男が戻ってくる物音がした。続いて窓を閉める音。少ししてちらりと目の端だけで見やり、冷たく言い放つ。

「またニヤニヤしてる」
「君こそ」
「してないだろ」
「そうだな、すまん」
「……してるかも」

 今度は顔ごと男を振り返る。そして堪えきれず、と笑い出す。
 神取はダイニングテーブルにワイングラスを置き、僚に歩み寄った。
 僚からも引っ張り寄せてソファーに座らせ、ぶつけるようにして唇を重ねた。唇と舌を二度三度と吸っていて、ある時はっと目を見開く。
 おろおろした様子で離れる僚に、神取は軽く眼を眇めた。彼がどうして慌てているのかはすぐに推測出来た。酒に弱い自分の事だから、今のキスで酔ってしまうかもしれないと心配しているのだ。

「では今夜は、キスなしでいこうか」

 気遣ったつもりだが、間違った気遣いだった。
 僚はたちまち不機嫌な顔になり、もごもごと喋り始めた。
 三年になったら泊りはなしで、しばらくの間はゆっくりした夜を送れなくなる。今日が最後の夜なのに、思い切りしたいと思っているのに、なんて意地悪なんだと不満のこもったふくれっ面に、神取は軽く目を閉じた。
 余りの可愛さにめまいがする。

「……君が好きだよ」

 むくれる恋人を抱きしめ、深く口付ける。僚の手が動きかけて、止まった。拗ねているのを肌に感じ取り、どうか機嫌を直してくれと、神取は背中をさすった。

「もしも眠ってしまったら、責任もって介抱するよ」
「寝なかったら?」
「うんと可愛がってあげる」
「……じゃあ寝ない。絶対寝ないから」

 少し強気な物言いに胸がぎゅうっと締め付けられる。見えない彼の手が、心臓を鷲掴みにした。完全に捕らわれた。

「可愛がってほしい?」

 両手でそっと顔を包み込む。
 僚はその上から自分の手を添え、たくさん、と唇で綴った。

 

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